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幸せが怒りになるとき

私達は、ただ生きているのではありません。
幸せを求めて生きています。

そして一切の苦しみ悩みを嫌い、
避けようとしています。

苦しみ悩みはどこから起きるのか考えてみますと、
信じていたものに裏切られた時に起きて来ます。

病人の苦悩は健康に裏切られたからであり、
家庭の悲劇は夫を信じ切っていた妻が、
夫に裏切られたからです。

子供に裏切られた親、親に裏切られた子供。
家の子供にかぎってと深く信じていればいる程、
裏切られた時の親の苦悩や悲しみ怒りは大きいのです。

このように、私たちは何かを信じなければ生きてはゆけませんが、
私たちは幸せを求めているので、
やがては裏切るものを信じて生きるということは
馬鹿げたことです。

決して裏切らないものは、仏教に教えられています。

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by sakyamuni | 2018-03-31 12:00 | 信心 | Comments(0)

煩悩で孤独で苦しい人生

私たちは家族を信じて生きていますが、
いつまでも一緒にいられることもありませんが、
必ずどっちかが先に死んで行くんです。
病気か事故か分かりませんが、
必ず裏切られていくときがあるんです。

家族といっても人間で、
煩悩具足の凡夫ですから、煩悩の塊です。
何でもかんでもうまくいくというわけではありません。

10人の人間が集まれば、10通りの信心があるわけです。
ですから、必ず意見の食い違いは避けられません。
そのままにしたら、仲が悪くなって、自分も苦しむ、相手も苦しむ
ということになってしまいます。
実際世間の団体は、そういう人間関係で苦しんでいるものばかりです。
派閥争いなんてそうですね。

そんな孤独苦しいところが人生です。

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by sakyamuni | 2018-03-30 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

才能や名誉は心の支え

人は何かを信じなければ生きていけません。

具体的にどんなことを信じているかというと、
考えたときに、どんなものがありますか。

どんなものを心の明かりにして生きていますか。
お金や健康、家族、才能、名誉……
挙げればきりがありません。

最後の才能や名誉も、心の支えにしています。
学問でも音楽でも、特殊な才能でも、
そういうものがあるから、自信になるんです。

賞をもらったとか、評価されたとか。
そういうことが心の明かりになるわけです。

明かりとか支えは非常に大事なものです。
それがない人というのは、かわいそうですね。
不幸なんでしょう。

何かを信じて生きているわけですが、
多くのことを信じることができる人は幸せですね。

贈る言葉にもあります。
明かりになるものがいっぱいあるわけですから。
少なくともその人にとっては。

そういった信心を多くの人が持っていますが、
他にもいっぱいあります。
地位、財産、お金とか、挙げればキリがありませんし、
一人一人違います。
また、同じものでも、
どれくらい深く信じているかは人によって違います。
バラバラなんですね。
深く信じている人は、これが自分の生きる意味と思っています。

そういった信心の中で変わらない幸せになれるもの、
正しいものを明らかにされたのが「正しい信心のうた」、
正信偈なんです。

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by sakyamuni | 2018-03-29 12:00 | 信心 | Comments(0)

親鸞聖人の教えは廃立です。
本当の幸せになるには廃立しなければなりません。

だから親鸞聖人は、
御遺言鈔に
当流は廃立肝要なり
といわれています。

覚如上人は
真宗に於ては、いくたびも廃立をさきとせり
いわれています。

これは信心決定する最も大切なことです。

廃立というのは、
廃はすてもの、
立はひろいものです。

それを信じておっては絶対に助からないから、捨てよ。

これが正しいものだからたてよ、
信じなさいという厳しい教えなんですね。


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by sakyamuni | 2018-03-28 18:00 | どうしたら助かる? | Comments(0)

人生は苦しみの海

人生は、苦しみ悩みの波が次々やってくる海にたとえられます。

波がきても小さい波ならかわいいものです。

小さい波なら、朝布団から出られない。
やっと出たら、冷蔵庫の中に何もない。
一日振り返るだけでも、いっぱいあると思います。

電車に乗ろうとした寸前でドアが閉まったり、
切符を間違えて買ってしまったり満員電車で押しつぶされたりします。

そうなりますと、小さい波だけでなく、
大波もあるわけです。
大波というのは、私達の人生を左右するようなものです。

大きな病気で死にかけるなんてのは、大波でしょう。
あるいは多額の借金を抱え込んだり、
人をひき殺してしまったり、
逆に車にはねられたり。

普通に生活していた人が、
ある日突然人をはねたばっかりに、
大波が突然やってくることもあります。

という本がたくさん売れましたが、
どう生きるかというのは、この苦しみの波を
どう乗り越えるか、ということです。
生き方の問題です。

乗り越えるだけなら、苦しみの波は
なくなるということはありませんから、
苦しむために生きていることになってしまいます。

苦しむために生きている人はいないんですが、
では、何のために生きているのか。

どう生きるかという生き方も大事ですが、
そうやって生きて行くのは何のためなのか、という
生きる目的がもっと大切です。


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by sakyamuni | 2018-03-27 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

電車に乗っていて急ブレーキがかかり、
子供が窓に頭をぶつけて泣き出しました。

普通は、窓を悪者にするところ、
あるお母さんが
「この柱も痛かったのよ、一緒になでてあげましょう」
と教えてやっていた。

普通は自分を苦しめた相手を憎みますが、
それが恥ずかしくなるような母親のせりふです。

あなたなら、どう思いますか?

たぶん、窓を叩いてしまうんじゃないでしょうか。
人のせいにする心があるということですね。
人のせいにして、自分を納得させる心がついつい起きて来るんですね。
こういう心を愚痴といいます。

私達が愚痴で苦しむときと言うのは、
何か悪い結果が返ってきて、
あいつのせい、こいつのせいと思うときですね。
そういう時って、心が落ち着かないんですよ。

因果応報なのについつい、他人のせいにしたくなる。
自分の原因を突き止めて、向上していけば、その人が得をするのに。

多くの人は、こういう愚痴の心で苦しんでいるのでしょう。
こういう心が自分にもあるなと知らされるから、感動するんですね。

愚痴愚痴とわからずに、苦しんでいるんです。


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by sakyamuni | 2018-03-26 12:00 | 因果の道理 | Comments(0)

中学の時は、高校生に憧れ、凄い大人に見えました。
高校のときは大学生が凄い大人に見えました。
ああなれば今みたいにくよくよした自分でなくなれる!
とか思ったものです。

しかし高校生を今見てどう思いますか?
子供でしょ!
大学生見てどうですか?
だらしないもんです。

何も変わりません。
人間として何か大きくなりましたか?

ああなったら……
こうなったら……
と思ったのに何にも変わっていません。

昔の歌に
越えなばと思いし峰に来てみればなお行く先は山路なりけり
というのがあります。

その山を越えたら幸せになれるのでしょうか。
ようやく越えたと思ったらまた山があります。

中間試験、終わったら遊ぶぞと思っていたら、
すぐに期末試験です。

あなたも、今までの人生試験だらけだったのではないでしょうか。
就職しても試験はあります。

ではこの山がなくなることあると思いますか?
ある!
という人いたらよほどおめでたい人です。
だんだん山は大きくなります。

若者の自殺者より中年の自殺のほうがよっぽど多いです。

どうすればこの山があるままで幸せになれるのかは
仏教に教えられています。




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by sakyamuni | 2018-03-25 18:00 | 生きる意味 | Comments(0)

阿弥陀仏とブッダの関係

阿弥陀仏とブッダの関係は?
御文章2帖目8通に蓮如上人がわかりすく教えられています。

ここに弥陀如来と申すは三世十方の諸仏の本師本仏なり

弥陀如来とは阿弥陀如来です。
三世十方の諸仏とは、十方とは、大宇宙のことです。

地球上で仏のさとりを開かれた方はブッダただ一人ですが、
大宇宙には、地球のようなものが数え切れないほどあります。

ですから、大宇宙には、たくさんの仏方がおられます。
たとえば大日如来薬師如来、奈良の大仏の毘盧遮那如来
などです。

そのような仏方の本師本仏が阿弥陀仏です。
本師本仏とは先生の仏ということです。

ですから、阿弥陀仏が先生で、大宇宙の仏方が弟子です。
地球に現れたおブッダも、大宇宙の仏の一仏ですから、
阿弥陀仏が先生でブッダが弟子です。
弟子のブッダは阿弥陀仏のことばかりを教えられたわけです。

天台宗の荊溪は、このように言っています。
「諸経所讚多在弥陀」
たくさんのお経にブッダが讃えられているところは、
多く阿弥陀仏にあり、ということです。

弟子とはそんなものです。
先生のことばかりをいいます。

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by sakyamuni | 2018-03-24 12:00 | 仏教 | Comments(0)

真如の月が見てござる

あざむくな真如の月が見てござる
という歌があります。

仏様は見聞知といわれます。
見ておるぞ、聞いておるぞ、知っておるぞ、
と私たちの種まきすべてお見通しであるということです。

とかく私たちは、人のみている前では、
うわべをとりつくろいがちです。

私自身もそうですから、よく分かります。

しかし、どれだけ人前でそのように取り繕ったとしても、
仏様の目はごまかせないのです。
家で一人いるとき、どうしているでしょうか。

一人でいるときは
とても他の人には見られたら困るような状態でも、
人前に来た時にはしゃんとしています。

それではみんなの目をあざむけても、
仏さまの目はあざむけないんだぞ、と、
阿弥陀如来相手の求道をしなさい、と教えられています。

毎日あわただしくって、忙しいからこそ、
朝きちんと起きて、掃除してという地道な種まきが大事です。

人に見られている、見られていないではなくって、
見られていないところでもしっかり教えを実践していきましょう。
そういう人には必ず大きな結果となって返ってきます。
因果応報です。


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by sakyamuni | 2018-03-23 12:00 | 因果の道理 | Comments(0)

私たちの悪を造る頻度

法鏡にうつれた私たちの真実の姿について
ブッダはこのように大無量寿経に説かれています。

心常念悪
口常言悪
身常行悪
曽無一善

心常に悪を念じ、
口常に悪を言い、
身常に悪を行じ、
曽て一善も無し

と読みます。

心も口も、身も常に悪の造り通しだということです。
この常という字は、一切途切れることなく、
ずっと、連続してと言う意味です。

一瞬たりとも、
悪を造らないことがないということです。

それに対して、つねには、恒という字のつね、もあります。
こちらの方は途切れ途切れに続いている状態をいう時に使います。

私たちは、悪の造り通し、
途切れることなく造っているのだと
ブッダは言われています。


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by sakyamuni | 2018-03-22 12:00 | 罪悪 | Comments(0)