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仏教を真剣に聞く方法

ある日学校で、クラスの隣の席の人が風邪で休みました。

先生から、
「学校に出てこないと授業が遅れるから、
ノートを取って話をしてもらいたい」
と言われます。

それからは聞き方が変わります。
自分の為ではなくて、彼に伝えなければなりません。

そういう責任を担うと自分もよく授業を聞かずにおれなくなります。
世の中には、本当に授業を聞かないと困るようなことが
いくつあるかと思うと、大いなる疑問符です。

しかし、仏教には、
など、人生で重大な問題について教えられていますから。

ほかの誰かに話をするという役割があると、
思わず、真剣に聞かずにおれなくなります。
正確に聞き取らずにおれなくなります。

だから一字一句間違いの無いように話をします。
だいたいではダメです。

接続語、語尾、助詞、これも違うと意味が変わります。
だいたい合っているように思うけど、違っています。
思い切り真剣に聞かずにおれなくなります。

たとえば、
北海道の札幌と函館、だいたい一緒と思います。
どちらも北の方、どちらもラーメンが有名、
どちらも寒いです。

しかし実際は車で8時間です。
だいたいあんな方面のことだろうというのは、
大きく異なります。

仏教ではいざ誰かに話をするとき、
真剣に聞かずにおれなくなります。
接続詞や語尾にも、そこまで正確に聞き取ろう、
こういう気持ちになるものなんですね。




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by sakyamuni | 2018-01-31 12:00 | 実践 | Comments(0)

生きる力の元

こんな言葉があります。
「法財施生きる力の元と知れ」
法施財施をして元気になったこと沢山あると思います。
そのような布施をせずに、
けちで貧乏になったこともあると思います。

ブッダは、
欲望の為に使うのは髭をなでるより簡単、
仏法にお金を使うのは生爪剥がれるより辛い
と言われますが仏法の為にお金を使うまでが大変です。

お金を使って聴聞に言って後悔することないと思います。
欲の為にお金を使って後悔したこと多いと思います。

仏法の為に、時間を使いますと、
他の時間も充実してくることあります。

欲望のことに時間をつかっても元気でません。
欲望を満たす喜びは続かないからです。
一過性のもので、何も残りません。

ところが、お金も時間も
人の為、仏法の為に使えば
幸せがやってきます。

善いたねをまけば善い運命が引き起こされる。
因果応報です。

布施が元気の元になるのです。


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by sakyamuni | 2018-01-30 12:00 | 実践 | Comments(0)

坊主と泥棒

ある仏教の先生は
親鸞聖人の非僧非俗の精神をご自身の精神とされています。

著作に
「おれは坊主じゃない!!」
と書かれています。

昔よく
「おい坊主!!」
と言われたそうです。

そんなときは
「おい泥棒!!」
と言い返すそうです。

「なんだそれは」
と聞き返されると、
「坊主じゃないものを坊主というから
お前のことも泥棒といったのだ」
と言いかえされたそうです。

坊主とは本来は素晴らしい意味なんです。
昔はBOSSの語源にもなったぐらい尊敬されていたのに。
今は坊主頭、坊主めくり、・・・・。
よい意味ではありません。

そこで、
「そんな死体に集まる禿げたか坊主じゃない!!」
と言われているのです。

僧侶というのは、すべての人を幸せに導く
尊い仏教の教えを伝える使命を持っているのです。




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by sakyamuni | 2018-01-29 12:00 | 実践 | Comments(0)

蓮如上人の御一代聞記書の115番に
「まことに一人なりとも信をとるべきならば身をすてよ、それはすたらぬ」
というお言葉があります。

蓮如上人といえば御文章ですが、
浄土真宗・親鸞聖人の教えを
分かりやすくお手紙で教えられたもので、
聖人一流の御勧化の趣とかあります。

御一代聞記書には親鸞学徒の心構え、
親鸞学徒はかくあるべし!!
と教えられたのもあります。

その一つがこの
「信をとるべきならば身を捨てよ」
といわれたお言葉です。

これは、真実の仏法を伝えるものの常の覚悟ですが、
「身を捨てよ」とは生活を、衣食住を気にするなということです。
心配いらんからといわれています。

「たとえ一人でも、求める人あらば、命かけて法を説け」
ということです。


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by sakyamuni | 2018-01-28 12:00 | 実践 | Comments(0)

生きる意味の不安と仏教

浜崎あゆみの歌詞に自分の事をガラクタと言っています。

TOBE
「誰もが通り過ぎてく気にも止めないどうしようもない
そんなガラクタを大切そうに抱えていた」

ガラクタっていうと
値打ちが無い、
大事にされない、
いてもいなくても一緒
という感じです。

ASongforXX
「居場所がなかった見つからなかった
未来には期待できるのかわからずに」

ここにいる意味、この世に存在して生きる意味
生きる目的がハッキリあるなら
値打ちがあります。

意味がわからないから値打ちがなくて、
何の為に生きているのかわからないのです。

「未来には期待できるのかわからずに」
今はガラクタでも未来には期待できるかっていうと、
期待薄です。
未来に対するぼんやりとした不安があります。

あるいは
孤独感
一人ぼっちな感じがします。

本当に心が許せて、わかってくれて、大事にしてくれる人がいない
そういうのが歌詞のあちこちに出てきます。
多くの人がそういう気持ちを持っています。

そういう心はどうして起きてくるのか
どうしたら解決できるのか
これが一番のポイントです。

浜崎あゆみは、それは言っていない
一言で言うと
「つまんねーよ人生は」
どうしてかはわからない

それにハッキリと答えを出されているのが仏教です。

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by sakyamuni | 2018-01-27 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

かつて産経新聞で、
「なぜ勉強しなきゃいけないの?」
この問いにどう答えるべきか、
文部科学省が模範解答を募集しました。

ところが、答えられる人がいませんでした。

「なぜ何々しなければならないのか」という問いは、
何々の部分が苦しい場合に起きてきます。

ex)嫌いな物を食べなければならない場合

ケーキの好きな人が、
「なぜケーキを食べなければならないのか」
とは言いません。

ピーマンが嫌いな人が、ピーマンを食べるのは辛い、
苦しいと感じて、
「なぜピーマンを食べなければならないのか」
と思います。

それと同じように、生きていく上でつらい、
苦しいと感じる時に、
「なぜ頑張って勉強して、働いて、
生きていかなければならないの」
となります。

その、苦しい人生なぜ生きねばならないのか
ということが、生きる目的です。

その答えは仏教に教えられています。


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by sakyamuni | 2018-01-26 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

ブッダのお言葉の中に

人間愛欲の中にあって
独り生まれ独り死に独り去り独り来る(大無量寿経)

という言葉があります。

人という字は二つのものが支えあっています。
人間は心の支えが欲しいものです。

支えとは、たよりにする人、ものです。

そういう私たちに、愛欲というものがあります。
欲は欲望
何々して欲しいという心です。
愛欲というのは、愛して欲しい、愛を下さいという心です。

愛して欲しいという事は、
大事にして欲しい、大切にして欲しい
反対に言えば、
軽く見ないで、ガラクタみたいに扱わないで
確かな存在感が欲しいということです。

それを小さい子供は親に求めます。
子供が泣くということは、
自分に注目してもらいたい、
愛情を注いでもらいたい
ということです。

子供の時に愛情を注いでもらえなかった子は大きくなると、
おかしな事に走ってしまいます。

お客さんが来ると子供は不安になりませんか?

いつも自分に注目してくれた父母が、
お客さんが来るとその人と話します。
子供は入っていけません。
口をつぐんでしまいます。

人は支えが欲しいのですが
本当に支えになるものは何もなく、
生まれてから死ぬまで孤独だと
ブッダは教えられています。



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by sakyamuni | 2018-01-25 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

黒い心と暗い心の違い

黒い心と暗い心について

黒い心というのは、
怒り愚痴などの煩悩です。

煩悩には108あまりすので、
それ以外にもうぬぼれ心とか疑う心とかがあります。
これはどういう心かというと阿弥陀仏に救われても変わらない心です。
信前、信後を通じて変わらない心。

これは私達の自性です。
変わりません。
自性とは、からすは色が黒いのが自性、
というようなものです。

暗い心とは、
死にたくないいっぱいの私達の心です。
死にたくないなんて私思いません、という人が実は結構多くあります。
そうは思わない、実感わかないという人が多いです。
けれど口だけです。
死のことを考えたことがないだけです。

ベランダからつるしてみて、
もう一度同じ質問をしたらみんな分かります。




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by sakyamuni | 2018-01-24 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

餓鬼とは、餓えた鬼と書きます。

鬼とは、遠仁とも書きます。
仁に遠い。
仁とは、人の心です。

自分さえよければいいと思っています。
ただでさえそうなのに餓えています。
ますます、自分さえよければ他人はどうなってもいいと思います。

その餓鬼に二つあります。

無財餓鬼と、
有財餓鬼です。

お金がなくてほしいと思っているのが無財餓鬼です。
これは分かりやすいと思います。

保険金のために子供を殺す親とか、
ふたを開けてみると借金が原因とかいうことが多くあります。

カードでお金を借りることができる、利息はサラ金なみです。
アコムとかむじんくんとかおじどうさんとかです。
気をつけてください。
お金がなくなると心がすさみます。

会社辞めようとかサークルやめようとか、こういうときが多い。
お金がないと人間何やるか分かりません。

じゃあお金があると心が豊かになるのかというとそうではありません。
有財餓鬼となります。

有無同然です。
お金ないからお金があったら幸せだと思うけど、
お金を持ってみたらブッダのいわれること分かると思います。


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by sakyamuni | 2018-01-23 18:00 | 仏教 | Comments(0)

絶対の幸福になった人は、限りない幸せを頂きます。
限りないといっていても分からないので、10にまとめて
現生十種の益が教えられています。

その現生十種の益の中に、
「至徳具足の益」があります。

至徳とは、名号のことです。
名号におさまる2つの働きの1つに
還相回向があります。

正信偈では「遊煩悩林現神通」と教えられています。

本来は、南無阿弥陀仏と一体になった人が
死んで極楽往生すると、
帰ってきて衆生済度に活躍するというのが
本当の意味です。

しかし、死ななければ仏法を伝えられない
というのは情けないことです。

南無阿弥陀仏と一体になったら、
苦しみ悩んでいる人を見ると伝えずにおれません。
まねごとでもせずにおれなくなるのです。

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by sakyamuni | 2018-01-22 12:00 | 実践 | Comments(0)