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他力信心ではない信心

他力の信心について蓮如上人は、このように教えられています。

信心という二字をばまことのこころとよめるなり。
まことのこころと読む上は、凡夫自力の迷心に非ず、全く仏心なり。
(御文章)

他力信心は、世間で言われる信心とは全く違う。
信心とはまことのこころとよめる。
まことのこころとよむからには、迷った凡夫が自分でこしらえた信心ではない。
それは自力の信心です。
他力の信心は、自分の心でこれだけは間違いないと思って信ずる自力の信心ではない。
仏の心であると。
阿弥陀如来から頂く心であると。
だから他力の信心と言うんです。
仏心とは他力の信心。

ですから、親鸞聖人の教えて下された
金剛不壊の信心が人生の目的であるということを
よく知らねばならない。

しかし、凡夫自力の迷信を
他力の信心だと勘違いしている人がたくさんいる。
本当の金剛の信心を知らないかわいそうな人たちがたくさんいるんです。
こういうのを異安心といいます。

異安心とは、親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人の信心と異なった信心をいいます。
この三人の方の信心は同じですから、
この三人の方の教えを通る線はたった一本です。

それぞれの人について、いろんな事を言う人がいます。
それぞれバラバラに、私はこう思うとか、
こう味わっているとかいろいろいいますけど、
一味の信心を貫く線は一本しか引けない。

それと異なるものを異安心といいます。
一味の安心ではない。
そういう異安心の一つなんだね。

正しい仏教講座で、金剛の信心とはどういう信心か、
はっきり知って貰いたいと思います。

# by sakyamuni | 2017-11-22 12:00 | 信心

鈴木その子の葬式

私達は何かに心をたてて生きている、
心をたてるとは信ずる、たよりにする、
あて力にするということです。

私達は何かを信じて生きている。
何かをたよりにして生きている。
何かをあて力にして生きている。

お金を信じている人はお金の上に心が立っている人。
地位や名誉もそうです。

しかし、そう言う信心では立っている土台が崩れたときに、
心も倒れてしまいます。
ブッシュさんとゴアさんが大統領になろうと立候補して、
ブッシュが勝ちましたね。
ゴアさんが負けた。
大統領という地位を手に入れようと思ったけど、その心が倒れたんだね。
昔、鈴木その子さんが亡くなったけど、あの人は美しさに心をたてていた。
資産はなんと150億。
家だけでも50億の豪邸。
きれいになりたいという女性にいろいろなものを提供していたのでしょう。
ところがその人もなくなってしまった。
葬式には、夫も娘も出なかったそうです。
きっと家族はさておいてお金儲けに走っていたんでしょう。
しかし、そんなお金も、1円ももっていけない。

では、絶対に崩れない信心を何と言うか。
これを真実の信心と言います。

# by sakyamuni | 2017-11-21 12:00 | 信心

随自意の願と随他意の願

阿弥陀如来の三願に随自意の願随他意の願があります。
「随自意の願」とは阿弥陀仏が本心誓われた願です。
「随他意の願」とは本心ではないが導くために衆生の心に随って建てられた願です。

もう少し解説しておきます。
あなたがたの苦悩の根元は心の闇ですから、
それを破ってあげますよ、これが本心、18願ということです。
しかし衆生にしてみればそんなの分かりません。

心の闇というのも分かりません。
それを破るというのもよく分かりません。
せいぜい分かるのは、善いことをしなさい、ということ。
実行して知らされるのは、善のできない自分。
そしたら念仏称えなさい、と勧められる。
善をしたら、念仏称えたら、そしたら助かるだなんて、
阿弥陀如来は全然思っておられないんです。
私達の力では助かるのは無理なんです。
しかし衆生にはそうは思えない。
衆生の心に随って、というのは、善で助かる、念仏で助かると思って
いる衆生にあわせて、ということです。


# by sakyamuni | 2017-11-20 12:00 | 実践

阿弥陀如来が48願の中で、本心を誓われたのが18願です。
「十八番」訓読みすると「おはこ」もっとも得意とする、という意味です。
18番、いいイメージがする数字ですよね。

親鸞聖人は
「この大願を選択本願と名く」
と言われています。

この前には「大信十二嘆釈」ということで、
救われた心の世界はこういうものだと書かれています。

18願には三つの心にすると誓われています。
「至心」「信楽」「欲生」です。
ここから「本願三心之願」といわれます。
この3つは「信楽」におさまります。

これを明らかにされたのが、天親菩薩。
そして曇鸞大師は「信」とは「破闇」、
「楽」とは「満願」の身であると言われました。
この身にするのが、
阿弥陀如来の究極の目的です。

# by sakyamuni | 2017-11-19 12:00 | 信心

ブッダの教えとは?

仏教に何が教えられているのかというと、
「如来所以興出世
 唯説弥陀本願海」
といわれています。
如来とは、釈迦如来のことで、お釈迦さまのことです。
ブッダのことです。
ブッダが、地球上に現れて、教えられたことは、
唯説だった。
たった一つのことだった。

では、そのたった一つのこととは何かというと、
弥陀の本願です。
弥陀の本願とは、阿弥陀仏の本願のことです。

親鸞聖人の教えといいましても、
さらに親鸞珍しき法をも弘めず 
如来の教法をわれも信じ人にも教え聞しむるばかりなり。
といわれています。
珍しい教えというのは、新しい教えということです。
何か誰も知らない教えを作り出したということではなく、
如来の教法を私もみなさんも一緒に信じましょう。
あなたも共に聞かせて頂きましょう。
ということです。

如来の教法とは仏教です。
ですから、親鸞聖人の教えといっても、
仏教以外にありません。

仏教に教えられたことは、阿弥陀仏の本願一つですから、
親鸞聖人が教えられたことも阿弥陀仏の本願以外にありません。

では蓮如上人の
「聖人一流の章」の最初の部分を見ましょう。
聖人一流の御勧化の趣は信心をもって本とせられ候。
「聖人一流の御勧化」とは阿弥陀仏の本願ということ、
「趣」とはもっとも大事な点、ですので、
阿弥陀仏の本願でもっとも大事な点は、
信心一つで助けるということです、
ということになります。

仏教の教えといっても、
親鸞聖人の教えというのは、
阿弥陀仏の本願ということです。
それはただ信心決定一つによって救われるます。


# by sakyamuni | 2017-11-18 12:00 | 仏教