物を言え

蓮如上人仰せられ候、「物を言え物を言え」と仰せられ候、「物を言わぬ者は恐ろしき」と仰せられ候。
「信不信ともにただ物を言え」と仰せられ候。「物を申せば心底も聞え、又人にも直さるるなり。ただ物を申せ」
と仰せられ候。(御一代記聞書87番)

蓮如上人が、仰有った。
物を言え…とにかくしゃべりなさい。
いまさらこんな事聞いたら…と思わないこと。
「物を言わぬ者は恐ろしき」
聞くは一時の恥じ。聞かぬは多生の恥じ。

「信不信ともにただ物を言え」と仰せられ候。
信心決定した人は、自ら救われた世界を大いに語らねばならないし、
まだのひとは、理解したところまでは話をしなければならない。

よく、
「自分はまだ仏法をよく理解していません。だから人に話をするのは遠慮します」
と言うのは、仏法精神に適っていない。

聞けている人ほど、親鸞聖人の教えを聞きたいと思って集まってきている人。
その人に、親鸞聖人の教えを話する。
それならば何の問題もない。
自分の信仰について話をする。ということになると、それはやり難い。
親鸞上人の教えを聞きに来たのでないという人もいる。

そういう人に話をする時はあなたの本心が
親鸞聖人の教えを聞きたがっているから、
その本心に話をしているんだという気持ち。
大いに法を語る。これは素晴らしい。

我が信心は人の信心はいかがあるらん」とは、
私の信心は自力の信心か他力の信心かを沙汰する。
信心決定した人、していないとかを沙汰するのでない。
そんな事は沙汰できない。

法の上で、信心とはどんなものかということについて沙汰をする。


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by sakyamuni | 2017-05-31 18:00 | 実践 | Comments(0)

浄土真宗とは何か。
親鸞聖人はどのように仰っているか
「真実信心をうれば実報土に生る」と教えたまえるを浄土真宗とすと知るべし。
(唯信鈔文意)

これを、信心正因という。
正因の正とは、たった一つということ。
一つに止まるとかく。
信心一つでこの世も永遠に変らない幸せになれるという教え。

だから親鸞聖人の教えは他の教えとは全く違う。
これを唯信独達の法門と言われる。
ただ信心一つで達成する。

こういうことを蓮如上人は別のところで教えられている。
「聖人一流の御勧化の趣は信心をもって本とせられそうろう」
とは肝要ということ。御勧化は教え。
これを信心為本と言う。本とするとは、目的とするということ。
信心一つを獲ることが親鸞聖人の教えの目的であり、
人生の目的は信心一つということ。

生きている人間にとって最も大事なのが目的。
その目的を教えられたのが親鸞聖人

「あと一週間の命となったときに何をするか…それこそ一生涯かけてでもすべき
人生の目的である」(パスカル)
今が月曜日の朝。レポート?バイト?

やりたいことをやると言う人が多いと思います。
貯金を下ろして、今まで我慢していた事を一気にやる。
月火と酒池肉林の生活をして、起きた時にはもう水曜日の朝。

そのときにどんな気持ちになるか。
あと五日になったかと言う気持ちになる。
とにかくあらゆる事をやって、気がついたらもう木曜日の夜になっちゃう。
自分のやりたいことをやって、悔いないと言うものがあるだろうか?

これ一つ一週間でやりました。
悔いないと言えるもの。
これが人生の目的。

レストランに入る目的は何か。
食事。
目的はハッキリしている。
その目的さえ果たせば、いつ出て行ってもよし。

2時間3時間まって、
「すみません出て行ってください」といわれたら、
「ふざけんな」となる。

食べさえしたら、
レストランの中で何をやっても出て行っても後悔はない。
これがレストランの目的。

これを人生に置き直した時。
いつ人生の舞台を降りていっても良いというその目的は何か。
人生とレストランの違いは、人生はいつのまにか生れてきてしまった。
その人生の、これ一つ達成するために私は生れてきました。
と言えるものはなになのか。

オリンピックでメダルを取る事なのか。
小井出監督。高橋尚子は18分代をめざす。
高橋尚子「もう終わっちゃった。」
それまで2人3脚で一生懸命頑張ってきて、
そして、一つの目的を達成した。
その次は?

柔ちゃん。悲願の金メダル。小さい頃から。
じゃあ、あの人はこれでいつ死んでも後悔無しとなったか?
世界選手権5連覇を目指す。

一つの目的を達成したらまた次の目的ができてしまう。
そこから第2,3の人生のスタートができてしまう。

本当に人生に生れてきた目的と言うものは一体何なのか。
これ一つ達成したらもういい。
いつ死んでも悔いないと言えるものは一体何なのか?
早稲田大学に合格する事?
司法試験に合格する事?
どんな道にしても、達成したらまた次の目標。

いままで、その都度目標と言うのはいっぱいあった。
そういう人生の目的は何なのか
という事に対して親鸞聖人は信心をゲットする。
獲得する。
これ一つのためだといわれた。


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by sakyamuni | 2017-05-30 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

 なぜやめぬ 恨み呪えば 身の破滅

 普通恨んだり、呪われる、というと恨まれた方、
呪われた相手の方が苦しんでいる、と思う。
 映画「シックス・センス」
その中でも恨みのろいをもったまま死んだ人がいた。

 恨まれている方が不幸に見える。
しかし実は怨み呪っている本人の方が不幸なんです。
恐ろしい種を蒔き続けているのに、それを知らない。
人を怨んで何が悪い。
アメリカ映画って復讐劇が多い。
しかし主人公いい人間として描かれているが、実は愚痴の心。
恐ろしいこと思っている、その種蒔きで苦しんでいるとは分からない。
仏法聞かないと分からない。仏教では愚痴の心と言う。

難度海とは、渡るにわたれない苦しい海ということで、
人生をあらわしている。古今東西の人類は難度海におぼれ、
そして塩水飲まされ、もだえ、のろい、殺し合って苦しんでいる。

 古今東西、だから全人類。
おぼれて、苦しんでいる。
何で俺が苦しい思いしなければならないんだ。
それを種蒔きを反省するのではなくて、
他の人のせいにして怨み、呪っている。

しかしそれが恐ろしいことだとはほとんどの人が気付かない。
みんな自惚れているから、邪見驕慢の悪衆生だから。

 まーそうなのかな。まーそうだろうな。
確かに問題にしなきゃいけないんだろうなー。
ぐらいにしか思えない。

 しかし仏法聞いていくと、心の中で人を殺している、ということが分かる。
大学生のとき、お父さんやお母さんに反抗するということはどういうことか。
ある人が一年間に150万ほどの融資を受けているとする。
その融資者に「おまえなんかいない方がいいんだよ」と思ったりしていたらどうか。
うるせーよ、とか言っていたら、そんな人に対しては腹が立つ。
 しかし恩田に背くとはそういうこと。

 そんなことやっているのにふんぞりかえっているのが私たち。
煩悩具足の凡夫。
そういう相を知らされて、親鸞聖人悲痛な懺悔をされている。

 悲痛だから、痛いほど懺悔されている。
 それは「無慚無愧」。

人に対して恥じないのはともかく、自分に対しても恥じない、救いようがない。
 生まれて已来、ずっとそんなことやっている。
 ホントに自分の相知らされてきたら、仏法を聞くことによって
真実の鏡に照らされて、自分の姿が反省され、
そんな者がどうしたら救われるかとおもわずにおれない。


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by sakyamuni | 2017-05-29 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

人生は苦なり

親鸞聖人は
「難思の弘誓は難度海を度する大船」
と教えられています。

親鸞聖人は主著『教行信証』の一番最初に
お釈迦さまが教えられたのと同じことを教えられた。

 なぜ同じになるのか。

 難度海を度する大船が一体どういう意味を持っているのか、
それがよく分かれば、
お釈迦さまのお言葉とまるっきり同じだということが分かります。

 まず難度海ということについて。

難度海、これを親鸞聖人は別に何と仰有っているか。
「苦海」どこで仰有っているか。

御和讃
生死の苦海 ほとりなし

 生死というのも苦しみ。苦しみ悩みの海。
私たちの人生は苦しみ悩みの海。
そしてほとりがない。どこまでいっても苦しみ悩みがなくならない。

難度海とは、苦しみ悩みの波が次から次ぎとやってくる、
人生のことを言っている。

 いろんな人が同じようなことを言っている。
 林芙美子さん
花の命は短くて、苦しきことのみおおかりき
有名な女流作家。自分の一生を花にたとえて、
花のようにはかない人生だった。

そして苦しいことばかり多かった。

釈尊はこれを「人生は苦なり」と仰有った。
苦しみ悩みの人生。
人が生きるということは苦しみ悩むということですよ。

渋谷のホームレス。確かにああいう人は苦しいんだろうな。
しかし、そうでない人もいる。
自分の人生、あるいは人の人生見ても、
そうでない人もいるのではないか。

これは一部分の人のことを指しているのではないか。
と最初思う。

人生は苦なり、と話している人がいると、
あー、あの人は大変なんですねー。と思う。

しかしこれは、半分の人は楽しくて、
半分は苦しいということではない。

 人として生まれて、人として生きるということが
苦しみなんですよ。

 ということは、釈尊が仰有っている苦しみと、
私が感じ取っている苦しみ同じではないと思わずにおれない。

 苦しみというのは、一つは私たち、
難度海という海にポツーンとひとりぼっち。
そしてあたり一面見渡しても島影一つ見えない。

 一体どこに向かって生きていったらいいのか分からない。
生きる目的がハッキリしていない。生きる目的。
これを人生の目的ともいいますが、泳ぐ目的地がハッキリしていない。
そしてあっちにふらふら、こっちにふらふら。

蓮如上人は浮生なる相と仰有っている。根拠がない。
芥川は「狂人の主催したオリンピック」と言われている。

 皆さんオリンピック見てるかな。
 私も車の中でラジオで聞いた。
サッカーをラジオで聞くほど馬鹿げたことはないですね。
誰もがサッカー、柔道を見て感激している。

 オリンピックってどんなもの。まずは競い合いです。競技。

 昔、水泳の田島さん。銀メダルでした。
インタビューの第一声で、「悔しかったですー。金とりたかったですー」
でもよかったじゃないですか。銀だった
し、ベストタイムを塗り替えたし。
しかし競技は厳しい。競技は勝った、負けた、勝負の問題。
勝ち負け、それが全て。勝ってる人はにこにこ顔。負けてる人は悔しい顔。
勝ったらうれしい。負けたらくやしい。

 田村良子選手。三度目の正直で金。
飛び上がってよろこんでいた。今まで強いと言われてても、二回勝てなかった。
 オリンピック見てると、勝負の厳しさを知らされる。

 私たちの人生も競い合い。
 何を競い合うか。オリンピックでは華麗さ、早さ、高さなど。
私たちの人生でも競い合うこと色々違う。どんなことを競い合うか。
 学力。これは厳しいでしょう。
 出世競争。私も同窓会でそういう話があった。
 稼ぎ。収入。これからだね。これは確かに言えてる。
バイトでも、どっちが如何に短い時間で高い収入を得られるか。
家庭教師、日本の暴利と言われてる。

話題の豊富さ。食事中などで、どれだけ気の利いた話題を提供できるか。 
容姿。
如何に渡り上手であるか。
スポーツ。

みんな人それぞれ、これについてだけは負けないぞ、
俺は、という自分のセールスポイントを持っていて、
何もないと、終いには、俺は誠実だ。
自分の心に正直だ。など、
そして勝った負けた、あの人に負けた、悔しくて悔しくて、夜も眠れない。
外を歩けない。

 そしてオリンピックと同じように、外から応援、声援がある。

 それは有り難いけど、ところがこのオリンピックは
狂人の主催したオリンピック。
ちなみにシドニーはサマランチ。

 よーいスタート、と始まって、スタートからゴールまで、
ルールにしたがって勝負するのが競技だけど、私たちの人生では、
よーいスタートで飛び込んで、どうしたらかっこよく・・・。
そして外からいろんな人が応援してくれるけど、どこがゴールか、知らないで泳いでいる。

しかもそれが全く問題になっていない。
これ以上不可解なことはない。
 政治、経済は、泳ぎ方を教えてくれるコーチ。
丁寧に詳しく教えてくれるけど、どこに向かって泳いでいったらいいか、
といことは誰も教えてくれない。

まさに狂人の主催したオリンピック。
芥川は、「自殺もまた一つの方法である。」と言っている。

 泳ぐのは大変。プールに入っているだけでも疲れる。
 小学校の時。水泳の級があった。500㍍の遠泳をやった。
泳ぎ切ったとき、みんながやったーと言ってくれて、祝福に答えようと
格好よくポーズをとろうとするがプールサイドにはい上がれない。
みじめ。
プールの時間が終わるとクタクタで残りの授業は眠い。

 くたくたになりがら、どこに泳いだらいいかわからん。
しかも泳がないと沈んでしまう。
 丁度それと同じように、毎日毎日、
手足をばたつかせないと生きておれないが、
どこに向かって生きたらいいか、さっぱりわからない。

 そこから釈尊は、「人生は苦なり」と教えられた。


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by sakyamuni | 2017-05-28 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

仏教にはゴールがある

800年前に親鸞聖人も仰っておられた。

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、
浄土の真宗は証道今盛なり。
然るに諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず、
洛都の儒林、行に迷うて、邪正の道路を弁うること無し。
(教行信証後序)

日本全国ほとんどの寺が聖道仏教。
どう生きるかに長けていた。
法然上人、親鸞聖人は流刑。
真実を説いたがために処刑される人もいた。
威勢がよくなかった。
仏教には教行証がある。
教は教え、何処へ行くか、どうやって行くか。
それを聞いたら教えのとおり実行。
教えのとおり実行すれば、仏教では悟りという結果を得る。

マラソンでもゴールが分っていて、道が分っていて、
どうやって早く行くかということが問題になる。
世間でもどう生きるかは話されている。
楽しく快適に安心して。
働く→生きる→?
「人生は 食て寝て起きて糞たれて 子は親となる 子は親となる」
虫けらと何処が違うか。ゴキブリ、鼠と大差ない。
何処に向かって生きているのか。
最後は100%死。まさに死ぬために生きている。

なぜ生きるか、人生の目的は全人類に必要。
だがなかなか聞けない。
蓮如上人も親鸞聖人も常々仰っておられた。
立派な教えはあるが、教えのとおりに実行している人はいない。
当然悟った人もいない。
教えのとおりに助かったものがいない。
「親鸞は無明の闇を破って、絶対の幸福になる明らかな体験をしたぞ」
と仰っている言葉とも言える。
信心決定とも言う。
信心は浄土真宗だけ、決定ということが言われる。
信心決定といえば親鸞聖人の教え。
決定とは完成がある、決勝点があると言うこと。

「死ぬまで求道」。
持っていないものを求めるのに、死ぬまで求まったという事が無い。
女子大を受験する男性も、3年前の宝くじを買う人もいない。
無駄、損するだけ。大学に入れば、就職すれば、結婚すれば「きっといい事あるだろう」と思う。
何処まで求めればいいのか。
最後は必ず死ぬ。
悲劇で終わる。
親鸞聖人は完成があるぞ、一念で決勝点を突破できるぞと教えられた。

諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず
何が真実の教えか分っておらん。
真仮の門戸が分っておらん。

従仮入真」。
仏教のイロハが分っていないじゃないか。
真実の世界に入った人にしか方便、仮は分らない。
諸寺の釈門はどうか。
何が真で何が仮か分っておらん。

仏教で信度が深まったという。
信仰が何処まで進んだか。
どれだけ純粋に、真剣に求めているかが問題。
御文章に人が集まっている様子がたくさん書かれてある。

さいわいに五里十里の遠路をしのぎ、この雪のうちに参詣のこころざしは、
いかようにこころえられたる心中ぞや。
千万こころもとなき次第なり。
所詮已前はいかようの心中にてありというとも、
これよりのちは心中にこころえおかるべき次第を、くわしくもうすべし。
よくよく耳をそばだてて聴聞あるべし。(御文章1帖目5通)

「遠くから参詣されるのは大変だったでしょうが、皆さんの顔を見ると心配に
なってくる。どれだけの人が信度を深めることを問題にしているのか。
今度の御法話からは真剣に聞いてくれよ」。

仏法の素晴らしさが知らされると人に話さずにはおれなくなる。
人を誘わずにはおれなくなる。
話をして初めて自分がどれほど理解しているか分る。
真剣に聴聞できる。


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by sakyamuni | 2017-05-27 12:00 | 実践 | Comments(0)

信心をとりて礼にせよ

 親鸞聖人は84歳で善鸞を義別された。
波瀾万丈のご生涯を送られた親鸞聖人にとって、善鸞義別が一番おつらかったこと。
なぜ、善鸞を義別なされたのか。
仏教の結論である一向専念無量寿仏を破壊、蹂躙したから。

 親鸞聖人は
「我が子のために大衆を、地獄に堕としたとあっては親鸞、何と仏祖に申し訳がたつのか」
親鸞聖人が恩愛を断ち切られてまで一向専念無量寿仏を明らかになされたからこそ、
私たち今仏法を聞かせていただける。

 では、何が親鸞聖人のご恩に報いることになるのか。
それは、その人の喜ぶことをしてこそ、恩に報いることになる。
「命を助けてもらった」
と言って相手の嫌いなものを送っても、恩に報いたことにならない。

 では親鸞聖人にとって、何がもっとも喜ばれることだったのか。
それが分かるお言葉。

御文章4帖目15通。「大阪建立」
あはれあはれ存命のうちに、皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり
これは蓮如上人の御遺言。
正しく仏教を伝える先生はみな思っておられること。

遺言には、適当なことは書かない。
人生最後において、これだけは分かってもらいたい、知ってもらいたいということ。
親鸞聖人も同じように思っておられる。

「あわれだなあ、かわいそうだなあ。皆さん、命のあるうちですよ。
早く、信心決定してもらいたい。この親鸞は一日中、これ一つ思い続けているんです」
 何をすることが、親鸞聖人のご恩に一番報いることになるのか。
それは、私たちがこの報恩講で信心決定すること。
「報恩講で信を獲れ」という言葉もある。
信心決定することが、一番のご恩返しになる。

御一代記聞書16番。「信心をとりて礼にせよ
十二月六日に富田殿へ御下向にて候間、五日の夜は大勢御前へ参り候に、
仰に「今夜は何事に人多く来りたるぞ」と。
順誓申され候は「まことに此間の御聴聞申し、有難さの御礼のため、
また明日御下向にて御座候、御目にかヽり申すべしかの間、歳末の御礼の為ならん」
と申し上げられけり。
そのとき仰せに「無益の歳末の礼かな、歳末の礼には信心をとりて礼にせよ」と仰候いき。

年の瀬に富田という人の所に行かれたところ、たくさんの人がいた。
蓮如上人「何でこんなに人がいるんだ」、
順誓「この前の聴聞させていただいた御礼、今度聴聞させていただく御挨拶、
そして年の瀬ですので、皆さんお歳暮をもってこられたのです」
蓮如上人「そんなものは必要ない。明日の説法、真剣に聞きなさいよ」
「何のために来たと思っているんだ。御礼をしたいなら、信心決定して礼にせよ」
 蓮如上人が、常に信心決定あれかしと思っておられたことが分かる。

この御正忌のうちに参詣をいたし、志を運び、報恩謝徳をなさんと思いて、
聖人の御前に参らん人の中に於て、信心を獲得せしめたる人もあるべし、
また不信心の輩もあるべし。以ての外の大事なり。
御文章5帖目11通。「御正忌

 御正忌とは報恩講のこと。志を運ぶとは、財施をされたということ。
そうやってご恩報謝された人がある。
親鸞聖人の報恩講に参詣して、信心決定していないひとがいる。
していないで、どうしてご恩報謝が出来るのか。
 信心決定していない人は、極楽浄土にはいけない。じゃあどうなるのか。

この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり
御文章2帖目2通。「すべて承引」
 お釈迦様は、一切衆生必堕無間と仰有っている。これを後生の一大事という。
 ではなぜ、無間地獄に堕ちるのか。そのような行いをしているから。
仏教では於因説果といわれる。
今の姿が分かれば、一息切れた後の姿もわかる。
では、私たちの姿を仰有ったお言葉。

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、
欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、
臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず。
親鸞聖人『一念多念証文』

 欲、怒り、ねたみ、そねみ。
そういった私たちの煩悩。欲で出来ている。
欲によって、私たちどんなことを思うか。
今日の朝テレビを見ていたら、エビを真っ二つに切って
「おいしいっ!」と言って食べている。
もしあれが私たちだったらどう思うか。カニもあった。
女性が「おいしい〜」と言って食べていた。
蚊が来たら「バシッ」と叩くし、ゴキブリも害虫だといっている。
自分さえよければ、他の人はどうなってもいいという心がある。
 欲があれば、当然怒りも愚痴もある。その心が多く、ひま無くして。
間なし、間がない。だから無間地獄、於因説果だから。
当然のこと。その今の姿をよく見ていかなければならない。

 無間地獄の苦しみの長さ。
人生80年を一ミリとしたなら、無間地獄の苦しみはどれだけの長さか。
地球10周半。これは、目を外に向けていても見えない。
目がうちに向いたときに、初めて見えてくる。
 信心決定しなかったならば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕ちる。
罪を罪とも思わず、悪を悪とも感ぜず、地獄覚悟で突っ走る、
こんな危ないことがあるだろうか。
「井戸のぞく 子を呼ぶ親は 命がけ」
 井戸におちると死んでしまう。
その井戸の恐ろしさが分からないから、子供はバブバブと近づいていく。
その子を呼ぶ親は命がけ。

 親鸞聖人、一向専念無量寿仏と仰有った。
これはイコール信心決定ということ。
一向専念無量寿仏するということは、信心決定すると言うこと。
それを早くせよと仰有っている。それは、一大事があるから。
 親鸞聖人に対してどれだけのご恩があるか。
そのご恩に「私が」報いる。


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by sakyamuni | 2017-05-26 18:00 | 信心 | Comments(0)

絶対教判

本願一乗は、頓極頓速・円融・円満之教なれば、絶対不二之教、一実真如之道なりと応に知るべし。
専が中之専なり、頓が中之頓なり、真の中之真なり、円の中之円なり、一乗一実は大誓願海なり。

非常に明快な親鸞聖人の御言葉。
絶対教判といって、比較のしようがない。
これが真実と仰有った言葉。
阿弥陀仏の本願という全人類の救われるたった一つの乗り物、
これが本願一乗
は速い、
は極めて、極めて速い。

頓速、豚の足ではない。
これは頓も速い、速も速いでものすごく速い。

円融、円満の教。
円融とはこの円融。
仏智全領する、円満之教とは完全無欠の教え。
だから、絶対不二、比較するものがない、たった一つの教え。

というのは、まじりっけがない。
混じっているのが雑といいます。
専の中の専とは、純粋の中にも純粋。
よけいなものを全部払い落とした。

頓が中にも頓、速い中にも速い。
真の中の真。まことの中にもまこと。
極速円融の真詮ということをここで親鸞聖人はいわれている。
比較しておられないでしょ。
これと比べてこうだとはいわれていない。

こういうのを『絶対教判』という。
二双四重の教判』というのは、比較されている。
ああいう場合は比較してこっちの方が良いよという説かれ方。
三重廃立もそう。
内道と外道がある、聖道門よりも浄土門、仮より真、
こっちの方が良いよと。

ところがこれは何とも比較されていない。
弥陀の本願は真実の中の真実。
こういう言い方。
比較を絶するそういう教え。
他に比べるものがない。


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by sakyamuni | 2017-05-25 18:00 | 信心 | Comments(0)

八万の法蔵

それ、『八万の法蔵を知るというとも、後世を知らざる人を愚者とす。た
とい一文不知の尼入道なりというとも、後世を知るを智者とす』と言えり。
然れば、当流の意は、あながちにもろもろの聖教を読み物を知りたりというと
も、一念の信心の謂を知らざる人は徒事なりと知るべし。
御文章五帖目二通『八万の法蔵』


八万の法蔵とは一切経。
一切経を全部読んで知っている人でも後世を知らない人、
自分が死んだらどうなるか分からない人は、愚か者。愚者。

愚か者って叱られたらいかんだろうやっぱり。
一文不知の尼入道ってどんな人?
お金の勘定も出来ない人。
或いは文字でいえば字の縦横も分からない人。

真宗聖典をちらっと見てください。
逆さにしますか?

しないと言うことは、あなたは一文不知ではない。
一文不知の尼入道でも、
後世を知っている人、信心決定した人は、
賢い、智者である。ということだね。

然れば当流の心
浄土真宗の教えは
どれだけお聖教を読んで物を知っていても
一念の体験のない人は徒事。
と言うことは、一念の信心の体験をした人が智者。

一念からが智者、一念までが愚者。
真実の信心を体得した人が智者、諦得していない人が愚者。
だから中村元さんのような人でも、
あの人は学者だが残念ながら一念の信心の謂は知らない。
後世を知らない。

一念の信心が如何に大切か。


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by sakyamuni | 2017-05-24 12:00 | 信心 | Comments(0)

御文章 2帖目5通 数珠

そもそも、この三四年のあいだにおいて、当山の念仏者の風情をみおよぶに、まことにもって他力の安心決定せしめたる分なし。
そのゆえは、数珠の一連をももつひとなし。
さるほどに仏をば手づかみにこそせられたり。
聖人、まったく、数珠をすてて仏をおがめとおおせられたることなし。
さりながら、数珠をもたずとも、往生淨土のためには、ただ他力の信心ひとつばかりなり。
それにはさわりあるべからず。まず大坊主分たるひとは、袈裟をもかけ、数珠をもちても子細なし。
これによりて真實信心を獲得したるひとは、かならず口にもいだし、またいろにもそのすがたはみゆるなり。
しかれば、当時は、さらに真實信心をうつくしくえたるひと、いたりてまれなりとおぼゆるなり。
それはいかんぞなれば、弥陀如来の本願の、われらがために相応したるとうとさのほども、身にはおぼえざるがゆえに、
いつも信心のひととおりをばわれこころえがおのよしにて、
なにごとを聴聞するにも、そのこととばかり、耳へもしかしかともいらず、ただひとまねばかりの体たらくなりとみえたり。
この分にては、自身の往生極楽も、いまはいかがとあやうくおぼゆるなり。
いわんや門徒同朋を勧化の儀も、なかなかこれあるべからず。
かくのごときの心中にては、今度の報土往生も不可なり。
あらあら勝事や。ただふかくこころをしずめて思案あるべし。
まことにもって人間は、いずるいきはいるをまたぬならいなり。
あいかまえて油断なく仏法をこころにいれて、信心決定すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明6 2月16日 早朝に俄に染筆畢而已


 このようにおっしゃった相手はどういう人か。
御文章は当然、門徒の人に言われている。

同時に、蓮如上人のお文は、坊主におっしゃっている。
全然数珠を持っていない。坊主に言われている。

寺で説法がなされているとき、近所の人が雪の中来ているのに、
坊主はテレビを見て笑っている。
少しも仏法を聞きにこない。
坊主とは、坊の主と書きますが、もっともっと法施をして当たり前の人。

なぜかというと、坊主というのは、自分がお金を出して家を建てているわけではない。
仏法の為に使ってくださいといわれて出された浄財を使わせてもらって、
建てられた寺に住まいしている。

 坊主は門徒に法施をして当然。
皆さん、目の前にあるものに心を奪われて、目に見えないものは突然やってくるんですよと、
法施をしないといけない。

 法施をするためには、我が身自身がもっと仏法を聞かせてもらわないといけない。
自分が分かっていないのに、話ができるはずがない。
仏法の香りがしない。

その人に近づいても、後生の一大事と聞いたことがない。

その人の口から、仏法を聞いたことがないという人。

後生は一大事と言わない、
全然口から出てこない。
懈怠。

その人が聞いていないから。
仏法の話を聴聞しても、格好だけ真似しているから、接しても仏法が出てこない。
そういうものを不法懈怠の坊主という。

私達ももっと法施をして当たり前。
聞法させていただいて当たり前。

どんな話を聞いても、人まねばかり。
寺に住まいしている生臭坊主だけではない。
後生の一大事という問題は、単純明快誰でも分かる。

生きているうちに厳粛な事実から目をそらしている。
食いたい飲みたい楽がしたいと思っている。
人生の最大事を油断している。

人間というのは、必ず死んでいく。100%。

朝から晩まで油断ばかり。
だから後生の一大事を心にかけて、口で話をしないと自分の問題にならない。

一人一人が今聞かせていただいている本当の仏教の教えを、
一人でも多く、分かりやすく法を説いて聞かせる。
その人自身の仏縁にもなる。

精一杯お伝えしましょうと教えられたもので、
御文章に痛烈な言い方で教えられている。



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by sakyamuni | 2017-05-23 18:00 | 罪悪 | Comments(0)

大学でいうと試験。
試験がまもなく迫るなら、試験を乗り切るために戦わないといけない。

 とりあえず、卒業、卒論を乗り越えるのにヒーヒーという人もある。
卒業しても就職活動が大変で、この敵と戦わないといけない。
就職を乗り越えたら、会社に入って安泰ということもない。
営業の成績を上げるために、その会社のために、セールスマンとなって、思いっきり戦っている。
いろいろな敵が訪れて戦っている。
目に見えない敵が突然やってきて、一撃でダウンしたように、
かかと落としも一切通用しないように、あれこれやっていても、死が来たらみんなパー。

 善導大師と言う人は、そういう実相を
無常念々に至りて常に死王と共に居す
といわれているが、無常の殺鬼は常に迫っている。
無常のトラが迫っている。死王と共に一緒に住んでいるようなもの。
死と隣り合わせになっている。

 死と隣り合わせで生きているような感じがする。
フグもあっけなく死んだなと、一つのニュースとして聞いている。
自分のこととして聞いている人は少ない。
真実の仏教の教えと出会っても死と背中合わせになっている。
 だから命の有る限り、油断のないようにしていきなさいと、道宗が呼びかけている。

後生の一大事、命あらん限り油断あるまじく候
道宗

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by sakyamuni | 2017-05-22 12:00 | 無常 | Comments(0)