日本で最も読まれている仏教の本歎異抄には、
本当の生きる意味は、無碍の一道へ出ることだと
教えられています。

ではどうすれば無碍の一道に出れるのでしょうか。

「念仏を称えたら救われると教えられたのが親鸞聖人だ」
と教科書に書かれているものもありますが、
間違いです。

親鸞聖人の言葉が書き記されている歎異抄には
摂取不捨の利益にあづかるのは
どういう時だと教えておられますか。

「念仏申さん」と思いたつ心の発るとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめ給うなり。

念仏称えようという心の起こる時と言われています。
「すなはち」その時、同時にということです。

念仏を称えようという心の起こる時ですから、
心の問題です。

心で称えようと思って、
それから心が体に命じるのです。
ですから念仏を称える前です。

歎異抄にこんなにハッキリと教えられているのに、
どうしてそんなことになるのか。

無碍の一道へ出た体験がなければ
歎異抄を読んでいても分からないのです。

無碍の一道へ出ることが、
本当の生きる意味です。


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by sakyamuni | 2018-05-31 13:00 | どうしたら助かる? | Comments(0)

虚無感の根元である心の闇は、
後生暗い心とも言います。

後生とは死後のことです。

暗いというのは、よく分からない、ハッキリしないことをいいます。
科学に暗い、政治に暗い、パソコンに暗い
という言い方をしますが、
科学についてよく知らないことを
科学に暗いといいます。

後生暗い心とは、死んだらどうなるのか
ハッキリしない心のことです。
死後の世界はあるのか、無いのか。

無いなら無いでハッキリすれば不安はないのですが、
どちらもハッキリしません。

死んだ後なんか無いよと言っていながら、
親しい人が亡くなると冥福を祈るといいます。

冥福とは冥土の幸福ということです。
冥土とは死んだ後の世界のことですから、
死後を認めていないと出てこない言葉です。

また、慰霊祭というのがありますが、
死んだあと霊魂が残ると思っているのです。

死んだ後、何もなくなってしまうとは思えないのです。
その後生暗い心をぶち破って下されるのが
慧日、智慧の太陽です。

これを浄土真宗を明らかにされた親鸞聖人は、
「無明の闇を破する慧日」
といわれています。

それは太陽が一つしかないように、
たった一つです。


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by sakyamuni | 2018-05-28 12:00 | 苦悩の根元 | Comments(0)

人間の生きる目的は、本当の幸せになることです。
お金や財産、地位、名誉ではありません。
どうすれば本当の幸せになれるのかわからずに、
五月病になったり、スチューデントアパシーになったり、
ミッドライフクライシスになったりします。

ではどうすれば本当の幸せになれるのかというと、
それには、後生の一大事を解決するしかありません。

どうすれば後生の一大事を解決できるのかといいますと、
蓮如上人は、白骨の章に、
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
 阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」
と教えられています。

まず、
「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」
というのは、お願いするのではありません。

ブッダは、七千余巻のお経の結論として
「一向専念無量寿仏」
と教えられています。

無量寿仏とは阿弥陀仏のことです。
一向専念ですから、
阿弥陀仏一つに向きなさい。
阿弥陀仏一仏を専ら信じなさいということです。

なぜおブッダはこのようなことを言われたのか。
後生の一大事を解決できる仏は、阿弥陀仏しかないからです。
「一向専念無量寿仏」
のことを、
蓮如上人は、
「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」
と教えておられます。
阿弥陀仏に後生の一大事を解決してもらいなさい
ということです。

そして最後の
「念仏申すべきものなり」
の念仏というのは、生きる目的を果たして
本当の幸せになった後の
お礼の念仏のことです。

阿弥陀仏のお力で後生の一大事を解決していただき、
本当の幸せになると、その嬉しさのあまりお礼を言わずにおれません。
そのお礼の言葉が南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏という
念仏です。


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by sakyamuni | 2018-05-27 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

蓮如上人の白骨の章は、
このように白骨という言葉が遣われているので
白骨の章といわれます。

「されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」

朝、元気な顔で行って来ますと出かけた人が、
夕方には変わり果てた姿で帰ってくるということもあります。

毎日交通事故でたくさんの人が亡くなっています。
昨日も沢山の人が亡くなりました。

その人達は、朝出かけるとき、
今日が自分の死ぬ日だと思って
泣きながら洗顔したでしょうか?

今日が死刑執行の最後の日となったら、
永遠の別れの日ですから、
泣き泣きです。

ところが、昨日交通事故で死んだ人たちは、
私たちとまったく同じように
顔を洗ってでかけたと思います。

死ぬと思っていない人がどんどん死んでいるのです。

「されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」

朝は元気だったのに、夕方には死んでいるのです。

「既に無常の風来りぬれば、即ち二の眼たちまちに閉じ、
一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬる」

無常の風とは死のことです。
仏教では死のことを無常の虎と、虎に譬えることもあります。
無常の風が吹いたならば、目は閉じ、息も絶えてしまいます。
そんな時、吸った息を出してくれと思っても、できません。
永遠に息が切れて、顔色も血の気が引いてしまいます。

そんな儚い人生、どうすれば
本当の幸せになれるのか、
仏教に教えられています。

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by sakyamuni | 2018-05-25 18:00 | 無常 | Comments(0)

働いても幸せになれない

親鸞聖人は、この世の中のことを難度海と言われました。
また生死の苦海とも言われています。
今日、科学が発達しても、苦しみは変わりません。
こんなに苦しいのならば死んだ方がましだと自殺する人は、
日本で、分かっているだけでも年間3万人近くもいます。

病死などで隠れている人もいれるとその3倍はいると言われています。
今日、交通事故で毎日沢山の人がなくなれらていると報道されていますが、
交通事故で亡くなる人は年間1万人ですから、
自殺する人はその3倍です。

科学が発達して、臓器移植がなされるようになっても、
苦しみは変わりません。
この海には丸太や板切れが沢山浮いています。
どんな丸太がありますか。
お金、財産、地位、名誉、家族、その他いろいろです。
私達はこれらのものをあてにして生きています。
全人類は金信心なのです。
神や仏を信じているだけが信心ではありません。
頼りにする、当て力にすることを信心といいます。
これらのものを信じていても必ず裏切られます。

火山の噴火の事故で、これらのものを失ってしまう人もいます。
「この坂を越えたなら、幸せが待っている、
そんな言葉を信じて、越えた七坂四十路坂」
と都はるみは歌っています。

この苦しみが解決できれば幸せになれると思って頑張るのですが、
また別の苦しみがやってきます。
これでは働く意味がわかりません。

「越えなばと思いし峰に来てみればなお行く先は山路なりけり」
長生きさえすればいいのか。
「長生きすれば恥多し」
と言われます。

こんな恥ずかしい目に遭うのならば、
あの時に死んでいればよかったということになります。

この世には当て力になるものは何一つありません。

親鸞聖人は
「火宅無常の世界は万のことみなもって空言たわごと
真実あることなきにただ念仏のみぞ真実にておはします」
と仰っておられます。

この世のすべてのものは、
あて力になるものはありません。
その中一つだけあります。

ただ念仏のみぞ、
真実にておはしますと言われていますが、
念仏とは阿弥陀仏の本願のことです。

難思の弘誓は難度海を度する大船
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり

このお言葉では、難思の弘誓というのが阿弥陀仏の本願です。
阿弥陀仏の本願は、苦しい人生を明るく楽しく渡す大きな船です。
この船に乗せていただいて、
人間に生まれてよかったという身になるために
生きているのです。
この船に乗るのが本当の生きる目的です。

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by sakyamuni | 2018-05-23 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

仏法聞き難しとか、
真の知識にあうことは難きが中になお難し
といわれます。

なぜでしょうか。
それは、私たちに仏法を聞こうという心がないからです。

欲望などの煩悩を満たそうとする心はおきます。
金儲けなら目を光らせますが、
仏教を聞くとなると、目は閉じていきます。

ところが、お金儲けをしていると、
不条理に思うことがあったり、
虚無感におそわれたりします。

その答えを知りたいと思うところから導かれて
仏教を聞くようになるのです。

それでも、本当の仏教を教える
真の知識はほとんどいないので、
苦しんでいるのは、煩悩のせいだ
という程度です。

仏教の真髄は、
真の知識にあわなければ決して分かりません。

正しい仏教の先生が教えてくださることが
流転輪廻の際なきは疑情の障りにしくぞなき
ということです。

疑情というのは、煩悩ではありません。
心の闇です。

苦しみ悩みに果てしがないのは、
心の闇が根本原因だ
ということです。

この世の中でそういうことを明らかにされるかたどれだけいるでしょうか?
考えるとみんな煩悩と間違えています。

本当の仏教を知ることができるのは、
大変な幸せなことです。


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by sakyamuni | 2018-05-21 13:00 | 仏教 | Comments(0)

この坂を越えたなら幸せが待っている
そんな言葉を信じて
こえた七坂四十路坂

この坂さえ越えたら完成ある、
終わる、
終止符打てる、
と思ってのぼります。

この大学さえ入ったらピリオドを打てる
幸せが待っていると思います。
ところが実際入ると試験があります。

就職難はもっと激しい坂になります。
会社に入ったら勉強から解放されて
お金も稼げて幸せになれると思います。

ところが会社入ったら、
英語の勉強しないとやっていけません。
リストラなどもあります。
苦しいことは次から次へときりがありません。

サッカーのカズは
一時はヒーローでした。
ドーハの悲劇で生卵ぶつけられます。
トルシエ監督から代表選ばれません。

中田はどうでしょうか?
一番上手といわれるほどになっても苦しみはなくならなりません。
そうしているうちに体力の限界来ます。

永遠に繰り返します、きりもきわもなく
苦しみの連続です。
これを仏教で流転輪廻といいます。

きりがないのは勉強が一番分かりやすいと思います。
お受験、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学……
上に行けば行くほど競争が激しくなります。
結局少しも苦しみ悩みから解消されない、
どこまで行っても苦しみがなくなりません。

どこまで行けば何をどう頑張れば幸せになれるのでしょうか?
どこまでいってさいげんがありません。

際限がないのは疑情一つが原因だと
仏教で教えられています。

原因を間違っているから幸せになれないのです。
それは間違った信心です。

よくよく仏教を聞かなければなりません。



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by sakyamuni | 2018-05-19 12:00 | 苦悩の根元 | Comments(0)

自殺は生きる意味の否定

という本がベストセラーですが、
凶悪な事件が多くあります。

17歳の少年が警官の警棒を取って殴る、
その少年に発砲、重症という事件がありました。

バスジャックなどの事件、
凶悪犯罪が次から次へとおきる不安な状況です。
昔では考えられないことが起こっています。

ものは豊かになったが自殺する人が年々増えています。
かつて30348人
私は充実していますスカッとしていますという人が自殺しません。
私ばかりなんでこんな目に…と思っているからです。
自殺生きる意味の否定です。

家庭不和、引きこもり人間と付き合うのがストレスです。
家族が顔を合わせるのが食事のときだけ、
テレビが何台もあると顔を合わせません。
居間にあるときテレビがついているといるが消すとばらばらです。
それだとうちの中心はテレビです。

不安不満が充満しているという実態があります。

政治や経済もそうですが、
医学や科学の目的は人類を幸せにするためです。

科学の発達が逆に不安にしています。
人類が破滅に向かっています。

ダイナマイトを作ったのはノーベルです。
便利になるはずが軍事に使われます。
人類の不幸になるのは残念ということで
平和のために作られたのがノーベル賞です。

原子力は
オイルショックなどで資源が減っていく時代に
非常に注目されましたが最近は下火です。

一度事故を起こすと保証しきれません。
年間の予算に当たる
今世界的には風力発電です。
結局昔に返っています。
何の為の科学なのでしょうか?

諦めるしかないのでしょうか?

答えは仏教にあります。



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by sakyamuni | 2018-05-17 18:00 | 生きる意味 | Comments(0)

省みよ日に幾度も省みよ 怒りの絶え間なければ

気がついたら楽がしたい、あいつがむかつくこいつがむかつく、と。
ちょっとした苦労を怠ったが為にあとあと後悔します。

しかもその期間は長い、八万劫中大苦悩の阿鼻地獄です。

欲望怒り愚痴の為に仏法を聴こうとする心を失っていきます。
貪愛の心常に能く善心を汚し、瞋憎の心常に能く法財を焼く。
一度人身を失ってしまえば、万劫にもかえってえこないんだぞ、
今しかチャンスはない。
何の苦労もなく達成できるのに。
仕事でいってもちょっとしたことで一生を棒にふる人があります。
せっかくのチャンス。
万劫にも億劫にもないチャンスです。

こういう仏法を求めるチャンスはもうないんですよ。
今現在仏法を求めなければいつ助かるときがあるだろうか。
この後生の一大事がおこってからではもう遅いんだぞ。
いま死後の世界へ飛び込む時は現実と逆転します。
仏教を聞き抜いて、決して後悔してはいけませんよといましめておられます。


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by sakyamuni | 2018-05-15 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

人生は夢幻

私達が仏教講座に行くのは後生の一大事の解決一つが目的です。
それを教えられた親鸞聖人のお言葉があります。

「噫、夢幻にして真に非ず、寿夭保し難し、
呼吸の頃即ち是れ来生なり。
一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。
此の時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。
願わくは深く無常を念じて徒に後悔を貽すことなかれ」
(教行信証行巻)

最初に「噫、夢幻にして真に非ず」
とおっしゃっておられます。
夢幻といいますのは現実に対する言葉です。
毎日職場へ行って仕事をする、それは現実です。
夢のように思っている人もいますが。

そのように私達が生きていることは現実です。
それに対して私達は後生と聞くとなにか遠い
夢幻のように思います。

生きているということは現実で、
死ぬということは夢幻のようにしか
思えないのが私達です。

生まれてから死ぬまでを人生といいますが、
一日生きたという事は
一日死に近づいたと言うことは
まぎれもない事実です。
それは、光陰矢の如しといわれるように、あっという間に過ぎていきます。
そして過ぎ去ってしまった日は夢のように思います。
あっという間です。

人生で例えば一生懸命お金をもうける、
一日8時間働く。
しかしそうやってばいとしたことも過ぎ去ってしまえば
夢幻のようなものです。
それを昔の中国の故事では、邯鄲の夢といわれます。

その時はそれが現実だと思っていますが
過ぎ去ってしまえば夢のように思います。
儚い人生です。

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by sakyamuni | 2018-05-13 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)