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往生一定とは

往生一定御たすけ治定の体験をさせて頂かねばならないが
言葉だけ読んでいてはだめ。

意味を知らないといけない。
ある養子が門徒総代の養子になった。

その門徒総代がうちは代々寺の世話をさせて貰っている。
これからはお前も寺の世話をして貰いたいと言うことで寺に挨拶に行った。

挨拶に行こうとしたときこの寺の者は養子にこういうことを聞く。
『往生は?』と聞くから『一定』と答えろと言われた。

で、寺に挨拶に行った。
今度何々家の養子になることになりました。
これから宜しく御願いします。
寺のものは代々お世話になっている。
ところであなたの往生はどうかなと聞いてきた。

すると来た来たと思って聞いた内容をそのまま往生は一定でございますと答えた。
するとびっくりした。
驚いて御たすけはどうかなと聞いた。
しかしこの養子はそこまでは聞いていなかった。

往生と言われたら一定と答えよと言われたが御助けは聞いてなかったから困った。
どう答えたらいいか。
往生は一定だから。
一定は布を測る寸法だと思って、倍くらいにしておいたら良いだろうと思って、
余っても足らないことはないだろうと思って二丈五尺でございますと答えた。

一遍に意味が判っていないことが知らされた。
一定を一丈と思っていた。
論語読みの論語知らず。
意味が判っていない。
蓮如上人は聖教読みの聖教知らずとおっしゃっている。

読ませていただくときこういう身にならせて頂かねばならない、こうあるべき。
正信偈も御文章も意味を知って読めば深い仏縁になる。

だからもっともっと質問したらいいです。
意味を知って読めばより深い仏縁になりますから。
意味を知って拝読しておられた方が良いです。
もちろん意味知らなくても仏縁になりますが、知った方が仏縁になりますから。


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by sakyamuni | 2017-08-31 18:00 | 信心 | Comments(0)

疑情と法謗罪の違い

諸善万行で後生の一大事助かろうという心。
これ疑情と言いますね。

弥陀の本願を疑う心。この疑情と謗法罪の違い。
判らない人あったね。皆さんも多いと思います。

全く違います。
謗法罪と弥陀の本願を疑っている心。

同じように思いますが全く違う。
謗法罪は信前信後作り続けるが疑情はなくなる。
疑情と煩悩の違いです。


しかしそれハッキリしないと思います。
おそらく信心決定するまで同じじゃないかと思ってしまうかも知れないが、
違うと言うことを知って下さい。
自力の心と謗法罪は全く違います。

謗法罪のような恐ろしい罪を救うと誓われたのが阿弥陀仏の本願。
その阿弥陀仏の本願を疑っている心、これが自力の心ですから、全く違います。
そう言うことここで知って貰いたい。

ここは聞いたときは分かった気になるが時間がたつと判らなくなる。
これは頭が良いから悪いからではない。
自力とはそう言うもの。
時間がたつと判らなくなる。そう言うものですから、しっかり覚えて欲しい。
何回も何回も同じ事を繰り返し聞かせて頂かねばならないことです。



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by sakyamuni | 2017-08-30 12:00 | 教学 | Comments(0)

蓮如上人は、領解文に
もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に
「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」とたのみ申して候。
たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、
この上の称名は、御恩報謝と存じよろこび申し候。
この御ことわり申しわけ候こと、御開山聖人御出世の御恩・
次第相承の善知識の浅からざる御勧化の御恩と、有難くぞんじ候。
この上は定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもり申すべく候。
と、おっしゃっています。

まず知らねばならないのは、
我等が今度の一大事の後生です。

我等が今度の一大事の後生。
まず知らねばならないのは仏法を聞く目的。
人生の目的は我等が今度の一大事の後生。
万人共通唯一の目的は後生の一大事の解決。
今度の。今度と言ってもそんな遠い未来ではない。

吸った息が吐けなければ後生。
吸う息吐く息がふれあっているのが後生。
一大事とは取り返しのつかない大問題。
その後生の一大事の解決のために生を受けた。
仏法を聞かなければならないと言われている。

人や人やと思えども今に我が身が誘われて油断する間にダマシ鳥

我々死んでいかねばならない、後生と言っても人や人や、
まだまだ死なないと他人事、動物園の虎としか眺めていない。
まだまだ遠い未来と思っているけれどもいつまでも人の死ばかり見ておれない。

人や先人や先と思っているがやがて立場が逆転する。
ジャングルででくわす虎にでくわすときが来る。
我が身の後生がそう遠くない未来にやってくる。
誘われる、とはどう言うことですか。

これは無常の風と言うこと。無常の風に誘われる。
こういう言い方しますから。
今に我が身が無常の風に誘われる。みんな油断している。
後生の一大事ある限り油断してはならないと
赤尾の道宗はいわれている。

油断している間に騙されて後生へ突っ込んでいく。
人に騙され我が身に騙されて突っ込んでいく。
ダマシ鳥、どんな鳥か。寒苦鳥、我々は寒苦鳥だと
釈尊はおっしゃっている。

騙されて最後臨終に泣かなければならない。
寒苦鳥は一年中雪に覆われたヒマラヤに寒さに苦しむ鳥があると言われる。
非常に愚かな鳥。

これは古今東西の我々を譬えられている。
どうして愚かなのか。
この寒苦鳥は昼になると、夜の寒さを忘れて遊び回り、夜になると後悔する。
夜と昼の気温差がヒマラヤだから激しい。

昼だとポカポカ陽気で、夜を忘れる。
夜になるとどうして昼に巣を作らなかったのかと後悔する。
夜になると、今度はこんな後悔しないと固く決意するそうですが、
昼になると忘れて遊び回ってまた後悔する。これを何度も繰り返す
愚かな鳥があると言われている。

我々の姿です。
皆さんも人間界に生まれる前、地獄を出るときこんな苦しい世界は二度と来るまい、
今度こそは仏法を聞くぞと決意して出てくるそうですが、
人間界に出たら、またわすれる。

喉元過ぎれば熱さ忘れる。
地獄の苦しみを忘れている、人間界では五欲の蜂蜜に騙されてまた後悔する。
馬鹿だった馬鹿だったと後悔する。
これを何十回何百回と繰り返しているのが我々。
騙されてはならない。

人に、自分の心に騙されてはならない。
これからも騙されようとしている。
夢の浮世を日長に思い暮れて泣きやる寒苦鳥

苦しみの充満した世界がこの世です。
苦しみ一杯の儚い短い一生を日長に思ってまだまだ死なないと日長に思っています。
しかしやがて人生の夕暮れ時が来る。
いつまでも太陽は昇っていない。

人生の夕暮れ、これが暮れて泣きやる、昼もすぐに夜になる。
夜の寒さに打ち震えて、遊んでいたことを後悔する。
今なら豊かな生活で遊んでいる、仏法を真剣に聞かない。
暮れて泣きやる、こういう後悔をしてはならない。

決して寒苦鳥になってはならない。
騙されてはならない。
一息切れると同時に、無間地獄に堕ちて八万劫中大苦悩です。
この世の苦しみはひとすくいの水、後生の苦しみは大海と言われる。

桁違いの苦しみの世界が未来に待ちかまえている。
この一大事があるから何を犠牲にしてでも解決しなければならない問題だと教えます。
まず後生の一大事を自覚する。

今日浄土真宗が衰退してしまった原因。
後生の一大事を鮮明に説ききらないからです。
これを明らかに説ききれば真宗が衰退する、
浄土真宗の教えが衰退することは考えられない。
これを説けば必ず驚きを立て、火の中を突破しても
聞き抜かねばならないという思いになる。

それを説かないから葬式仏教法事仏教と衰退を辿らねばならなかった。
仏教は後生の一大事に始まり後生の一大事の解決に終わる。

私の後生の一大事です。
私たちはこの私を抜かしているから。
人の後生。
人や先ではない、我や先だぞ、私が今度に一大事の後生を解決するために仏教を聞くのですよ。


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by sakyamuni | 2017-08-29 12:00 | 蓮如 | Comments(0)

承元の法難で、
法然上人が守られたのは、一向専念無量寿仏。

他にもお弟子がいたが、流刑に遭われたのは両聖人だけ。
このあとにおっしゃったお言葉。

「駛路はこれ聖者の行く処なり、謫所はまた権化の住処なり。愁とするに及ばず」

駛路とは、険しい道。誰も行きたがらない。
最近の若者は楽して結果を求める。
誰もが行くのを嫌う険しい道を行くのが聖者である。
また、我々親鸞学徒が進むべき道も駛路。
少しでも楽がしたいと思っているが、反対方向に向かって進む。
謫所とは、罪人が流される流刑の地のこと。権化は聖者と同じで、
聖者の住むところが謫所。
流刑の地が住みかで、そこで御縁のある人に、真実の仏法、
一向専念無量寿仏をお伝えせずにはおれない。
愁とするに及ばず。この法然は少しも悲しいとは思わない。
天皇や権力者に、無罪の罪で流刑の地にいこうとしているが、
それは聖者の、権化の住処なり、お前等、心配してくれるな、
と西阿を激しく叱られて、破門までされた。

心配するに及ばない。これが真実を説く者の行く道だ。
我々のいく道は、決して楽して進める道ではない。
みんなも親鸞学徒として、同じ道を進んでもらいたい。




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by sakyamuni | 2017-08-28 12:00 | 仏教 | Comments(0)

曇鸞大師について親鸞聖人が正信偈に
三蔵流支受浄経焚焼仙経帰楽邦
と教えられている。

曇鸞大師はもともと仏教の人ではなかった。
ただ、あまりにも頭が良いために仏教の経典を読み始めた。
仏教の勉強すればするほど奥が深い。
仏の教えというのは聞けば聞くほど奥が深く、
そんなに一言で言えるものではない。

「ただ一言でいいと聞かせてくれ」
とはどういうなまくらな用件じゃということで
叱り飛ばした浄土真宗の有名な布教使もいる。

そこで、曇鸞大師という人は仏教を学ぶには時間が必要だと思われた。
今のままで行くと、自分が生涯で学び取れるであろう量と、
目の前にある一切経を比べたら、とても間に合わない。

お経を学ぶ前に思いっきり長生きしなければならないということで、
違う宗教団体に行った。その親玉が陶隠居。

そこで仙人の教え、不老長寿といって、なかなか死なない。
そう言う教えを最初に身につけなければならないと迷った。

そこで、曇鸞大師は、卓越した才能を持って、
仙人の教えでたちまち頭角をあらわして免許皆伝しちゃう。
そういういい調子で歩いていた時に、三蔵流支という名前の僧に出会う。

菩提流支ともいう。昔ともに仏法を学んだ仲、
ところが今は別の道を歩いている人。
久しぶりに出遭った、なんだまだ教学やってるのか。
お前もどう、一緒に仙人しないか?
こう言ったところ、三蔵流支がお前はなんてバカなやつだということで、
浄経を授ける。
浄経とは、観無量寿経、無量寿経といわれる。

仏の教えの中に永遠の命に生きる教えがある、
永遠の命を持ったということを無量寿と言って
阿弥陀仏の別名。

無始よりこのかた迷いつづけてきた迷いの心がうちどめになって、
永遠にかわらない心に生かされる。
その無量寿仏の本願が教えられているのが、
無量寿経であり、観無量寿経。

永遠の命が教えられているのが仏教。
ところが曇鸞よ、永遠の命が教えられているのが仏教なのだ。
曇鸞大師は聖道仏教しか知らなかった。
知らなかったのを三蔵、お前が教えてくれた。

私が今まで寄り道していたのは全部間違いだったと知らされて
仙人のお経を残らず焼いてしまう。
そして、楽邦に帰したまいき、と言うのは、
一向専念無量寿仏になって永遠の命に生かされるということ。

普通だったら、道を外していると言われても、意地になる。

人間というのはつまらぬ意地やプライドによって、失敗する。

曇鸞大師の立派な点は、自分が間違っていたと知らされたとたん、
仙経を全部焼いてしまう。そして手をついて教えを請う。

誤りを犯さないことを誇りとするよりも
誤りを直ちに改めることを誇りとしよう。

こういう言葉もあるが、
若い皆さん過ちはどれだけしてもよい。

若者の特権は過ちを犯した分だけ、反省して向上する。
失敗は成功のもと。
傷つかないようになにもしない、いうことでは全く進歩も向上もない。

逆に思いっきり頑張って、失敗する。
そう言うところから、反省する。
痛い思いをするところから向上が生まれる。
曇鸞大師の教説は親鸞聖人の引用されたものは大変多い。

その一つは、曇鸞大師は、私は本当に間違っていた、ごめんなさい。
初心に帰ってゼロからのスタートを切る、そういう方であった。
それから、曇鸞大師の求道はすさまじいものがあった。




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by sakyamuni | 2017-08-27 12:00 | 仏教 | Comments(0)

三不三信誨慇懃

親鸞聖人という方のかかれた、
正信偈というものの中に書いてある

三不三信誨慇懃

正信偈
は教行信証行巻に出ている。


三不三信の誨慇懃にして、と読み
三不三信のおしえを懇ろに教えられたという事で
道綽禅師と言う方のところに書いてある。

道綽決聖道難証・・・と続いて行く。
これは親鸞聖人が道綽禅師という方が
親鸞に人生の目的を果たした世界が
一体どのようになっているかという事を
このように教えてくださったぞといわれている箇所。

私達がこの世に何をするために生まれてきたのかといえば、
人生究極の目的は、苦悩の根元である、
無明の闇をぶち破って永遠に変わらない幸せに救って
やりたいという願いが私の上に満たされる。

これを破闇満願という。その一念で無碍の一道の世界に出れるぞ。
絶対にかわらない本当の幸せの世界に出れるぞと教えられているが、
その決勝点を突破したことのない人は、
その決勝点を突破する前とあとではどう違うのかが、
一番知りたいことで、それを道綽禅師という方が
このように教えてくれたという事を親鸞聖人がかかれた。

ちなみに正信偈は、親鸞聖人の主著、教行信証の末に出ている。この正信偈と
いうのは正しい信心、それが一体どのようなものかということをうたの形で1
行7文字でかかれたもの。

正しい信心というのは、仏法を聞きぬいて、
阿弥陀仏の本願を聞きぬいて、無明の闇をぶち破って頂いて、
絶対の幸福が満たされたのを正しい信心、
正信というが、その正しい信心を今だ体験していない者にとっては、
どういうものかわからない。

それを親鸞に教えてくださった方がある。
それが道綽禅師という方であった。
と書かれている。




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by sakyamuni | 2017-08-26 12:00 | 信心 | Comments(0)

阿弥陀仏のご苦労とは

親鸞聖人の田植え歌

五劫思惟の苗代に
兆載永劫のしろをして

直訳すれば、阿弥陀仏はどんな苗代をつくったら丈夫な苗が育つかと
五劫の間考えられ、兆載永劫の間しろかきをされたという意味。
一劫は4億3千2百万年だから気の遠くなるような期間。

難度海で苦しむ人を渡したいと完全に救い切る為に、
南無阿弥陀仏の名号をつくたれた。
その為にいかにご苦労せられたか?

阿弥陀仏の五劫思惟の願と兆載永劫の修行によって完成されたのが、
南無阿弥陀仏といわれる。
そういうところから願行具足の南無阿弥陀仏といわれる。
南無阿弥陀仏の中には願も行もおさまっているんだ。
五劫思惟、兆載永劫の修業が収まっている。

正信偈には
「本願名号正定業 至心信楽願為因」

本願によってつくられた名号にはわたしたちを正定の身にする働きが
あるんですよ。
至心信楽の願、これを因となす。
阿弥陀仏の本願の設計図のとおりにつくられたのが、
南無阿弥陀仏の六字の名号。

教行信証行巻、大行利益
「大悲の願船に乗じて 光明の広海に浮かびぬれば
 至徳の風静かに 衆禍の波転ず」
大行というのは阿弥陀仏の作られた名号。
名号の働きによって救われる。
だから、大行利益といわれる。


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by sakyamuni | 2017-08-25 12:00 | 仏教 | Comments(0)

大集経にときたまう 
この世は第五の五百年
闘諍堅固なるゆえに 
白法隠滞したまえり

この世は、第五の五百年と、
お釈迦さまが『大集経』に説かれています。
第五の五百年とは末法ということです。

闘諍堅固」とは、
闘……闘う。
諍……争い。
どうでもよいことを争っている。
堅固……盛んである。

白法隠滞」とは、
白法……聖道門仏教のこと、
隠滞……隠れ、滞る。
救われない。

末法になると、『法華経』の教えなどでは助からないようになる、
とお釈迦さまが明言されています。




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by sakyamuni | 2017-08-24 12:00 | どうしたら助かる? | Comments(0)

悪人正機

十方衆生がみんな救われるまで、活動せずにおれない、
というのが、御臨末の書。
親鸞聖人の御遺言

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、
和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり。       (御臨末の御書)

その一人は親鸞なり。
仏教を聞いて救われて、
喜んでいる人の所に親鸞も帰っておるぞ。

でも、それは救われた人だけでしょ。
こう言って、親鸞聖人を極楽に追いやっている人ばかり。
私は、まだ決勝点を突破していないから関係無い。

そうではない。
そういう人のもとにも来ておられる。
衆生苦悩我苦悩の聖人を忘れている。

求道は、進めば進むほど波が高くなる。
二河白道の譬え。
苦しみが多くなる。
群賊悪獣悪知識、
「そんな時間とお金を使って
 仏法を聞く必要ないでしょ。一緒に遊ぼう」
進めば進むほど、群賊悪獣もひどくなる。
ボートも早く進めば進むほど、波がばげしくなる。
ゆっくりのんびりしている人は、そういうことは無い。

親鸞聖人はこの道進んでいる人を応援してくださる。
こんな親鸞が救われたんだから、頑張ってこの道進んで下さいね。
こういうお言葉と御臨末の書を味わわずにおれない。

弥陀の本願は悪人正機。
他の人には分かってもらえない求道上の悩みがある人は
道を進んでいる証拠。
それを、ある意味慶びにして、求道に拍車をかけてもらいたい。

なぜ帰って来られるのか。
みんなが救われているのなら、必要はない。
難度海で苦しんでいる人、たくさんいるから、
極楽で、のんびりしてなんかおれない。
活動せずにおれない。

求め抜いた人だけに、来て喜ばれるはずがない。
この道を進んでいる人の元に親鸞来ておるぞ。
横におられて励まして下される。




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by sakyamuni | 2017-08-23 12:00 | 二河白道 | Comments(0)

然れば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。
平生のとき不定の念に住せばかなうべからず。
(執持鈔)

平生に大安心大満足の心に生まれ変わらせていただける
平生業成の教えだから。
無明の闇がぶち破れなかったら往生はできない。

だから、
平生の時善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、
その時をもって娑婆の おわり臨終とおもうべし。
            (執持鈔)

この平生の時善知識の言葉の下に・・・。
普通なら、臨終なら平生でないし、
臨終なら平生でない。
これは明らかに心の臨終を指している。

「この穢体亡失せずといえども、
 業事成弁すれば、体失せずして往生すと、いわるるか」

穢体失わずして、死ぬものがある。

死ぬものが二つあるから、臨終、葬式が二つある。
逆に言えば、生まれ変わるものも二つある。
そんなことを教えられたのは親鸞聖人だけ。
死ぬもの、普通は一つしか知らない。肉体。
苦悩の根元は肉体ではなく、心にある。
その心が無明という闇に覆われていて、病にかかっている。

苦悩の根元と突き止められたのが弥陀の本願で、
迷いの心が殺されるから、臨終を迎える。

そして迷いの心が死ぬ。すると阿弥陀仏の願力によって心が生まれ変わる。こ
ういうことを教えられたのは親鸞聖人しかいない。

そういうことを覚如上人は、
平生の時善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、
その時をもって娑婆の おわり臨終とおもうべし。
といわれた。
さかのぼれば、親鸞聖人が愚禿抄に
信受本願前念命終。
それは親鸞聖人の教えにしか説かれていない。

「親鸞閉眼せば賀茂河に入れて魚にあたうべし」と云々。
これ即ちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべき由をあらわしまします故なり。
これをもって思うにいよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず。
もっとも停止すべし。

なぜ親鸞が死んでも葬式いらんと言われたのかというと、
親鸞聖人は肉体の臨終、肉体の葬式に力を入れられたのではない。
これでは体失往生となる。
心の病が阿弥陀仏の本願によってねらわれて、
その願力によって迷いの命がぶち破られて生きているときに救われる。

肉体の葬式や肉体の解決を問題にされたのではなく、
無明の闇を阿弥陀仏はねらわれて、一念で救う。
そのことだけを明らかにされた。
信心決定できないと思っている人もいるだろう。
阿弥陀仏の本願のお力だから。

改邪鈔にはこのお言葉の他にも、決定的なお言葉があって、
それが

この娑婆生死の五蘊所成の肉身未だやぶれずといえども、
生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、
知識伝持の仏語に帰属するをこそ「自力を捨てて他力に帰する」とも名け、
また「即得往生」ともならいはんべれ。
(改邪鈔)

このお言葉は超A級。
魂の葬式を言われている。
生きているときにハッキリできるといわれた方だから、
邪を徹底的にうち破られたのが改邪鈔。

覚如上人が明らかにされたのが平生業成。
ところが現在の本願寺は。
皆さんの中にどうせ信心決定できっこないと思っていたら、
それは現在の本願寺と変わらない。

親鸞聖人が死んだら賀茂河に捨てて魚に与えてくれと言われた意味は
第一番目に当たるのが心の葬式、平生業成。
その他にも3つある。




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by sakyamuni | 2017-08-22 12:00 | 仏教 | Comments(0)