カテゴリ:信心( 50 )

浄土真宗に東と西があります。
おおまかに言うと、
東本願寺は、生きているときの救いだけを説きます。
西本願寺は、死んでからの救いだけを説きます。

東の主張というのは、
宗教偏見のある人とかにでも受け入れられやすい。
この世での心の変換を説いた、だから親鸞聖人は素晴らしい、
と言います。
親鸞聖人が「この世の救いのみ」を説かれたかどうか、
それはエピキュロス派に聞かなくても、
親鸞聖人がどう書かれているか、
どうおっしゃっているか、そこに立たなければなりません。

どこに書かれていますか。
末灯鈔です。

信心の定まると申すは摂取にあずかる時にて候なり。
その後は正定聚のくらいにて、まことに浄土へ生まるるまでは候べし」
(末灯鈔)

ここでの「生まるる」は
肉体が死んでから生まれるとしかとれませんね。
その前にもあります。

「この身は今は歳きわまりて候へば定めて先立ちて往生し候わんずれば、
浄土にて必ず待ちまいらせ候べし」(末灯鈔)

ここでも「この親鸞もう死ぬぞ、そして浄土で待っているぞ」
と言われていますので「往生」は死んで極楽へ往くということになります。

彼らがエピキュロス派がどうのこうの、と言ってきたら、これを出せばいいです。
親鸞聖人が死んだ後の往生があるとハッキリ説かれています。
浄土真宗の看板を掲げるからには、親鸞聖人のお言葉によらねばなりません。

他にもあります。
「この世にて真実信心の人を護らせたまえばこそ『阿弥陀経』には
「十方恒沙の諸仏護念す」とは申すことにては候へ。
「安楽浄土往生して後に護りたもう」と申すことにては候わず。
「娑婆世界に居たるほど護念す」とは申すことなり」(末灯鈔)

どんなに強引な解釈をしようと、
ここでの「往生」は死んでからの往生です。
この世でも護られる。
そして死んでからも護られる。
という文書ですから。


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by sakyamuni | 2018-08-15 13:00 | 信心 | Comments(0)

浄土真宗の邪教の土蔵秘事では、
彼らの言う正しい仏教の先生から
「それでよい」と信心が認可されます。

ところが認可される前に、儀式を受けた人は、
「これでいいんかい?」と聞いたりします。

そこが疑情であり心の闇なんです。
救われていません。
しかしそこで、彼らのいう善知識が
「いいんだよ」と認可しますね。

その人が信心決定したかどうかなんか別の人に分かるものではありません。
それは、阿弥陀如来と私との間のことですから、
他の人の介してないものなのです。

真言宗の空海も、晩年は、阿弥陀如来の救いを求め
「空海の心の中に咲く花は 弥陀よりほかに 知る人ぞなき」
といっています。

また、救われるのは一念ですから、他の人がわかるようなものではありません。
一念を突破したというのは、他の人には分かりません。
阿弥陀如来と本人だけがわかります。


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by sakyamuni | 2018-07-18 13:00 | 信心 | Comments(0)

幸せが怒りになるとき

私達は、ただ生きているのではありません。
幸せを求めて生きています。

そして一切の苦しみ悩みを嫌い、
避けようとしています。

苦しみ悩みはどこから起きるのか考えてみますと、
信じていたものに裏切られた時に起きて来ます。

病人の苦悩は健康に裏切られたからであり、
家庭の悲劇は夫を信じ切っていた妻が、
夫に裏切られたからです。

子供に裏切られた親、親に裏切られた子供。
家の子供にかぎってと深く信じていればいる程、
裏切られた時の親の苦悩や悲しみ怒りは大きいのです。

このように、私たちは何かを信じなければ生きてはゆけませんが、
私たちは幸せを求めているので、
やがては裏切るものを信じて生きるということは
馬鹿げたことです。

決して裏切らないものは、仏教に教えられています。

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by sakyamuni | 2018-03-31 12:00 | 信心 | Comments(0)

才能や名誉は心の支え

人は何かを信じなければ生きていけません。

具体的にどんなことを信じているかというと、
考えたときに、どんなものがありますか。

どんなものを心の明かりにして生きていますか。
お金や健康、家族、才能、名誉……
挙げればきりがありません。

最後の才能や名誉も、心の支えにしています。
学問でも音楽でも、特殊な才能でも、
そういうものがあるから、自信になるんです。

賞をもらったとか、評価されたとか。
そういうことが心の明かりになるわけです。

明かりとか支えは非常に大事なものです。
それがない人というのは、かわいそうですね。
不幸なんでしょう。

何かを信じて生きているわけですが、
多くのことを信じることができる人は幸せですね。

贈る言葉にもあります。
明かりになるものがいっぱいあるわけですから。
少なくともその人にとっては。

そういった信心を多くの人が持っていますが、
他にもいっぱいあります。
地位、財産、お金とか、挙げればキリがありませんし、
一人一人違います。
また、同じものでも、
どれくらい深く信じているかは人によって違います。
バラバラなんですね。
深く信じている人は、これが自分の生きる意味と思っています。

そういった信心の中で変わらない幸せになれるもの、
正しいものを明らかにされたのが「正しい信心のうた」、
正信偈なんです。

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by sakyamuni | 2018-03-29 12:00 | 信心 | Comments(0)

2種類の葬式

仏教の教えは
阿弥陀仏の本願建てられた御心は
平生に往生の得否は定まるということです。

平生ぴんぴんしているときに、
あなたの迷いの心、迷いの命が死にます。
信楽の大安心大満足の心に生まれ変わります。

ですから往生に二つあります。
心の往生と肉体の往生です。

したがって
臨終も二回
葬式も二回
死ぬ命と生まれる命に二つあります。

肉体の命しか分からないから
臨終の善悪を沙汰することしか頭が回りません。

私たちの迷いの命が、苦悩の根源が、
肉体に集まる煩悩ではなく、
生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、
心の闇、迷いの命に狙いを定めて
阿弥陀仏はぶち破って、切り殺してみせる
そして大安心代満足の心に生まれさせてみせる
とお約束されています。

聞即信の一念で心の葬式となります。

心の葬式をすませた人は、
死ねば阿弥陀仏の極楽浄土に行って、
仏に生まれることができます。

不体失往生を遂げることができた者にのみ、
体失往生を遂げることができます。


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by sakyamuni | 2018-03-15 12:00 | 信心 | Comments(0)

阿弥陀如来に救われて、
南無阿弥陀仏をいただくとどうなるか

執持鈔に覚如上人は、
「本願や行者、行者や本願」
といわれています。

本願と名号と行者はどういう関係にあるか。
阿弥陀如来の御心によって作られたのが、
南無阿弥陀仏の名号です。

正信偈にも
「本願名号正定業」
とあります。

本願と名号は、同じ意味で使われています。
「信受本願」
「名号執持」
「名号獲得」
「名号持念」
阿弥陀如来の御心のおさまった南無阿弥陀仏を頂くということ。
そういう大宇宙の宝が身に満ちあふれるとおっしゃっています。

唯信鈔文意に親鸞聖人は
この如来の尊号は、不可称・不可説・不可思議にましまして、
一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、
大慈大悲のちかいの御ななり。
といわれています。

大慈、大悲の誓いの御名とおっしゃっています。
その南無阿弥陀仏がいかにすごいお力か、
それは頂けば分かります。


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by sakyamuni | 2018-02-14 12:00 | 信心 | Comments(0)

絶対の幸福には一瞬でなれます。

このことを浄土真宗を明らかにされた親鸞聖人は、
教行信証の「信一念釈」に書かれています。

それ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り。
「一念」とは、これ信楽開発の時剋の極促を顕わし、広大難思の慶心を彰すなり。
(教行信証信巻)
「信楽」とは絶対の幸福のことです。

絶対の幸福には、一念がある。
一念とは、絶対の幸福になる、何億分の一秒よりも短いときをいう。
その一念に、広くて大きい、想像もできないよろこびが起きる
ということです。

親鸞聖人のその解説の後に、本願成就文が引用されていて、
次のところで本願成就文のお言葉を
「成就文私釈」で解説されています。
「一念で信楽の身にしてみせるというのが弥陀の本願なのだ」
ということは
「一念で絶対の幸福にしてみせるというのが弥陀の本願なのだ」
ということです。

そういうことを親鸞聖人が仰ったのは、
本願成就文に腰を据えておられたからです。

「その身に救われるのにどれくらい時間がかかるのか?」
という問いに対して、本願文を読んだだけではわからない。
それを成就文に腰を据えられた親鸞聖人は
「一念で約束を果たしてみせるというのが弥陀の本願なのだ」
と仰って、その根拠に本願成就文をあげられています。

経典に根拠があるということは、
ブッダが、
絶対の幸福には、一瞬でなれると教えられているのです。


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by sakyamuni | 2018-01-19 13:00 | 信心 | Comments(0)

仏教の救いの目当て

阿弥陀仏は、苦しんでいる者を正客として本願を建てられた
と、親鸞聖人はこのように教えられています。

如来の作願をたずぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまいて
大悲心をば成就せり

「如来の作願をたずぬれば苦悩の有情をすてずして」
「苦悩の有情」とは、私たちのこと。
難度海で、どこへ向かって泳いだらいいのか分からない。
やっと、大学合格したのに、
やっと、就職できたのに、
やっと、結婚できのたに
丸太につかまること自体、
涙ぐましい努力がいる。

にもかかわらず、それがいとも簡単に私を裏切っていきます。
やがてくるりと裏切るのはわかりつつ、苦しいから、
また別の丸太を求めずにはおれません。
これを死ぬまで繰り返します。
これが人間の実相です。
これ以外にありますか。
崩れないものがありますか。
つかんでも裏切られるものばかりです。
秀吉も「夢のまた夢」といっています。
大阪城たてた、聚楽第をたてたといっても、全て夢の中のこと。
その苦しみ悩んでいるのが、私であり、苦悩の有情。

「回向を首としたまいて大悲心をば成就せり」
大悲心とは南無阿弥陀仏の御名号のことです。
大悲心とは大慈悲心の略です。
阿弥陀仏慈悲心です。
阿弥陀仏のみ心はかわりませんから、大とついています。

息子がいよいよ帰ってくるということで、
お母さんが1ヶ月かけて煮込んでシチュウをつくりました。
それは、息子に何とか喜んでもらいたいという心が、
シチュウとなってあらわれた。
阿弥陀仏が助けたいというみ心が、名号とあらわされた。
名号という形で慈悲を表された。
顕現です。
これを垂名示形の南無阿弥陀仏といいます。

阿弥陀仏は南無阿弥陀仏をつくるために
どれほどのご苦労をされたのでしょうか。
「五劫思惟の苗代に兆載永劫の修行して」
なんとか助けたいのだと。

よしこれならば十方衆生を助けることができる
設計図をつくられるのに五劫かかられたということです。
そして、それを設計図通りにつくられたということです。
それに兆載かかられています。

そして十劫の間お立ちづくめです。

「回向を首としたまいて」
「回向」とは「差し向ける」ということです。
阿弥陀仏が名号を完成されたのは、
十方衆生に与えるためにつくられた。

「首」とは目的です。
与えることを目的として、完成されたということです。




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by sakyamuni | 2018-01-11 12:00 | 信心 | Comments(0)

神道の神と動物の関係

の信心には、
キリスト教のもあれば、
天理教のもあります。
その他、色々な宗教でいうもありますが、日本人が神信心というと、
多分日本古来ののことだと思います。

いわゆる、日本神道のことだと思います。

「私はこの宗教と言う言葉が嫌いです!!」
日本では無宗教とか言う人多いですが、
かと思えば正月には除夜の鐘、初詣。
初詣でとなると、昼間走っているぐらいの本数の電車が
夜中に走っています。
それだけ多くの人が参拝したりしています。

日頃は私は何も信じていませんよ!!!
とか言っている人に限って、真っ先に神社に行って、
大学合格させてください!
お札を買ったり、野球選手が今年は優勝できますようにと
50人ぐらいでいってます。

しかし何が祭られているのか、
そんな事全然知られていません。
おかしな事です。

 日本の市町村には、必ず氏神として古来祀られているがあります。
それは、死んだ偉人や畜生が祀られています。

乃木神社には乃木大将、
明治神宮には明治天皇、
靖国神社には戦死した軍人、
その他、キツネや白蛇を神として祀っているものもあります。
狐に頭を下げているわけです。

 そしてこれらのは等しく、
それらの人間や畜生霊魂なるものがその社や神棚に永住していて、
生きている人間に災難や幸福を与える霊力なるものを持っていると信じて、
幸福を願ってそれらに参拝し、
供養しているのが、これらの神信心の実態です。

 神棚や神社の前で柏手を打つのは
それらの霊魂を呼び出す為のものでありますから
そこにいつまでも死霊が存在すると固く信じているのがの信心です。

 死んだ偉人や畜生が祭られていてそれらのものが
生きている人に禍福を与えるとかいわれています。

これが科学も発展していない時代に言われているのなら
分からないでもないですが、
仏教で教えられる因果応報
因果の道理から全く反したものです。



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by sakyamuni | 2018-01-03 12:00 | 信心 | Comments(0)

御本尊とは?

色々な宗教で、必ず本尊というものがあります。
そもそも本尊とは何でしょうか?

本尊とは、根「本」に「尊」ぶべきもの、ということです。
一番大切にすべきもの、ということになります。

北陸の方にいくと、浄土真宗が盛んですので、
大変大きなお仏壇があります。

富山では、家にお金をかけるか、お仏壇にお金をかけるか、というくらいだそうです。
豪勢なものにするのはどうしてか、というと、
お仏壇の中央に安置する本尊が大切なものだから、
そのようにお金がかけられます。

今でこそ、少なくなってしまいましたが、
昔の家には仏間がありました。
一番奥のいい部屋です。
だから一番いいところです。

今は普通は応接間が一番きれい、お金をかけています。
おもてなしをする場だからです。
ところが、そのお客さん以上に大切にしなければならないのが仏間です。

いい加減なものなら、玄関先においておけばいい、
トイレの横に置いておいてもいい。
しかしそういうことではないのです。

それだけ御本尊は大切だからです。


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by sakyamuni | 2018-01-01 12:00 | 信心 | Comments(0)