親鸞聖人は、
是非知らず邪正もわかぬこの身なり
といわれています。

さらに親鸞聖人のお言葉をお弟子が書き残した歎異抄には、
の二つ総じてもって存知せざるなり
とおっしゃっています。

是非もも知らない姿は、
阿弥陀如来の光明に照らし出された実機です。
これが私たちの本当の姿ですよというのが正、
私は正しいこと知っているといっているのが邪です。

そして何も分かっていない自分がすくわれたのは
弥陀の本願あってこそです。
これが正です。
自分で幸せになれるというのが邪です。

正は、そういう実機のを救うという阿弥陀仏の本願です。

これを明らかにするのが仏弟子の使命です。

こういう真実を叫ぶと非難が起きるといわれていますが、
その通りみんな自分が正しいと思っているから非難が起きます。

仏法を伝えようとしたら家族に反対された
一度聞いてみてといったら金集めだといわれた

そのときは根競べです。
いつまで仏教を聞けるか、
仏教を聞くのは、阿弥陀如来のお力によるものですから、
必ず向こうは負ける勝敗は明らかです。
向こうはくたくたになる
しばらくの間のことです。

阿弥陀如来のご念力に勝てるものはありません。
あきらめきれんと諦める
阿弥陀如来の根気に勝てる人いない

悪口受けたくなければ破邪顕正しなければいいのだ
ともいわれた。
非難攻撃の中さけばれたのが親鸞聖人です。


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by sakyamuni | 2018-06-17 12:00 | 顕正 | Comments(0)

仏法者のすべきこと

ブッダは遺言に
「破邪顕正せざるものは仏弟子にあらず」
といわれています。

破邪顕正とは、邪を破り、正をあきらかにする
ということです。

ですが、破邪顕正しようにも何が邪、正かを知らなければなりません。
あいまいなら気が起きないですし、できません。

まず、何がで、何がすべきことなのでしょうか?
あの人は万引きした、
殺人した、あの人のアリバイがある。
これは仏法者の仕事ではありません。

うちの妻は浮気しているのか。
していないか。
スキャンダルを問題にして仰ぐのがマスコミです。
仏法者がすることではありません。

「我必ずしも聖にあらず、彼必ずしも愚にあらず、ともにこれ凡夫のみ」
といわれています。
他人をみてあの人間違っているということできません。

ではここで邪とは何か、
邪正とは何かといいますと、
これは世間事ではありません。

真実の仏法をねじ曲げるものが邪で、
真実の仏法が正です。

真実の仏法には、
本当の生きる意味が教えられていますから、
本当の生きる意味を伝えましょう
ということです。



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by sakyamuni | 2018-06-15 13:00 | 顕正 | Comments(0)

教学と行学

仏教を聞く上で、教学と行学が大切です。
教学力とは教えの深い理解です。

自利利他の教えです。
そして、人に仏教の話をするときに分かりやすくなります。
色々な失敗があるがもっと勉強させて頂きましょう。

行学とは、仏教の教えの通りに実行することです。
仏法で言われる善を身に付けているかどうか。
教学で学んだことを真面目にやるのが大切です。
まずは聞法が一番大事です。
そして
六波羅蜜(ろくはらみつ)、
6つです。

そういうことを立派に心がけていく人は、
輝く存在ですから、
みんな仲間になりたくなります。

失敗する場合にはこの逆を実行しています。
けちで、約束を破り、すぐに怒り、怠けます。
仏教は伝わりません。

仏教の教えの通り実行していったら徳が身につきます。
徳のある人、誘蛾灯のような人です。
ああなりたいとあこがれる存在になりましょう。


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by sakyamuni | 2018-06-13 13:00 | 実践 | Comments(0)

浄土真宗を広められた蓮如上人は、
あるときこのようにおっしゃっています。

同じく仰せに、「今日の日はあるまじきと思え」と、仰せられ候う。
何事も、かきいそぎて、物を御沙汰候う由にて候う。
ながながしたる事を御嫌いの由に候う。
仏法のうえにては、明日のことを今日するように、いそぎたること、賞翫候う。
(御一代記聞書104)

今日の日もないんだと言われ何事も急がれています。
仏法者は明日することを今日する。
蓮如上人はこのように過密スケジュールを過ごしておられます。

ご説法では一言一言噛み砕いておられるが、
壇上から降りられると変わられます。
ものすごく早い。

蓮如上人のお言葉で若き仏法者が私たちにメッセージを残しています。
日々全力投球、これが蓮如上人のお姿です。

今日死んでしまったら、そういう気持ちで
説くので真剣で聞いてください。
今日が最後のご説法だと言う気持ちです。
そういう気持ちで聞いてもらいたい。

親鸞聖人の時代、天皇の女官であった鈴虫・松虫は、
夜、抜け出して仏教講座に聞きに行きました。
発覚したら命はないかもしれない。

暇なときに仏教を聞かせていただけばいいと思いますが、
どうして行ったのでしょうか。
後生の一大事があるからです。

昼間に話を聞かせて頂き、
その日の夜に仏教を聞かずにおれなくなったのです。

今の苦しみは一時の苦しみ。
明日はないという気持ちで求めて阿弥陀仏に救われる。

だから私たちのここ一つ聞いたならば底抜けの幸せ者になれる。
大宇宙一の幸せ者。
求めてきてよかった。

その先にある、求め抜いて頂きたい。
求道の道程には色々あるが、それは幸せのため。
それを苦しいと投げ出すのは勿体ない。
それが幸せの姿なのだから。
後生の一大事という大問題の解決に向かって進んで頂きたい。

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by sakyamuni | 2018-06-12 18:00 | 仏教 | Comments(0)

法尋という人が作った
親鸞聖人の歌にこうあります。

真宗の組織は
この時ここがまことぞと
教行信証六巻に
真意を開き著わさる

法然上人が明らかにされた阿弥陀仏の本願です。
それを書かれた選択集の御心を明らかにされたのが教行信証です。
選択集の書写を許されてから十数年の年月がたって
やっと教行信証のご執筆に取り組まれました。

それも御執筆だけでなく
その前に田植え歌があり、
田植えで仏法聞きにこれない人に
なんとか伝えたいと田植えをいっしょにされたりしています。

その後、お疲れの中末代の人にもなんとか伝えたいと
御執筆されました。

親鸞聖人はその後、お亡くなりになるまで修正を加えられています。
本当の仏教の真髄が詳しく明らかにされています。


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by sakyamuni | 2018-06-10 12:00 | 教学 | Comments(0)

仏の任務とは?

ブッダはどうして仏のさとりを開けたのか、
このように説かれています。

「三世諸仏 念弥陀三昧 成等正覚」
(楞伽経)
念弥陀三昧とは一向専念無量寿仏と同じ意味です。

等正覚とは元来51段目の意味ですが、
この楞伽経のお言葉だけは別でここでは仏のさとりのことです。

三世の諸仏も阿弥陀如来のお力で成仏しました。
だから、三世の諸仏も釈迦仏も阿弥陀如来のことを師匠と言われています。
弟子である釈尊は師匠である阿阿弥陀如来の本願一つを説かれたのです。

「弟子のつとめは師匠の御心を明らかにすること以外にない」
それ以外にあってはならない。

つとめとは使命、任務、役目、出世本懐のこと。

出世本懐とはこの世に生まれて死ぬまでに果たさなければならないこと。
その弟子のつとめを明らかにされた言葉が
正信偈にあるこちらです。

如来所以興出世
唯説弥陀本願海

弟子とは釈迦仏、
師匠とは阿弥陀如来
その御心とは本心・本願です。

これ以外にないということが「唯説です」。
弟子であるブッダは師匠である
阿弥陀仏の本願一つを説くのが目的であった。

如来とはお釈迦さまのことですが、
諸仏も同じです。


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by sakyamuni | 2018-06-08 13:00 | 善知識 | Comments(0)

仏教書で最も読まれている、鎌倉時代の
歎異抄の最初に、
「弥陀の誓願不思議」
とありますが、
「不思議」は、
なぜつけられているのでしょうか?
そこには何かの教えがあるのでしょうか。

不思議というのは今救われるということです。
今絶対の幸せになれるというのは、
想像を絶します。

あと10年はかかるだろうと思う人もあるかもしれません。
今あなたが絶対の幸せになるというのは想像を絶します。
今救われる誓願を説かれる人というのは稀です。

こういうことを意識して書かれているのではないかと思います。
一言一言にも深い御心があるのではと思わずにはおれません。

一座一座が勝負ということです。
仏教では、今回聞きぬくんだという心、
この心が一番大切です。

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by sakyamuni | 2018-06-06 12:00 | 歎異抄 | Comments(0)

仏教書で最も読まれている、鎌倉時代の
歎異抄の最初に、
「弥陀の誓願不思議」
とありますが、
「不思議」は、
なぜつけられているのでしょうか?
そこには何かの教えがあるのでしょうか。

不思議というのは今救われるということです。
今絶対の幸せになれるというのは、
想像を絶します。

あと10年はかかるだろうと思う人もあるかもしれません。
今あなたが絶対の幸せになるというのは想像を絶します。
今救われる誓願を説かれる人というのは稀です。

こういうことを意識して書かれているのではないかと思います。
一言一言にも深い御心があるのではと思わずにはおれません。

一座一座が勝負ということです。
仏教では、今回聞きぬくんだという心、
この心が一番大切です。

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by sakyamuni | 2018-06-06 12:00 | 歎異抄 | Comments(0)

浄土真宗を最も正確に、多くの人に伝えられた
蓮如上人は、このように教えられています。

遠きは近き道理、近きは遠き道理なり。
灯台もと暗しとて仏法を不断聴聞申す身は、御用を厚く蒙りて、
「いつものこと」と思い、法義におろそかなり。
遠く候人は、仏法を聞きたく、大切に求むる心あるなり。
仏法は大切に求むるより聞くものなり。
(御一代記聞書129)

まず、「遠きは、近き道理。近きは、遠き道理なり」です。
遠いとか近いというのは、最初の方は、
その一座の仏教講座を聴聞する時に乗り越えた苦労の大きさ、
払った代償の大きさです。
そういう苦労のないぞという人が近い人です。

1分1秒時間を仕事しなければならないのに、
それをなんとか何とか乗り越えて求めます。

親鸞聖人の時代の平太郎さんも
お金も時間も有り余っていたわけではなくて、
私達よりも大変ななか、お金のないなか、
血のにじむような思いをして茨城から京都まで
聞法に行かれました。

そういう苦労もなく仏法聞いてきる人は、
近い人と言われて、
そういう苦労を乗り越えた人が、遠い人。

後の遠い、近いというのは、
救われるのに遠いとか近い
ということです。

ここで蓮如上人は、
大切に求めようと言う心の事を
言われています。

そういう苦労を乗り越えた人は、
大切に求めずにおれないんですね。

ですから、蓮如上人は、足できけといわれて、
仏教講座に足を運ぶのに、
乗り越えた苦労がおおければ多いほどいいんですよ。
大切に聞かせていただけるから。

しかし、残念なことに遠くにいて遠い人いますよ。
まず、代償を払った、苦労した、遠くまで聞きにいった、
お金ないなか求めた、時間ないなかそうすれば、
オートマチックに真剣に聞けるかというと、
そうでなく、遠くにいて遠い人になってしまいます。

一見大変そうでも、その人にとって
実は余りそうでなければ、大切に求める心
起きてこない。

あくまでも仏教は、心がけが大切なんです。
そのなかなか変わらん心を変えさせて頂くために
苦労させて頂いても
また、そこで心がけを変えようとせねば、
無駄になってしまいます。

どんな苦難も乗り越えて
仏教講座に足を運び、
真剣に聞かせて頂きましょう。


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by sakyamuni | 2018-06-04 12:00 | どうしたら助かる? | Comments(0)

正しい信心は一つです。
二つも三つもありません。

親鸞聖人は三重廃立で正しい信心を教えてゆかれました。
廃立の廃とは捨てるということです。
捨てものと拾いもの、
捨てるべきものと、信ずるべきものが3つあるのです。

その三重廃立の一つ目は内外廃立です。
仏教以外のすべての宗教外道であり、
助からないから捨てよと言われたのが
内外廃立です。

内外廃立とは、
内とは真理の内側ということで、
真理のことです。

仏教は、大宇宙の真理である
因果の道理に立脚して説かれていますので、
内道=仏教です。

外とは、真理の外側ということで、真理ではない、
真理に外れた教え、外道のことです。

因果の道理に反しています。
外道を信じていては助かりませんから、捨てなさい。
そして仏教を信じなさい。

親鸞聖人は、このようにいわれています。
「諸の修多羅に拠りて真偽を勘決し、外教邪偽の異執を教誡せば(親鸞聖人)

「九十五種世をけがす
 唯仏一道きよくます
 菩提に出到してのみぞ
 火宅の利益は自然なる(親鸞聖人)」

「唯仏一道きよくます」の「唯」とは、
唯一の唯で、たった一つということです。
唯一つ仏道、仏教だけがきよらかである、
間違いないのだということです。

蓮如上人も、このようにも教えられています。
「更に仏法にてはなし、あさましき外道の法なり、
 これを信ずるものはながく無間地獄に沈むべきにて徒ごとなり(蓮如上人)」

真理に外れた教えを捨てて
真理を信じなさいということです。


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by sakyamuni | 2018-06-02 13:00 | 因果の道理 | Comments(0)