カテゴリ:生きる意味( 129 )

西尾寛二『国民の歴史』

『国民の歴史』という西尾寛二が書いた本があります。

興味深い所が一個所あります。
一番最後です。

結論、未来に夢を持てない時代に私たちは突入しています。
平和の虚しさを語っています。

ハイデガーの虚しさの3段階を引用しています。

1つはドイツの田舎で電車を4時間待っている時に感じる虚しさ。
駅のキヨスクなんかで雑誌が売れるのはこういう手持ちぶさたの虚しさ。

2つ目は友人にディナーに招待されて、楽しんで、
家に帰ってきて書斎で机に向う虚しさ。

3つ目は人間存在そのものの虚しさです。
これは対処しようがありません。
しかも軽視しがちである。
ところがこの3つめの虚しさが問題です。

哲学的にも虚しさを考察した人がいるんだということで話をすると説得力があります。
そしてその虚しさを仏教では解決が明らかにされています。



by sakyamuni | 2019-03-10 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

死の恐怖というのは死ぬときの苦しみが怖いので、
それ以外の死の恐怖がない人があります。

そういう人には、ギロチンによる即死がオススメです。
ギロチンというと、首を切る道具です。
断頭台ともいわれて、ルイ16世やマリー・アントワネットなどもギロチンで殺されています。

残虐的な殺しかたと思われていますが、あれは実は安楽死の方法であみだされたそうです。
ギロチン伯爵という人が作ったもので、ギロチン伯爵は非常に慈悲深い人だったといわれています。

それまでの死刑の方法は、
剣で首を打ち落とすものでした。
ところが、殺されたくないので、罪人は、逃げようとします。
そして、うまく一刀のもとに切り落とせないと、剣が首の途中で止まります。
それでもがいているので、何回も首を打ち落とそうとするのです。

2回3回と首を切られている間、苦しみ続けなければなりません。

そこでギロチン伯爵は考えました。
どうしたら罪人も苦しまずに死ねるだろうか。
それで開発されたのがギロチンです。

ギロチンなら首が固定されています。
0コンマ何秒の世界です。
電気椅子は時間がかかります。

それでもみんなギロチンを恐れています。
ギロチンの恐怖は、ギロチンまで歩いていく恐怖です。
肉体的苦痛は何もないが、そこに近づいていく精神的苦痛が大きいのです。

死は一瞬かもしれないけれど、死んだらどうなるかわかりません。
あの世に近づいていく精神的恐怖がいかに大きいか。

しかし私たちが生きるということも死に近づいていくということではまったく同じです。
しかも、ジャネーの法則で、時間の流れは加速します。

この死の問題を解決することで、絶対の幸福になれると教えられたのが仏教です。



by sakyamuni | 2019-03-03 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

料理の腕と食材の関係

なぜ科学が発展しても、心からの安心も満足もできないのでしょうか。

それを考えさせられるのは、料理の食材と料理の腕の関係です。

せっかく高いお金をかけて
フォアグラとかいろんな珍味をもってきても、
3才の子供に作らせたら、
とても変なものになってしまいます。

しかし、一流のコックはプレーンオムレツをつくらせれば分かります。

昔、料理の鉄人というテレビ番組で、
鉄人と小学生の対決をしていました。

ハンディキャップとして、
鉄人は、コンビニで買ってきた食材のみを使い
小学生はどんな高級な食材でも使うというものでした。

ところができあがったものは、
やはり鉄人のほうが美味でした。

私たち、どんなに科学が発達しても、
それを幸せに活かすことができなければ
幸せにはなれません。

科学技術を食材だとすれば、
料理の腕にあたるものは何かというと、
それを何に使うのか
ということです。
それが定まらなければ有効利用は絶対にできないからです。

つまり科学の目的です。
科学の目的は何かがわからないまま
単に技術を向上しても幸せにはなれません。

その科学の目的を知るには、
科学は人間が生きるためのものですから、
私たちが生きる目的を知らなければなりません。
私たちが生きる意味が分からなければ、
科学がどんなに進歩しても、不安や不足はなくならないのです。

その本当の生きる意味が教えられているのが仏教です。



by sakyamuni | 2019-02-28 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

ダイハード

ダイハードという映画があります。

不死身とか、なかなか死なないという意味です。
ブルース・ウィルス主演です。

この映画は、5分に一度死にそうになるシーンが連続します。
死にそうにはなるけれど、最後助かるから売れたんです。

途中で死んでしまったら、それで終わりです。
今までの苦労が水の泡になります。
助かりきらないと面白くありません。

一時的に助かったといって喜んでいても、
何の為の人生だったか、
ということになってしまいます。

しかし、私たちは最後必ず死んでいきます。
ダイハードなら、途中で死ぬようなものです。
必ず途中で崩れてしまうということを自覚すれば
という疑問が当然起きてきます。

もし途中で終わったらだめだとすれば、
人間に生まれてきた目的は、
摂取不捨の利益をうるためです。
不捨というのは、捨てられない、という意味です。

それは助かりきる世界です。
それが絶対の幸福です。
その身になることが本当の生きる意味です。
それが仏教に説かれています。




by sakyamuni | 2019-02-24 13:00 | 生きる意味 | Comments(0)

本当の生きる意味というのは
孔子の言葉をかりれば、
「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」
というものです。

この孔子の言葉では、「」が本当の生きる目的にあたります。
つまり、これ一つ得たならば、
もういつ死んでもかまわないといえるものです。

それを得たならば今晩死んでもかまわないということです。
だから、この木曜日でいつ死んでも後悔なし、
と思えたならば、あとは大満足になれるんです。

命懸けという言葉があります。
何に命をかけるかです。

だらだら生きた人。
だらだらと命をかけてきた。
命をかける、何に命をかけたらいいか。

最後は死にますから、
どっちみち何かに命をかけるのです。
だから何に命をかけるか、それが大事です。
それについて教えられているのが仏教です。
儒教ではありません。

仏教を知らない場合、
有名な人や歴史に名を残した人でも、
後悔している人はたくさんいます。



by sakyamuni | 2019-02-21 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

暇つぶし=キル・タイム

英語でキルタイム(KILL TIME)というのは、
暇つぶしという意味です。

暇つぶしというのは、ヒマな人がよく使う言葉です。

そういえば自殺というのは、考えてみれば
キル ライフタイム KILL LIFE TIMEということになります。
命というのは、自分が与えられた時間だからです。
生まれたときに80年の時間を受け取ります。

その時間をつぶすというのは、
英語の文化の人は、自殺と一緒だとわかっているから
キル・タイムというのかもしれません。

自分の時間を積極的につぶすのかどうかの違いであって、
暇つぶしは自殺と変わらなくなってしまうということです。
自分の存在意義が感じられないのでしょう。
虚しい話です。

自殺といっても、一気に時間をつぶしてしまうか、
徐々につぶしているかの違いあって、同じ事になります。
モラトリアムというのも同じようなものです。

自分で自分の時間をつぶしてしまうというのは、
生まれてから死ぬまでの80年間に何をすればいいのか
というのが生きる意味すが、
生きる意味がないということです。

本当の生きる意味は仏教に教えられているのに
勿体ないことです。


by sakyamuni | 2019-02-18 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

生きる意味は自分に考えることが大事という人がいますがどうなのでしょうか。

よく分かりますね。
このような考えを持つ人が多いのも頷けます。
私も、仏教に出会っていなかったら、やはりそう思っていたでしょうし、
ただ、生きる目的があるといっても自分で考えることが大事という人もいます。
しかし、自分で考えているかどうかよりも、
聞いていることが真理かどうかが大事です。

何か1つの発見自分で発見したい。
コロンブスはその点いい。

名前を取ってしまいます。
2番目の人は名前が残ってない。
行った人はじめに発見したい。
という気持ちはわかる。

そういう点なら、ブッダにはじめに発見されてシャクかな。
自分で考えた・人から教えて出した結果かということは大事ではありません。
聞いていることが真理かということが大事です。

例えば、高等数学自分で発見した人はいませんね。
過去の先達者という人がいる。
こういう人たちが、長い歴史の中に積み上げてきたものをもとに、
新しいものを完成させる。

ピタゴラスの三平方の定理。
発見したときに喜びのあまり羊の丸焼きを食べた。
でも今それを学ぶのは簡単。

もし、何もないものから自分で発見しようとしたら、分数の足し算までも行かない。
掛け算割り算で終わり、そこまでもいかないかも。
それを教えてもらうことによって、学べるし新たな発見ができる。
こういうことでも言えます。

ここから生えた木とこの根っこから生えた木。
土壌がどれだけ自分が勉強できたか、同じように努力できても、
土台が違うだけで大分変わります。
自分1人で学んだことをどれだけあるか。
人から教わったことばかりです。

どれだけ伸びるかは、
まず、人の意見に耳を傾ける度量があるかどうかが大切です。


by sakyamuni | 2019-02-01 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

生きる意味を考えさせられる歌に、
こういうものがあります。

「越えなばと思いし峰に来てみればなお行く先は山路なりけり」

あそこを目指そうという峰を、
越えても越えてもその先にまた山道が続いている
という意味です。

この峰というのは、私たちの人生でいうと、
目先の目標です。

例えば中学3年生のとき、高校に入ったら幸せになれると思って、
1年間受験勉強をしました。

合格すると一時的に喜びます。
高校に入った最初の頃は、部活を決めたり、
色々物珍しいことがあって楽しいのですが、
すぐなれてしまいます。

やがて高校3年間はあっという間に過ぎて、
また大学受験をしなければなりませんでした。

大学に合格したら、きっと幸せって思ってきたけれど、
大学に入ってみても、最初はそれなりに楽しいのですが、
あるはずの何かがない。

高校以上につまらない授業と試験ばかりで、
大学でえられたものは、
特に何もありませんでした。
あの受験勉強の苦労は何だったのかと
虚しいだけです。

早く社会人になって、自分でお金を稼いで、
自己責任で使えれば幸せになれると思ってきたけど、
社会人になると、余計大変です。

大学までの苦しさは比較になりません。
いつもノルマに終われて、
はるかに大きい目標に向かって走り続けなければなりません。
モラトリアム人間になるのはよくわかります。

一体どこまで頑張ればいいの?
不条理な世の中です。

「越えなばと思いし峰に来てみればなお行く先は山路なりけり」

このまま生きて行って、最後に後悔したら大変ですね。


by sakyamuni | 2019-01-28 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

トルストイの民話集に、『人はなんで生きるか』という作品があります。
トルストイはたくさんの民話を集めて、それをアレンジして発表しています。
その中でも最も有名なのが、この『人はなんで生きるか』です。
この民話のテーマは、なんのために生きるのかです。

どんな話かというと、ある小国の農民に、
大国の王様が、
「日が沈むまでに歩き回った土地をあげよう」
とおふれを出したというものです。

これは、日が沈むまでに戻ってこれなければ、土地はもらえません。

さっそく挑戦した一人の農民が、日の出と共に、歩き始めます。
少しでも広い土地が欲しいと思って、予定よりもどんどん先に行きます。
そして、昼近くになって右に曲がり、どんどん足を速めて歩いて行きます。
そして、夕方頃になると、もうすっかり走り出しています。

ところが、もうすぐ日が沈んだら、せっかく歩き回った土地が手に入らなくなってしまいます。
猛然とダッシュして、何とか日が沈むと同時に、出発地点に戻ることができました。

しかし農夫は、戻ったと同時に、倒れてそのまま息を引き取ってしまいます。

それを聞いた王様は、
この農夫には、こんなに広い土地は必要なかったのだ。
自分を埋葬するだけの土地があればよかったのだ。
と言ったという話です。

この農夫はなぜ死んだのかというと、
自分の欲望に殺されたのです。
土地の取得に命を費やしたのです。

しかし、私たちも同じではないでしょうか。
人生というのは命の時間です。
時間を使って何かをしているということは、
命を何かと引き換えにしているのです。

時給1000円の仕事を10時間したならば、
10時間の命を10000円で売ったということになります。

そうやって私たちは、命をお金で売って生きているのです。

しかも、もっともっとと欲しがって、
最後は命を使い切ってしまうのです。

キリのない欲望を
キリ有る命で追い求めてその先にあるのは破滅のみです。

あれがほしい、これがほしい、ああしたい、こうしたい、
人間の欲望は真実とは関係なく、
人をものすごい力でだこかへ引きずり出してゆきます。

一体人は何を求めるために、
限りある命をかけるべきか考えて
みなければなりません。

これにかけて悔いなし、といえるもの
それが本当の生きる目的といえるものでしょう。


by sakyamuni | 2019-01-15 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

影をおそれて走る

影を畏れて走る」という故事成語があります。

中国の老荘思想で有名な「荘子」の中に出てくる言葉です。

功名を追い、理想を求め、必死に努力している孔子を批判して
漁夫(ぎょほ)が次のようなたとえ話を持ち出して言っています。

自分の影を畏れ、足跡を嫌い、
これを振り切ろうとして逃げ出した男がいた。
ところが、足を速めて、懸命に走れば走るほど、
影はいよいよピタリとくっつき、足跡の数はましていきます。

まだ、遅いと思ったその男は走るスピードをあげたが、
ついに力つきて死んでしまいました。

木陰に身をおき、影をなくし、
静かなところでとどまって
足跡をなくすということを知らなかったんだ。
愚かな男だよ。

この話から、
「影を畏れて走る」
といえば、何かに追い立てられるように、
やみくもに突っ走り、
無我夢中で生きている様をさす故事成語として
使われるようになりました。

そうすると、夢のように酔生夢死してしまいます。
一体なんのために生きるのかわかりません。
かといって、その場に留まっていることもできません。
本当の生きる目的を知らなければならないのです。
それは、「荘子」ではなく、「仏教」に教えられています。



by sakyamuni | 2019-01-12 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)