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お釈迦さまの説かれた一切経の中に、
大無量寿経というお経がありますが、
唯一の真実のお経だといわれます。

それ真実の教を顕わさば、すなわち『大無量寿経』これなり。
(教行信証)

教行信証の教巻に出ているお言葉です。
真実の教えと言われています。

私達が本当の幸せになるための真実の教えと言うこと。
世の中に、幸せになれると言われるものはいくつもあるが、
本当の幸せになれる教えは、
この大無量寿経だけであると仰有ったお言葉です。

教行信証教巻とは、
正しくは顕浄土真実教文類。
真実の教えを明らかにすると言うこと。
それは大無量寿経であると。

真実の教えは大無量寿経であると言われていますので、
真実の経典と言っても同じことです。



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by sakyamuni | 2017-07-31 12:00 | 教学 | Comments(0)

念仏成仏といわれている念仏とは何か。

念仏といっても3通りある。
心が違う。
ちょうど涙。悲し涙、嬉し涙、悔し涙、心によって違う。
成分は変わらない。
念仏も称えている念仏は変わらない。
称えている心によって3通りにわかれる。
「万行随一の念仏」
「万行超過の念仏」
「自然法爾の念仏」

「万行随一の念仏」
万行、いろいろな善がある。それらもやっているし、念仏も称えている、
だから悪いところへはいかんだろう。念仏は諸善の中で一番良い善。
修諸功徳に含まれる念仏。一番信仰が幼稚な人の念仏。
もちろん普通の人よりはいいけれども。
これが19願の念仏。観無量寿経の念仏。

智者また教えて合掌又手し南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するが故に、
五十億劫の生死の罪を除く。(観無量寿経)

かくのごとく至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と
称するが故に、念々の中において八十億劫の生死の罪を除き、
(観無量寿経)
これが観無量寿経の念仏。


「万行超過の念仏」
諸善よりは、飛び越えて功徳があるのが念仏。
諸善はできないけれども、念仏は一生懸命称えている、
だから悪いところへはいかんだろう。20願の念仏。
阿弥陀経の念仏。

舎利ほつ、もし善男子善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持
すること、若しは一日……若しは七日、一心不乱ならん。(阿弥陀経)

これらは自力の念仏。
しかし、称えれば救われるのは、
他力の念仏


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by sakyamuni | 2017-07-30 12:00 | 信心 | Comments(0)

親鸞聖人は、絶対の幸福について
不可称不可説不可思議の信楽と仰有っています。
不可称不可説不可思議の大功徳と一つになる。
言うことも、説くことも、想像することもできないくらいの、大きな幸せ。
例えばどこで仰有っているかな。
御和讃では。

五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり
(高僧和讃)

五つに濁った、非常に乱れた世の中。
これは末法のことです。
末法になると、世の中が大変乱れてくる。
その衆生と言ったら、私達のことです。
選択本願とは阿弥陀仏の第18願。
選択とは、48ある本願の中で、阿弥陀仏がご自分の本心を説かれて、
選び取られているということ。
それを信ずれば、信心獲得すれば、南無阿弥陀仏の大功徳が信心獲得した人の、
全身にあふれる、幸せで一杯になる。
体中からあふれちゃうんだね。




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by sakyamuni | 2017-07-29 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

仏教では本尊とは、根本に尊ぶべきもの。
丁寧な言葉で、御本尊。
ですから浄土真宗では、お仏壇の真ん中に安置して、合掌礼拝するのは、
南無阿弥陀仏の名号です。
同じ浄土宗で、阿弥陀如来を本尊にしておりましても、木像や絵像ではありません。
この名号を本尊とするのだと、蓮如上人もおっしゃっています。

他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。当流には
「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり。
(御一代記聞書70)

他流とは、浄土仏教で、阿弥陀仏を本師本仏、尊い仏様と仰いでるが、
真宗ではない者たちのことです。
そういう者たちは、名号よりも、絵像の方がよい。
絵像よりは、金ぴかの立体的な阿弥陀仏の方が有り難いから、それを本尊としようと。
南無阿弥陀仏、そんなに有り難くないとおもっている。
文字としか読めないから、ちっとも有り難くない。
それよりは絵に描いた阿弥陀仏の方が有り難い。
でも金ぴかの阿弥陀仏が一番有り難い。金くれって言っているし。

だけど御本尊というのは、迷った凡夫の私達に
有り難く見えるからと言うことで安置するのではありません。
私達の人生の目的は、信心獲得で、そのために最も大事な者を御本尊とするのですから、
親鸞聖人の教えでは、南無阿弥陀仏を本尊とするのです。
金ぴかの木像よりも、絵に描いた阿弥陀如来よりも、南無阿弥陀仏の名号が、
浄土真宗の正しい名号であると。
蓮如上人も、さかのぼればお釈迦様も仰有っています。
そういうところに基づいて、御本尊を定められているのです。

御本尊とは、お仏壇の真ん中に安置するものです。
お仏壇と言ったら、その家の中で一番大切にしているところに、安置されます。
仏様に住んでいただくわけですから。
仏法熱心なところでは、自分の家よりも、仏壇にお金をかける家があるそうです。
1000万円もするお仏壇を安置している人もあります。
仏法を尊ぶ気持ちの表れですね。

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by sakyamuni | 2017-07-28 12:00 | 実践 | Comments(0)

ファラデーの母親の涙

昔ファラデーという有名な化学者が、多くの学生達の前で尋ねたそうです。
『お前達この世で最も尊いものはなんだと思うか。』この世で最も尊い。
みんながそれぞれ自分の尊いと思うものを口々に言ったところ、
ファラデー先生、最後に『みんなの言ったことも尊いことだが、この世で最も尊いものは母の涙だ』
といったそうです。

母親の涙。これがこの世で最も尊いものだ。
それを聞いたあるバカな学生が、
『母の涙。家にも母親がいるけれども、それがそんなに尊いものか。
よしそれは良いことを聞いた』。
早速家に飛んで帰って母親に向かって、
『おい!カあちゃん。今日は学校でいいことを聞いたぞ。
この世で最も尊いものは母親の涙だそうだ。早く流せ』

いきなり帰ってそういうこというものだから、母親びっくりして、
あきれた。
息子は怒って、柱に縛りつけて『何でも良いから早く泣かんかい』、
余りの息子のバカさ加減にお母さん情けなくなって、
『何と情けない子だ』と思わずほろっと泣いた。

それを『おおっ、これだこれだ』試験管にとった。
『これがダイヤよりも金よりも尊い母の涙か』。
どこが尊いのか、分析したそうです。
涙を分析すると水分と僅かな塩分。
涙はなめればしょっぱい。

『こんなもん何処が尊いんだ』。
ぽいっ。捨ててしまったそうですね。
水分と塩分だったら、ちっとも尊くないね。
じゃあファラデー先生嘘ついたのかな。
母の涙が尊いのは本当?
どうして?

『母は自分のためではなく、子どものために泣いているから、』
母の涙は分析してその尊さがわかるのではない。
わが子の幸せを願う親の心が尊い。母の願いが尊い。
それに優る尊いものはないんだと。この世には。


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by sakyamuni | 2017-07-27 12:00 | 因果の道理 | Comments(0)

『弥陀をたのめば南无阿弥陀仏の主になるなり。南无阿弥陀仏の主になる
という は、信心を獲ることなり』と云々。又『当流の真実の宝というは南无
阿弥陀仏、是れ一 念の信心なり』と云々。
(蓮如上人御一代記聞書239)

なぜ蓮如上人がこの南無阿弥陀仏が真実の宝である、
ダイヤモンドよりも真珠よりも子宝よりも素晴らしいと仰有ったのか。
御文章五帖目六通に教えておられます。

一念に弥陀をたのみ奉る行者には、無上大利の功徳を与えたまう意を、
『和讃』に 聖人の曰く、
『五濁悪世の有情の選択本願信ずれば、
不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり』。
この『和讃』の心は、『五濁悪世の衆生』というは、一切我等女人、悪人の事 なり。
さればかかる浅ましき一生造悪の凡夫なれども、弥陀如来を一心一向にたの
みまいらせ て、『後生助けたまえ』と申さん者をば、必ず救いましますべき
こと更に疑うべから ず。斯様に弥陀をたのみ申す者には、不可称・不可説・
不可思議の大功徳を与えましま すなり。

『不可称・不可説・不可思議の功徳』ということは、
数限りもなき大功徳のことなり。
この大功徳を、一念に弥陀をたのみ申す我等衆生の廻向しまします故に、過
去・未来・ 現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、等正覚の位なん
どに定まるものなり。

この意をまた『和讃』にいわく、『弥陀の本願信ずべし本願信ずるひとはみ
な、摂取不 捨の利益ゆえ、等正覚にいたるなり』といえり。『摂取不捨』と
いうは、これも一念に弥陀をたのみたてまつる衆生を、光明の中に摂めとりて
信ずる心だにも変らねば捨てたまわずという意なり。

 この他にいろいろの法門どもありと雖も、ただ一念に弥陀をたのむ衆生
は、皆悉く報土に往生すべきこと、ゆめゆめ疑う心あるべからざるものなり。


 ここに大変詳しく蓮如上人が言われている。
弥陀をたのめば、無上大利の功徳を与えたもう。
この上がない、大変な幸せ。
それを阿弥陀仏が与えて下さる。
その心を親鸞聖人は御和讃に、

「五濁悪世の有情の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり」

五濁悪世の有情とは、十方衆生、すべての人。
五濁とは?『末法五濁』末法の時代、五つに濁っている悪い世の中。
五濁って知っている?
『劫濁、見濁、煩悩濁、命濁、衆生濁』

五つに濁っている。阿弥陀経にあったね。
末法五濁あるいは五濁悪世。
阿弥陀経の最後の方です。

能く娑婆国土の五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁
 
劫濁って何だったかな?天変地異。
天地自然の災害だよ。
時代の乱れと言ったら全部そうだから、末法のことをこれは表している。
地震や火山の噴火など。

見濁というのは?『思想の乱れ』そうだね、
煩悩濁『煩悩をかきたてるものがおおくなる』
近頃の雑誌やインターネットを見るとそうだと思う。
どんどん人間バカになっている。
コンビニでもいらない本がたくさんある。

衆生濁とは?争いが多くなる。
戦争などですね。
20世紀は本当に戦争と革命の時代でしたね。
6000万の人が死んだと言われている。

命濁、『命が短くなる』長生きしているんじゃない?
生命力が弱くなる。
医学の進歩によって延命技術があがったから長生きしているように見えるが、
ただ死なないだけだね。

これら五つの濁、五濁。
「五濁悪世の有情の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり」

五濁悪世、この末法の時代の有情の、選択本願信ずれば。
選択本願とは18願です。
そうすると不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり、
これが南無阿弥陀仏の功徳。

不可称不可説不可思議の大功徳。
口で言うこともできない、不可称。
言葉をもって説くこともできない。不可説。
我々凡夫の想像さえもできない、不可思議。
ものすごい大功徳が行者の身にみちる。

信心の行者。行者の身にみちみちる。
全身に満ちあふれる。
喜びに満ちあふれる。信心獲得すれば。
不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり。
その意味を次に説明していられる。
この『和讃』の心は、『五濁悪世の衆生』というは、一切我等女人、悪人の事 なり。
この和讃の心は五濁悪世の衆生とは、凡ての人間のことだ。
死ぬまで悪ばかり作っている凡夫だけれども。

さればかかる浅ましき一生造悪の凡夫なれども、弥陀如来を一心一向にたのみまいらせて、
『後生助けたまえ』と申さん者をば、必ず救いましますべきこと更に疑うべからず。
斯様に弥陀をたのみ申す者には、不可称・不可説・不可思議の大功徳を与えましますなり。

阿弥陀仏が下さるのだ。
『不可称・不可説・不可思議の功徳』ということは、数限りもなき大功徳のことなり。
この大功徳を、一念に弥陀をたのみ申す我等衆生の廻向しまします故に、

廻向ってなんだ。さし向ける与えると言うことです。
誰が誰に与えて下さるの。
阿弥陀仏が我々に与えて下さる。
阿弥陀仏がわれら衆生にさし向けて下さるが故に。

過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
「過去・未来・現在の三世の業障」とは何か。

無明の闇。
遙かな過去からずっと現在までそしてこのまま放置しておけば未来永遠に渡って我々を苦しめる。
三世の業障。
一念でそれがなくなる。消える、やぶれる。
無明の闇が消えてなくなるんだと。

この南無阿弥陀仏を頂いたときに無明の闇がなくなるんだと。
こう仰有っているわけです。そして正定聚の位、等正覚の位に定まる。
正定聚って何かな。『51段』言葉ではね。

何に定まるの。
極楽にいって
いってどうなるの。
一息切れたなら浄土往生、そして弥陀同体の悟りを開くことに定まった人々。
また等正覚。

等正覚の位。これも同じ事。等正覚、正覚は仏の悟りでしょ。
その上に等の字がある。
等しいんだね。等しいと言うことは同じじゃない。
仏に悟りに等しいくらい。
あと一段足りない。死ねば極楽。等しい位を等正覚。

一念で。
こんな不思議なことは又とありませんから、不可称不可説不可思議の大功徳。
いうことできない、説くことできない、想像さえできない。
こう仰有っているね。




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by sakyamuni | 2017-07-26 12:00 | 蓮如 | Comments(0)

浄土真宗の報恩講とは

報恩講というのは浄土真宗では最も大切な行事です。
親鸞聖人の御恩を知り感じその御恩にお応えする。

 11月28日のご命日を勝縁として努められるご縁です。
親鸞聖人は私達に90年の 御生涯なにを望んで叫ばれたのか。
祖師は紙衣の90年と言われるが、
これ一つ訴えて いかれたのが皆々信心決定あれかし、
このこと一つです。

 今言ったのは蓮如上人の御遺言ですが
それはそのまま親鸞聖人の90年のご生涯の熱 い熱いお叫びなんです。
ですから、親鸞聖人の御恩に報いると言うことは
親鸞聖人が最も私達に望まれたこと、信心決定させて頂く、
これが報恩講の最も大切な目的なんですね。

それで昔から、報恩講に信を獲れと。
信を獲れと言うのは、信心獲得。
それが親鸞聖人 の御恩に報いることになるんだ。
信心決定信心獲得してこそ本当の報恩講なんだ。
このことがですね、絶対に忘れてはならない原点です。


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by sakyamuni | 2017-07-25 12:00 | Comments(0)

御文章の2帖目第12通といったら、「人間五十年四王天」です。
それ、人間の五十年をかんがえみるに、四王天といえる天の一日一夜にあいあたれり。
またこの四王天の五十年をもって等活地獄の一日一夜とするなり。
八万劫中大苦悩の後生の一大事がいかに大変か。
断崖絶壁に突っ込んでいく川の上の船で、カラオケやら、
バーベキューやらをやっている。
未来永劫突っ込んでいく後生の問題に比べたら、
ほんのちっぽけなことなんですよ。

なんぼ言っても、後生の一大事に心がかからない。
未来永劫浮かぶか沈むかということをまるっきり軽く考えている。
後生の一大事の重さというのが、このお文の中に書かれている。

もう一つ、このお文の中でテーマになっていることがある。
これによりて、みなひとの地獄におちて苦をうけんことをばなにともおもわず、
また浄土へまいりて無上の楽をうけんことをも分別せずして、いたずらにあかし、
むなしく月日をおくりて、さらにわが身の一心をも決定する分もしかしかともなく、
また一巻の聖教をまなこにあててみることもなく、一句の法門をいいて門徒を勧化する儀もなし。
ただ朝夕は、ひまをねらいて、まくらをともとしてねぶりふせらんこと、
まことにもってあさましき次第にあらずや。
しずかに思案をめぐらすべきものなり。
このゆえに、今日今時よりして、不法懈怠にあらんひとびとは、いよいよ信心決定して、
真実報土の往生をとげんとおもわんひとこそ、まことにその身の徳ともなるべし。
これまた自行化他の道理にかなえりとおもうべきものなり。

仏法を全然知らないわけではない。
自分だけでなく、他の人にも一大事があるから、
それを誰かに伝えている、仏法者、に向けて言われている。

坊主の、仏法に取りくむ姿勢に対して、痛烈な批判が出てくる。

それ、人間の五十年をかんがえみるに、四王天といえる天の一日一夜にあいあたれり。
またこの四王天の五十年をもって等活地獄の一日一夜とするなり。
人間が50年いろいろ苦しいとかあっても、八大地獄の中で一番ひどくない、
等活地獄の苦しみも、人間50年とは比べものにならない。

これによりて、みなひとの地獄におちて苦をうけんことをばなにともおもわず、
また浄土へまいりて無上の楽をうけんことをも分別せずして、いたずらにあかし、
むなしく月日をおくりて、さらにわが身の一心をも決定する分もしかしかともなく、
また一巻の聖教をまなこにあててみることもなく、一句の法門をいいて門徒を勧化する儀もなし。

地獄に堕ちることもなんともおもっていない。お聖教を見る事もなく、
一句の法門をいうこともない。

ただ朝夕は、ひまをねらいて、まくらをともとしてねぶりふせらんこと、
まことにもってあさましき次第にあらずや。

朝夕隙をねらって、眠り臥せっている。

前半で仰っているのは、人間が50年をどうやったら面白く、
どうやったら難局を乗り切っていけるか、

苦しみをどうやったら解決できるかと言う事に追われている。
しかし、それが終わって、等活地獄で受ける苦しみというのは、
人間の苦しみに比べものにならない。

地獄に落ちて受ける苦しみをなんとも思っていない。
永遠に無上の楽果を受ける身になれるのに。
一刻も早く信心決定すればいいのに、
もうちょっと仏法を聞いてもいいのに、
自分だけでなくて、周りの人に伝えてもいいのよ。

直接的には、懈怠な坊主に対して批判ですが、
仏法を聞いている全ての人に対して、言われているお言葉です。
ちょっとでも、時間があったらすぐに寝る。
夜も寝る、仕事中も、電車の中でも寝ている。
いつ起きているのか。

その後で、不法懈怠にある人に対して。
しずかに思案をめぐらすべきものなり。
このゆえに、今日今時よりして、不法懈怠にあらんひとびとは、いよいよ信心決定して、
真実報土の往生をとげんとおもわんひとこそ、まことにその身の徳ともなるべし。
これまた自行化他の道理にかなえりとおもうべきものなり。

自行化他。不法懈怠というのは、怠けて法を説かない人のことです。
少しも仏法者のつとめを果たさない人のことです。

もし真剣に聴聞していたら、言えと言われなくても、言わずにおれない。
自分がこんな恐ろしい所にいて、それを一念で解決できる。
全人類に当てはまる、そういう法が説かれている。
そういうことがわかったら、もっとお聖教を読む、
もっと言ったり、してもいいのに、ぜんぜんその仏法者の勤めを果たしていない。
そういう状態で一息突っ込んだら本当に後悔するぞと警告されている。

もっと真剣に聴聞したら、あなたのためにもなる、他の人のためにもなる。
自行化他というのは、自利利他ということです。
自分も幸せになって、まわりの人も幸せにする。
だから、皆さん、平生に教学の研鑚をして、お聖教に親しんで、
みずからの上に教えを徹底して、他の人にも話をしなさいということです。




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by sakyamuni | 2017-07-24 12:00 | 無常 | Comments(0)

何のために生きるのか

今まで話していたのは、結局何の為に生まれて、何の為に生きているんだろう。
あなたの決勝点はここですよ、はっきりしているのならば、はりがある。
よかったー、このようになれるわけですよね。
反対に、行っても行っても走ってろ。
サッカー部の先輩、サディスティック。
走ってろ。OBの近くに行くと、イッチニ、
じろっと見られたら、死にそうな顔で。

走るからには、頑張ってよかった、この為だったんだな、
こういうゴールのある、決勝点のある、
わかってて、やるかどうか。
これが大事なわけです。

ちょっとまた、インタビュー、七つの習慣、
世界的に有名な本なんですけれど。
スティーブン・コビー。
一千万部を突破した。

日本でベストセラーになる、
一体どれくらい売れたらベストセラーになるか知ってる?
普通、数万部。

ソフィーの世界、哲学書でしょ。
今、売れているの、ハリーポッター。
ソフィーの世界とか、百万部。
百万部売れる本って、おばけ本。
ところが、七つの習慣って、一千万部、おばけのおばけ。
これはどういう事か、っていうと、
世界中に、成功したい人って沢山いるけど、成功する人と、
失敗した人、徹底的に分析したわけ。

みんな、幸せな人生を夢描くものの、なかなか事業を興しても成功しない。
仕事、また、その人の家庭という面において、
その人の人間性という面において、そういう、あらゆるジャンルにおいて。
そういうような人に、メッセージを送って。

成功した人には、決まって、七つの習慣があるぞ。
その七つの習慣の一つに
「Begin with the end in mind」

つまり、物事を始める時には、ようするに、最終的にどうなるか、
おしまいがどうなったらいいか、
これを、いつも心の中に、しっかりと入れて、忘れちゃいかんぞ。

END、おしまいという意味と、最終的にどうなったら成功といえるのか、
最終的な目的っていう意味なんだね。
つまり、人間っていうのは、
最終的には死んでゆかなければいけないんだけれど、
死ぬまでの間に、私は、こういう目的を果たすぞ、果たしたから、
人生に悔いなし。

マラソンでいえば、
とにかく走るのが大事、行けども行けどもわかりません、こういうのじゃ、
はりがない、そんなでは、成功しないぞ。

とりあえず大学合格。
そこそこの成績を取るのが目的、とりあえずの所に就職するのが目的、
目的だと思うものが果たした瞬間、また目的があって、
行けども行けども、ゴールない。
結構ちゃんとした所に就職した。最終的には、つぶれちゃった、
こういう人も多いぞ。

この大阪の北区で、有名な人が自殺したぞ。
それは、日本債権銀行の社長。
不景気の話していましたけれど、今年になってから、銀行がつぶれた。
大阪の銀行、多いんだよね。
大阪銀行ってある?倒産寸前で、合併したんだね。
阪和銀行、みんなだめになった。
そういうの、整理して、危なっかしい銀行を統合して。
日債銀って、そういうようなだめだめ銀行を政府が合併させて、
始まったんだね。

そこの社長が、就任して、わずか16日間で自殺しちゃった。
就任演説。死んだ気になって、必ずや取り戻します。
ソニーとか、ヤフーとかが、再興に援助。
東大卒。法学部、から日銀。華々しい道を歩いているわけね。
そして、この日債銀の社長に天下ってきた。
その人もね、東大の入試試験の時に頑張ったと思うよね。

そして、行って行って行きついたところが、日債銀。
やるぞー、だけど、自殺自殺する為に頑張ってきたわけじゃない。
遺書、悩みに悩みぬいて、この道しかない。これも惨めなものだよね。

果たして、最終的に、自殺してしまう人生、考えものだよね。
最終的に、何をどうしたら人生の成功者か、そういうのを頭に入れて、
いつも始めなさい。
じゃあ、最終的に、ああ、私の人生、成功だったな、
こういうように思えるとしたら、一体何をどうしたらいいのか、
これが大事ですよね。これを身据えて走る。

そしてその人生の目的が、仏教に教えられている。




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by sakyamuni | 2017-07-23 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

真実の信心とは

「滅びざる真実の信」とは何か。

仏法で「真実」といわれるのは「変らない」ということです。
変るものを、「真実」に対して「虚偽」だとか「顛倒」といわれます。

たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず
と教行信証にも教えられています。
では、永遠に変らないものとは、弥陀の本願のみなんです。
弥陀の本願しか、本当の意味であなたを救う力のあるものはないんだから、
どうせ信じるならば力のあるものを信じなさい、と言われたのです。

「本当の意味で」とは「根元を抜いて」
「一時的ではない」という意味があるんです。
だから
「弥陀の本願信ずべし
本願信ずる人はみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり」
といわれます。

仏教では、先ほどのも自力の信心でしたが、
今度の信心も、自力の信心と教えられます。
それは、私の心をどうにかすれば、
真実を信ずることくらいできると思っているんです。
どういう自分の心かということを、まったく分かってない。
これを機の真実に暗いといいます。
親鸞聖人は御自身の心をみられて、その無常の心に驚かれたのです。

心というのは周りに誰がいて、どんな所にいるかによって、
丸っきり違うでしょ。
下宿に帰ったら、足の踏み場もないくらい。洗濯物が上からぶら下がってて
それを取って着ている。床にあるズボンをスライディングで履いている。
人によって全然変ってしまう。

「コンピラ信心」というのがあります。
ある所に金毘羅を信じている頭の弱い夫婦があった。
産婆を呼ぶわけにもいかず、自宅で出産しようとした。
「苦しい苦しい」という母ちゃんの声ばかり。
そこで父ちゃんは金毘羅大権現にたのみに行った。
水も浴びる。しかし全然母ちゃんは助からない。

そこで、「銅の鳥居をあなたに御喜捨しま〜すッ!」と
父ちゃんは大声あげました。
しかし金毘羅は一言もいわない。
母ちゃんの声がくる。
「あんたどさくさまぎれにそんなこと言うんじゃないよ!うちにはそんな金はない!」と。
父ちゃんは、「つべこべ言うな!金毘羅だましてるうちに産んじまえ!」
といったそうです。

ここで大事なのは「心」なんですね。
みんなと一緒にいる時は、真剣にお勤めもする。
しかしやがて煩悩に覆われてしまう。
心は「ころころ」だから仏法では「機」という。

阿弥陀仏の本願まことを聞かせていただいても、
それを信ずる心ではありません。
私たちは、まことさえ聞かせて頂ければそれで助かると思っている。
ところがそんな心はない。

私たちはあると思い込んでいるんですが、
阿弥陀仏が持ってないと見抜かれて、
そしてまことをまことと信ずる心を用意して下さって、
その心を頂いてまことをまことと信ずる。
これが他力の信心なんです。

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by sakyamuni | 2017-07-22 12:00 | 信心 | Comments(0)