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二河白道では、
群賊、悪獣がたくさんでてきます。
そして行くな行くなといいます。
群賊、悪獣とは、求道聞法を妨げるすべてを
群賊、悪獣にたとえられています。

怪しいぞー、そっちへ言ったら死ぬぞー
一緒に遊ぼうといいます。

ところが、
尊い人だけが一人、
行けー行けー
と言います。

旅人も、こちらの岸では幸せにはなれなかったと思って
一歩、また一歩と進んでいきます。

行けば行くほどの河、怒りの河の波が激しくなります。
みんなを満たすことばかり考えています。
ですから川の流れに反して、
こっちに進もうとするわけですから、
色んな摩擦がおきてくるんです。
煩悩が障りになて苦しんでいる人、
そういう人に、西方の彼の岸の尊い人の、
水火の難をおそれるな、という呼び声が聞こえるのです。
怒りを恐れている人に対して言われるのです。
恐れていない人には聞こえないのです。


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by sakyamuni | 2018-04-29 12:00 | 二河白道 | Comments(0)

人間はガラクタと同じ?

人間はガラクタと同じだという人がいます。

ガラクタとは何でしょうか。

ガラクタがあると
「こんなの捨ててちょうだい」
といいます。

使い道がない。
ごみ。
あるだけ邪魔になる。
捨てた方がいい。
そういうものです。

必要なものはガラクタとは言われません。

ところが私なんてガラクタ。
生きている意味がない。
いない方がいい。

こういう思いをもっている人が多いということです。
自分なんて人から必要とされていない。

これは若者だけではなくて、中年、熟年、老年の人にも共通する気持ちだそうです。
中年でこのような思いが起きてきた人は、
ミッドライフクライシスがおこります。

老年ではスピリチュアル・ペインといわれます。

意味のない人生だった。
生きる意味が分からない。
私なんていなくてもいい、と思っている人多い。
自殺する。
すぐにきれる。
カーっとなって、大声出したり、人を殺したりとか。
こんな事件が頻繁に起こっています。

親が自分の子供を熱湯かけて殺したとか、
踏みつけて殺したとか。

人間に生まれてきたけれども、
何のために生きるのか分からない。
寿命は延びて、科学が発達してきたが、
人間に生まれてきてよかったー
という喜びをもっているかというと持っていないのです。

仏教ではこれ一つ、
人間に生まれてきてしなければならないことは何か、
それについてはっきり教えられているのです。


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by sakyamuni | 2018-04-27 13:00 | 生きる意味 | Comments(0)

人生は儚い邯鄲の夢

「人間はただ電光・朝露の夢幻のごとくなり」

蓮如上人が御文章で言われています。
1帖目11通。

電光」とは稲妻、稲光のことです。
ほんの一瞬です。速いです。

あの人は90才、100才といっても、
その人の人生はあっという間なんだと。

朝露」もあっという間に消えてしまいます。
儚いのです。儚い代名詞です。

私たちの一生涯、思い通りにいったとしても、
邯鄲の夢のようにあっという間に消えて行くものが
私たちの一生なんですね。

夢の中で宝くじ1億円あたったとします。
目が覚めてしまえばもう何にもありません。

それが私たちの一生涯なのだと。
無常の風、それが吹くと
どんな人でもばたばたばたと死んでしまうのです。
いつ死んでいかねばならないか分からないのです。

今死んでいかなければならないとなった時、
これは自分の体だ、とか
自分の家族だとか、
自分の金だといったも、
全部おいていかねばならないのです。

もし、今日死んだら、
この体が3日後には灰となってしまうんです。


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by sakyamuni | 2018-04-25 12:00 | 無常 | Comments(0)

無常の幸せとは

歎異抄で、この世は火宅無常の世界といわれます。
歎異抄には親鸞聖人のお言葉が書かれています。

親鸞聖人は、無常の世界だとおっしゃるんです。
無常とは常がないということです。

ずーっと変わらずにあるもの、
そういうものはないんですね。

刻一刻と変わっています。
この世の物は常がない、変化していきます。
私たちは幸せになりたいです。
みんながそうです。

仮に幸せということを定義しますと、
こう言えると思います。
安心と満足。

幸せとは本当の安心、本当の満足です。
これをみんな求めているのです。

仏教ではこの世の幸せを相対の幸福と言います。
私たちが知っているこの世の幸せをすべてを言います。
簡単に言えば、比べてみて喜べる幸せのことです。

具体的にいうと、健康、家庭とか、お金とか、地位、名誉、財産とか。
他にもたくさんありますが、こういったものを追いかけています。
学問とかスポーツとかいろいろあるでしょう。
私たちが住んでいる世界は無常の世界。

すべてのものが移り変わっていく世界。
ずーっとこのままであって欲しいと思っても、
崩れてしまうのです。

では本当の幸せは何か
ということが仏教に教えられています。


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by sakyamuni | 2018-04-24 13:00 | 歎異抄 | Comments(0)

仏教書で一番読まれているのは、
鎌倉時代の歎異抄です。
歎異抄には、親鸞聖人のお言葉が記されていることと、
大変美しい文章で書かれていることで有名です。

その中に、親鸞聖人は、
私たちすべての人を、
煩悩具足の凡夫といわれています。

凡夫とは人間のことです。

煩悩とは、欲望怒り愚痴など、
私たちを煩わせ、悩ませるものです。
具足というのは、それでできている、塊だということです。

歎異抄は親鸞聖人のお弟子が書いたものですが、
親鸞聖人ご自身が書かれてたものにも
同じように書かれています。

親鸞聖人が私たち凡夫というものを
どのように言われているかというと、
『一念多念証文』の中に言われています。

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、
もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、
臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず。
(一念多念証文)

死ぬまで煩悩というのは変わらない、
なくならないのだということをおっしゃっています。

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by sakyamuni | 2018-04-23 12:00 | 歎異抄 | Comments(0)

生きる目的と因果の道理

因果の道理と阿弥陀如来の本願はどういう関係があるのでしょうか。
親鸞聖人は阿弥陀仏の本願を
難度海を明るく楽しく渡す大船
といわれています。

その難思の弘誓に乗せて頂くにはどうしたらいいのか、
お釈迦さまが導くために説かれたのが因果の道理です。

親鸞聖人がここに、
本当に安心満足できる大きな船があるぞ、
と叫んでおられます。

私達は大船がみえずに、
丸太や板切れを求めて苦しんでいます。

私達の生きる目的、出世の本懐は、
この難度海を度する大船に乗せて頂くことです。
ブッダはこの大船があるということを私達に伝えるために、
この世にお生まれになられました。

ブッダの出世の本懐はこれを伝えることです。
ここで、ブッダの出世の本懐と
私たちの出世の本懐が一つになります。

目的はこの船に乗せて頂くことです。
その船に乗せて頂くには
因果の道理を知らなければなりません。


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by sakyamuni | 2018-04-22 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

無駄に過ごしている人生

蓮如上人が、このように教えられています。

在家無智の身をもって、いたずらにくらし、
いたずらにあかして、一期はむなしくすぎて、
(御文章1帖目12通)

「在家無智」とは、私たちは在家です。
在家というと、家に居るということで、
出家と在家とありますが、
お釈迦さまのように家を出られて修行されるのは出家の人です。
家というのは、煩悩をあらわしています。
みんなが集まっているところではそうではありませんが、
家に一人でいると、何でも欲望のおもむくままにしてしまいます。

そういうところにあって在家無智というのは
無智とは智慧がないということです。

これは先を見る力がないということです。
100%行く先である死んだらどうなるがわからないということです。
死んだらどうなるが全く分からないで、生きる目的がわからずにいます。

欲のまにまに煩悩のままに生活をします。
いたずらに暮らし、いたずらに明かし、
何もせずにただ、だらだらと時間を過ごす。
なんにもしないうちにあっという間に一日が過ぎてしまう。
そういっている間に光陰矢の如しで一生があっというまに過ぎていく、

毎日、毎日自分の欲を満たすことに一生懸命です。
本当の生きる意味を知らなければなりません。


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by sakyamuni | 2018-04-21 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

自分がすばらしい教えにあわせていただいたとなれば、
自分一人だけで聞かせて頂いてはあまりにももったいない、
それで、縁のある人にお伝えせずにはおれなくなります。

自分が幸せになったら、
人も幸せにせずにおれなくなります。

法を施さずにはおれなくなります。
これは布施の中でも法施です。

言葉をかえれば
顕正せずにはおれなくなります。

一人でも多くの人に仏教をお伝えしたい。
生んでくれた両親、昔の友人、
あの人にもこの人にも、
という気持ちになります。

たまたま、そば屋に入って、
そのそばが今まで食べたことのないような
美味しいそばをたべたら、黙ってはおれなくなります。

「あそこのそばは美味しいよ」
無口な人でもいわずにおれなくなります。

本当に美味しいと思ったら、
人に伝えずにおれなくなります。
顔中口にして言わずにおれなくなります。

家族に反対を受けるから言わないほうがいいと思っても、
本心は言わずにおれないのです。

私たちも仏教の教えを聞かせ頂いて、
聞かせていただいた喜びがあったならば、
人に伝えずにおれなくなります。


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by sakyamuni | 2018-04-20 12:00 | 顕正 | Comments(0)

私が落ち込んだとき

この記事を読んでいる人は、
仏教を疑っています、謗っていますという人はないと思います。
だけど、落ち込んだり、前向きになれない時があると思います。

こういう時に、ボーっとしているとか、
歌を歌って何も考えないようにするとか、

そういうのが自分にとってはいいんだ、
と思っている人は多いです。
しかし、縁がないんです。

そういう前向きになれないときこそ、
仏教講座に足を運んで、
同行との縁を持つと言うことが大事なんです。

同行というのは同じところへ行くと核ように、
共に、同じ本当の生きる目的を知り、
そこへ向かって進もうとしている人です。

お互い困っているときに助け合って、
大変いい影響を与えあうことができます。

どんなに落ち込んでいるときでも、
仏教講座に行く、ということが大切です。


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by sakyamuni | 2018-04-19 12:05 | 実践 | Comments(0)

仏教は、疑ってでも謗ってでもいいから、
聞きなさいと言われています。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人が
関東の稲田におられた頃、
弁円という山伏は、疑う謗るどころか、
刀を振りかざして殺しに来ました。

それというのも、
弁円の弟子に弁長という人がいます。

弁円から、親鸞聖人のところへいって様子を見てこい、
と言われて、親鸞聖人の浄土真宗の法話に変装して聞きに行きました。

最初は、聞こうと思っていなかったのですが、
聞いているうちに、うんうんなるほど、
と聞くようになりました。

そして最後には、弁円の弟子を引き連れて、
親鸞聖人の元へ行ってお弟子になってしまいます。

最初は、おかしなところがあったら
弁円のところへ行って報告しようと思っていたのです。

ところが、聞かせていただくうちに、変わっていきました。

誰しも最初は、矛盾があったら追及してやろうと思っていたかもしれません。
ところが、聞いているうちに、
そうだなあ、ということで知らされてきます。

そのため弁円自身も、
疑うどころか、報復のために
親鸞聖人を殺しに来ています。

ところが、親鸞聖人を見ただけで、
自分が間違っていたとわかり、
明法房と生まれ変わりました。

これは、親鸞聖人に近づいていったから、
生まれ変わることができたのです。


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by sakyamuni | 2018-04-18 12:00 | 聞法 | Comments(0)