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信心決定するコツ

一つ重要な事 
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお三方の安心は一味 
それと異なった安心が異安心。
信心獲得急ぎなさいよといわれると、
信心獲得急がねばならんと言う人が増えてくる 
だが人生の目的だからそんなに簡単にいかない 
焦り 危険なわな 
人工信心 土蔵秘事 それに類するもの 
他力の信心とは雲泥の差 
溺れるものはわらをもすがる

善鸞という男が発祥 
日蓮が非難攻撃してくる 
みんなが善鸞を頼ってくる 
まじめな信者さんほど頼ってくる 
ついつい一時的な安心を与えようとしてしまう 
それが金儲けになる 
秘密の法門があるといいだした 
邪義、邪な教え 
義別されるほど 
その教えの本体は人工信心

オウムのイニシエーション 薬物、ドラッグ 
「どうだ、光が見えたろう」
そりゃあ見えるだろう 
土蔵秘事は薬物ではないが、体をたたいたり、言葉で攻め立てたり 
善知識といわれる、本当は悪知識ですが、そういう連中が信心を認可する 
人が作って与える信心だから

「それでよいといわれて獲信したつもり」
「お念仏申すしかない、腹のそこから唱えなさい」
「よかった、よかった」
「後からジワジワーッとわかってくるようになりました」

「〝当流には捨て物と拾い物が…〟」
廃立肝要なんだから当たり前 
この人何にも知らない 
「落ちるという体験をしたわけであります」こんな程度 
大事な書類落とした、彼女に振られた、おちる体験 
それと大差ない

「真仮を知らぬ 定散自力の信心」
彼らの主な特徴 人工信心 
号泣しなければならない 
信心決定した人はいつも初ごと初ごと
「裸で踊ったのが獲信」 
一念の体験でない 
「一念というは、信楽開発の時尅の極促を顕す」
人に聞かなきゃ分らん信心ではない 

2帖目14通「秘事法門」
「それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、更に仏法にてはなし。
 あさましき外道の法なり。これを信ずる者は、永く無間地獄に沈むべき業にて徒事なり」
全くこれは仏法ではない 
これを信ずる者は、永く無間地獄に沈むべき業にて徒事なり」大変ですよ
蓮如上人が信心決定した人と信心決定してない人がいると叫ばれると、
はやく信心決定したいと言う人が増える 
真面目な人が騙されやすい 
十劫安心と土蔵秘事、両極端の異安心

他力の信心を教えてくれる善知識は少ない。
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人と同じ一味の信心を獲得する。


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by sakyamuni | 2017-06-30 19:12 | Comments(0)

御正忌とは、御命日ということ。
忌という字は、誰かが亡くなったときに、
忌中という言葉をよく見ます。
人が亡くなるという事。

御正忌…親鸞聖人のご命日ということ。
その親鸞聖人のご命日に聖人のご恩に報いるために集まる。
これが報恩講。ご恩に報いる集まり。

田舎では、よく「ほんこさん」といわれる。
報恩講が縮まって、ほんこさん。
あるいは「おとりこし」
親鸞聖人のご命日をご縁として、そのご恩に報いる集まり。

御文章5帖目11通「御正忌」
この御正忌のうちに参詣をいたし、志を運び、報恩謝徳をなさんと思いて、
聖人の御前に参らん人の中に於て、信心を獲得せしめたる人もあるべし、
また不信心の輩もあるべし。以ての外の大事なり。

御文章…5帖80通蓮如上人のお手紙を5つに分けられたもの。

1〜4までは書かれた年代順に並んでいます。
蓮如上人57歳の御時から、
蓮如上人がお亡くなりになる前年に書かれた物。

5帖目はどういう御文章かといいますと、
かかれた年月日が記載されていない。
蓮如上人が書かれたものに間違いはない。
内容的に非常に大切なものばかりが集められた。
多くの人に読んでもらいたいということでまとめられている。
その中の第11通。

有名な御文章がいっぱいあります。
最も有名なのが、聖人一流の章、白骨の章
それらと並んで収められているのがこの11通目の御正忌。

この御正忌のうちに」とは、親鸞聖人のご命日に
報恩謝徳」とは親鸞聖人のご恩に報いよう。
感謝しようという気持ちで聖人の前に参られる。

そういうたくさんの人の中において2通りの人がある。

信心獲得している人もある。
不信心の人もある。
これを信前・信後といいます。
信心決定する前。信心決定した後。

女性ならば、産前・産後
子供産んだ事がある人と、子供産んだ事が有る人。
二つに分かれる。
女性はたくさんおられても、産前の人か産後の人か、どちらか。
産中は難しい所

たくさんのひと…全人類が、信心獲得せしめたる人、
不信心のひと、このどちらか。

そして、蓮如上人は、もってのほかの大事、一大事といわれている。
信心獲得した人と、信心獲得していない人がいる。
このこと。

世の中にはいろんな人もいる。
産前の人もいれば産後のひともいる。
もってのほかの大事とは言わない。
大学に受かった人もいる。受からない人もいる。
もってのほかの大事とは言わない。
車の免許持っている人もある。
もっていない人もある。もってのほかの大事とは言わない。

なぜ蓮如上人はここで、もってのほかの大事といわれているのか。

その前に、報恩講に参詣されている人の中に、信心決定している人もいる。
していない人もいると言われている。
これをきいたら、みんなは当たり前だと思う。
いわずもがなと思うでしょう。

しかし、蓮如上人の時代。
浄土真宗に生れたら、それだけで、信心いただいた。
生れた時からもう助かっていると思う人もいる。

おれたちはみんな信後だ、信心獲得しとるから、来とる。
という人がほとんど。
そういう異安心を十劫安心という。
間違った安心、信心。


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by sakyamuni | 2017-06-29 12:00 | 信心 | Comments(0)

憶念称名いさみありて

「憶念称名いさみありて」とは、称名は勇の念仏なり、
信の上は嬉しく勇みて申す念仏なり。
(御一代記聞書51)
「勇み」とはどのような意味でしょうか?

「憶念称名いさみありて」の「いさみ」がわからない。
称名は勇みの念仏なり。
信の上は嬉しくて勇みて申す念仏なり。
信後の念仏は勇みてもうす念仏。
勇みとは勇気の勇、元気がよい、喜びから称える。

勇ましいとよく言う。
「あの人勇ましい」ションボリしていたらいわない。
胸を張って堂々としているのが勇ましい。
信後の念仏は元気のよい念仏、慶びから吹き上がる、
喜びの心からわき出る大信海流出の念仏。

大信海とは信心決定した無碍の一道の世界、
大きな信心の海から流れでる称名、
それでいさみの念仏。

勇みという字を、
「精」と書くことがある。
精進の精、勇猛精進の勇、精進の精。

憶念とは何か知っている。
どちらも思うと言うこと。
しかし憶のおもうと念のおもうは違う。
憶は時々おもいだす思い方。
念というのはズーッと思い続ける念のように思うこと、
明記不忘と言われる。
念というおもいがあるから、憶というおもいが出る。

丁度地下水を掘ると水が出てくる、
水脈にほって掘ると必ず出てくる。
念という明記不忘の水脈があるから憶という水がでる。

好きな彼女と別れるとき、
「私の事思い出してね」といわれて、
「いや僕は思い出さない」。

冷たい奴とおもう。
言いにくい言葉。
アメリカに入ってしまう彼女とか、そういう人に言う。
厳しいしかし、思い出すよと言うことは普段忘れているということ。
思いが出るというのは普段忘れているけれど時々出ると言うこと、
思い出すようでは思いが薄い。

思い出すよじゃ思いが薄い 思い出さずに忘れずに

忘れない、常に。忘れなかったら思い出す必要はない、
その思い出すのが憶、
思い出さずに忘れずに、これが念。

その他力の信心から吹き上がるのが、
憶念称名いさみありて、
という元気のよい喜びの念仏。


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by sakyamuni | 2017-06-28 12:00 | 信心 | Comments(0)

遠きは近き道理なり。

これは御一代聞書のお言葉。
御一代記聞書はあるとき蓮如上人こういうこといわれたぞ、
こういうことをなされたぞ、
とのちのお弟子お子さん残されたもの。

遠きは近き道理近きは遠き道理と
蓮如上人が言われたお言葉は
御一代記聞書129番

世の中苦労したくない人がおおい。
大学の選択科目、楽なの。
バイト何を選ぶか、楽なのをえらぶ。
楽なのがすきなのに、どうして苦労することを選ぶの?
苦労するとなにかいいことあるの?

仏法は大切にもとむる。同じ話を同じ人から同じ期間きくといっても、
どれくらい大事にきくか、大切にしなさいよと言われている。
それではなぜ大切に求めなさい、聞きなさいといわれているのか?

そのほうがはやくすすめるから。
みなさんが仏教を聞くときに1大事に聞く人、
10大事にきく人がいる。
大事に聞けば聞くほど早く救われる、
早くすすめるから。




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by sakyamuni | 2017-06-27 12:00 | Comments(0)

釈迦にダイバ

王舎城の悲劇で、
ビンバシャラ王と、韋提希夫人は、釈尊から仏法を聞かせていただくようになるのですが、
新しい人物が登場します。
ダイバダッタです。

この人は、釈尊のいとこで、釈尊がおられなかったら、
インド一の男だったといわれます。
しかし、釈尊のもとに、どんどん人が流れていってしまった。

いとこという近い関係で、しかも才能があったが、そ
れよりすごい才能を持つ人が現れて、自分が認めてもらえない。
これは非常に悔しいです。
勝るを妬む心でいっぱいだったと言われます。
これを愚痴と言います。
お釈迦様を殺そうとたくらむんですね。

ダイバダッタの気持ちになって考えて下さい。
自分が才能もあって、みんなからもてはやされていた。
しかし、ある日突然いとこが来て、自分よりすごい才能を発揮した。
自分についていた人が、どんどんそっちに流れていく。
これは寂しいですよ。むかつきますよね。
ダイバダッタの姿は、全ての人の姿です。
もし自分がダイバだったらと考えてみるとどうですか。

最初は、岩を落として圧死させようとしたんですね。
その時お釈迦様はお釈迦様の足を傷つけて、五逆罪を作ってしまうわけですね。
そして、野象に酒を飲ませて、釈尊を襲わせようとしたんですが、これも失敗するんです。
そうなると、だんだんむかついてきますよね。
何をやってもうまく行かないのですから。
ここで反省すればいいんですけど、そうはならないんですね。
釈尊が素晴らしいからとはもう思えないわけです。
それを認めると、自分がみじめになるから。
別のものを引っぱり出してきて、そいつのせいにするんですね。
「敵の生を射んとすれば、まずその馬を射よか」ということで、
深い企みを巡らすようになるんですね。

そして、その最後に阿闍世に向かってビンバシャラ王と韋提希夫人がどんなことをしたか、
あらいざらい言ってしまうんですね。
そして、ビンバシャラ王は牢で殺され、韋提希夫人が牢に入れられてしまいます。
これが経典に説かれている王舎城の悲劇です。



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by sakyamuni | 2017-06-26 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

王舎城の悲劇で、
韋提希夫人が、牢屋にたたき込まれました。
そこから、非常に苦しみます。
「ああ、阿闍世、母さんはお前のためにどんなに苦労したか」
「こんなことなら産まねばよかった」
「あの子がこんなになったのは、そうよダイバよ」
ダイバダッタと似てないかな。
結局自分の種蒔きと見られないんですね。

これを、ダイバの畜生、阿闍世の餓鬼めと言われます。
そして、お釈迦様に救いを求めるんですね。
ビンバシャラ王は、お弟子の一人なりともといって、結構控えめなんですけど、
韋提希夫人は、どうしてきて下さらないのと言っている。

その時お釈迦様は法華経の御説法の最中でした。
「今日の話を聞かなかったら仏法を聞いたことにならんそうじゃよ」といって、
霊鷲山にみんな集まってきていましたね。
そして、大勢の人が話をしている最中に、突然座を立たれて、すたすたと行ってしまうわけですよ。
これは大変なことです。
ちょっと出来ません。
ということは、よっぽどの大事だったわけです。
トイレいってきます。
なんてもんじゃない。
最もなさねばならない大事といわれています。
法華経を中断されてるんです。
そして、韋提希夫人のもとに行かれています。
よっぽど大事なことだったということです。

法華経と観無量寿経は同時の教だと蓮如上人もおっしゃっています。
つまり、観経はそれほど大事なお経だということです。

法華経と観無量寿経は同時の教だと蓮如上人が仰有った根拠

 これによりて、むかし釈尊霊鷲山にましまして一乗法華の妙典を説か
れしとき、提婆、阿闍世の逆害を興し、釈迦韋提をして安養を願はしめ
たまひしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨
して、韋提希夫人のために浄土の教を弘めましまししによりて、弥陀の
本願この時にあたりて盛なり。
 このゆえに法華と念仏と同時の教といへることは、この謂なり。
 是れ即ち、末代の五逆、女人に安養の往生を願はしめんが為の方便に、
釈迦、韋提、調達、闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議
の本願に帰すれば、必ず安養の往生を遂ぐるものなりと知らせたまへり
と知るべし。                 (御文章四帖目三通)

これは、機の真実を説かれたお経といわれます。
私たちの本当の姿を説かれているということです。
それは、一機と言われます。たった一つ。
これだけ沢山の人がいても、たった一つなんですね。

そして、阿弥陀仏の本願は、その機を救うために説かれたたった一つの法なので、
一機一法といわれます。

ちなみに、一切経は七千余巻あると言われますが、
それは機に合わせて説かれたものだから、それだけ膨大な量になったのですね。

対機説法、あるいは応病与薬と言われます。
機に合わせて法を説くということです。
病に応じて、薬を与えると言うことです。
だから一切経はそれだけ膨大な量になったといわれます。
そうやってお釈迦様は、機毎に説かれたのですが、
その真意は本当の姿を知らせるためだったのです。
そこまで導こうとされた。
因果の道理で統合されて、本当の姿を知らせるために。

その本当の姿は、百万人いたら百万人同じ。一機です。
そうやって一機一法まで導かれた。



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by sakyamuni | 2017-06-26 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

王舎城の悲劇は、家庭悲劇。
王舎城の惑業苦の中で、最初に権力者について。

権力者の特徴は、
自己中心的ということです。

それが分かるセリフがありますね。
「実は、お前のために、今日はここへ来たのだ」
本当に修行者の為かな。
あなたのためといっているけど、人の為と書いて偽りという字ですね。
「お前のため」というのは権力者の常套手段といわれます。
自分の欲のために来ているんですよね。

謝恩セールがありました。
恩に感謝するといって、利益度外視の商売をしているかといったら、
そんなわけないんですね。
消費者のみなさんのためにといいつつ、買って貰いたいんですね。

選挙もそうです。みなさんのために働かせていただきますといいつつ、
自分が議員になりたいからですよね。
よく見たら、自分のを満たしたいためにやっていることって
色々あります。

そして、修行者が断ると、
「お前のために言ってやっているのに、わしの命がきけんのか。
わしの命令に従わないものは生かしておけん」と、
態度を一変させている。

ところで、ビンバシャラ王のこの姿、私たちにもないでしょうか。

私たちは、そんなこといってもみんなから文句が来るけど、
ひとたび権力を握ったらどういう行動に出るか。
ビンバシャラ王の姿は私たちの姿で、我利我利といわれます。
これが私たちの姿です。
このやりとりを通して、自分の姿を知らないといけません。
権力者の姿は、全ての人の姿を見せてくれているのです。


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by sakyamuni | 2017-06-25 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

王舎城の悲劇で、韋提希夫人は、子供欲しいと惑って、
実際に修行者を殺します。
そうしたら、韋提希夫人は修行者のことが頭から離れなくなって、
修行者が襲ってくる幻影に悩まされますね。
なぜ苦しむかといったら、そういう行いをしたからです。

そういう苦しみを、ビンバシャラ王は全然分かってくれません。
全然会話がかみ合っていません。
夜寝ているときにうなされて、ビンバシャラ王に助けを求めても、
全然取り合ってくれない。


大無量寿経には、
独生独死独去独来
と説かれています。

人間というのは独りで生まれてきたから、独りで死んで行かねばならない。
独りで来たから、独り去って行かねばならない。
これが人生なんですね。

たとえ仲のいい夫婦であっても、
本当に分かり合うということは出来ないんですね。
たとえ親子であっても。

なぜ分かり合えないかといったら、生きている世界が違うからなんです。
私たちは一人一人が業界に生きているんですね。
といったら、身業・口業・意業の三つです。
その行いが、みんな違うんですね。
だから、見える世界も全然違うということです。

パソコンといっても、見え方が違うわけです。
思い入れがちがいますからね。
つまり行いが違うということです。

見るもの、聞くもの、みんなちがいますね。
はさみでも、紙を切ろうと思っている人と、磁石を持っている人と、
殺意を持っている人では、見え方が違います。

これを仏教では、一水四見といわれます。

水を見て、天人は瑠璃(宝石)と思い、
人間は飲み物と思い、
餓鬼は青白い炎と思い、
魚は住処と思うということです。

見え方が違うということです。
それぞれの世界というのは、行いによって生み出すものだからです。

手を打てば 鹿は驚き 魚は寄る 茶店の女中は返事する

同じ音でも、鹿は鉄砲の音かと思い、魚は餌かと思い、
茶店の女中さんは、自分が呼ばれたかと思って返事をする。
聞こえ方が違うということです。

仏一音をもって説法演説したまうに、衆生、類に従って解を異にする

同じ御説法を聴聞しても、それぞれの人によって受け止め方が違うんです。

仏法が説かれるのを、どれだけ受け取るかと言うことには、
人それぞれ違います。
多くきけた人は素晴らしいし、
きけなかった人はもったいない。

より多く受け取るには、聴聞の前に目的を確認し、
ここ一つ聞き抜くぞという気持ちで臨むのとそうでないのとでは全然違います。

また、前日に体調を整えておくことも重要です。
説かれている法をどれだけ受け取れるかというのは、
その人の受け心によります。

ちょうど茶碗のようなもので、
ちゃんと上を向いていないときちんと受け取れない。
受け心というのは非常に大事です。



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by sakyamuni | 2017-06-24 12:00 | 実践 | Comments(0)


善導大師一人仏の正意を明らかにされた。
もう一つ問題になっていたのは南無阿弥陀仏の解釈です。

これを同じ時代の人たちは、唯願無行と言っていた。
願はあっても行はない。

韋提希が51段目まで出たと書かれていて、
南無阿弥陀仏と称えなさいと書かれているが、それは別時意趣。
一日一円ずつためていけば億万長者になれるぞ。がんばれ。というようなもの。
よく考えて見ればどれくらいの時間がかかるか判らないが、それは言わずに、頑張れという。
この南無阿弥陀仏は別時意趣だといった。それは遠生の結縁になるといった。
遠生の結縁というのは、長い間たっていつか仏になれるということ。
それに対し善導大師は願行具足の南無阿弥陀仏だといった。

ここで大事なのは、天台・浄影・嘉祥が見ている人間観と、
善導大師が見ておられる人間観が違うということ。

天台・浄影・嘉祥は願ぐらいはある。
阿弥陀仏の極楽浄土に往きたいという心ぐらいはある。
そういう清らかな心ぐらいはあるというのが願。
それに対して善導大師は、それさえないと観た。そこが違う。
聖道仏教で登っていくのは、願ぐらいはあると思っているから。
これは天台・浄影・嘉祥だけじゃなくて、浄土真宗以外の全宗教はそう。
よく信心しなさいと言うが。そういうこと。

ある夫婦が、子供が7人いて、これ以上授かると困るとおもっていた。と
ころが授かってしまい、しかし産婆さんを呼ぶ金もなかった。奥さんは
産婆さんも呼べずにうんうん唸っていた。見るに見かねた夫が金比羅に、
もしうまくうちのかかぁが産むことができたら銅の鳥居を寄進します。
といった。すると奥さんが、どこにそんな金あんの。といった。ところ
が夫が、うるさいだまってろ、俺が金比羅だましている間に早くうんじ
まえといったという話がある。

私たち何か信じていると言ってもこの程度。清らかな心なんていない。
韋提希夫人はものすごいことをしていたが、私たちも同じ。

以前こんな事があった。
アメリカのオハイオ州で子供の授からない女性がいた。
主人には妊娠したと言う。
そして臨月近くなると、臨月の近い女性に近づき、
二人きりの時にその女性を殺して、腹から胎児を取り出して、
自分の子供だといっていた。警察がいったがしらを切っていた。
しかし、その女性は自殺してしまった。
そしてガレージの下から殺された女性が見つかったという。
韋提希夫人だけでなくて、私たちも縁さえ来ればそういうことをやる。
子供欲しさに人を殺す。そんな私に何かを信じる清らかな心などない。
善導大師は願も行も阿弥陀仏の願と行だといった。
古今楷定の六字釈という。妙釈ともいう。
今までの間違っていた解釈を正しく解釈された。

「南無」と言うは、即ち是れ帰命なり。亦是れ発願廻向の義なり。
「阿弥陀仏」と言うは即ち是れ其の行なり。
斯の義を以ての故に、必ず往生することを得。 (玄義分)

蓮如上人の御文章では5帖目13通

「南無阿弥陀仏」と申す文字はその数わずかに六字
なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の
広大なること、更にその極まりなきものなり。 (御文章五帖)

そんな功能があるとも思えない。功能というのはパワー。
幸福にする働き。功は功徳の功。宝ということ。
能というのはお力。大宇宙の万善万行がおさまった、ものすごいお力。
無上というのは最高。無限ともいわれる。
甚深、深さの知れない利益。

利というのは施す。益というのは幸せ。
言葉を尽くして仰有っておられる。言葉の限りを尽くしておられる。
この後に善導大師の古今楷定の六字釈が書かれている。
南無というのは機。それは帰命。阿弥陀仏を信じるこころ。
これは発願回向。
これは阿弥陀仏が願を発して与えて下された。ということです。
信じる心も造って下された。ということ。
阿弥陀仏というのはその行。これは帰命する者を助ける力。法ですね。
南無というのは信じる心、機。阿弥陀仏というのは法。
信じる心、助ける力。
信じる心も造って下されて、そして信じる心を与えて助けてくれる。
願行具足している。
だから韋提希夫人のような人でもこの阿弥陀仏の願と行が具足して助かる。
阿弥陀仏が信じる心も造って下されて、助けて下さる。
その後に詳しく書いてある。

で、善導大師は阿弥陀仏の本願にすくい取られてハッキリと体験で知らされた。
体験しての経典を読まれて書かれた観無量寿経疏。
天台・浄影・嘉祥は歯が立たなかった。
これが南無阿弥陀仏。



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by sakyamuni | 2017-06-23 12:00 | Comments(0)

難思の弘誓は難度の海を度する大船
        (教行信証総序)

難度の海とは、苦しみの海ということで、人生のことです。
苦しみの海と言われるように、ここにいる人は苦しんでいるんです。
生きる目的が分からないから。
そういう人って、どうするだろうか。
とりあえず、泳ぐ。どこに向かってか。
丸太や板きれに向かってですね。
浮いているそれらのものに向かって泳ぐしかないんです。
とりあえずつかまるものを求めるんですね。

丸太や板きれってなにを譬えていますか?
お金・財産・地位・名誉。
何でもいいですけど、そういったもの。
丸太はつかまったその時は、一時安らげるけど、
ずっとつかまっていられるわけではない。

クリッとひっくり返ってしまう。
いろんなものに熱中して手に入れてきたと思うけど。
苦労して泳いで手に入れるとうれしいんですね。
しかし、その喜びは続くかっていうと、どんなことも続きません。
大学合格・結婚・家を建てた、それらの喜びは続かないんです。

だから、この難度海は苦しいんです。
しがみついても一瞬なんです。
これが私たちの人生であると言われます。

その難度海の姿。どうしてこうなるのか。

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと
みなもって空事・たわごと・真実あること無し
(歎異抄)

聖徳太子がいわれているお言葉でいえば
世間虚仮・唯仏是真。
その世間は虚仮、幻ですよと。

これが、煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は
万のことみなもって空事・たわごと・真実あること無しです。

煩悩具足の凡夫が火宅無常の世界に生きているから、
難度海になるんです。

万のことみなもって空事・たわごと・真実あることの無い煩悩具足の凡夫が
万のことみなもって空事・たわごと・真実あることの無い火宅無常の世界で
生きているから難度海になるんですね。

煩悩具足の凡夫とは私たちのことです。
煩悩で出来ていると言うことです。
欲・怒り・ねたみ・そねみ。
そういう煩悩でできた私たちが、火宅無常の世界で生きている。
そんなところで、本当の幸せを感じられると思いますか?
死という波がやってきたら、全て崩れていってしまいますよ。
どんな丸太も役に立ちません。ディープインパクトという映画がありますけど凄い波でした。
物凄い。東京タワーの何倍もの大きさ。

火宅無常の世界だからです。
火宅というのは、隣の家が燃えていて、
その火が自分の家のひさしに燃え移ったような状態です。
不安ですね。常に不安が無くなりません。
無常の世界だから。どんな丸太も、続くものではありません。
必ず裏切られて、塩水飲んで苦しまねばならない。
だから難度海になるんです。

それを、世間虚仮ともいわれます。
生まれたからには、やがて死んで行かねばなりませんけれども、
一生懸命手に入れたものを全部置いて行かねばならない。
破滅の未来が来ます。

どれをとっても簡単には手に入りません。
しかし、それら一切を奪われる。

そんな難度海を明るく楽しくわたす大きな船があると
仏教で教えられています。


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by sakyamuni | 2017-06-22 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)