二河白道では、
群賊、悪獣がたくさんでてきます。
そして行くな行くなといいます。
群賊、悪獣とは、求道聞法を妨げるすべてを
群賊、悪獣にたとえられています。

怪しいぞー、そっちへ言ったら死ぬぞー
一緒に遊ぼうといいます。

ところが、
尊い人だけが一人、
行けー行けー
と言います。

旅人も、こちらの岸では幸せにはなれなかったと思って
一歩、また一歩と進んでいきます。

行けば行くほどの河、怒りの河の波が激しくなります。
みんなを満たすことばかり考えています。
ですから川の流れに反して、
こっちに進もうとするわけですから、
色んな摩擦がおきてくるんです。
煩悩が障りになて苦しんでいる人、
そういう人に、西方の彼の岸の尊い人の、
水火の難をおそれるな、という呼び声が聞こえるのです。
怒りを恐れている人に対して言われるのです。
恐れていない人には聞こえないのです。


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by sakyamuni | 2018-04-29 12:00 | 二河白道 | Comments(0)

悪人正機

十方衆生がみんな救われるまで、活動せずにおれない、
というのが、御臨末の書。
親鸞聖人の御遺言

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、
和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり。       (御臨末の御書)

その一人は親鸞なり。
仏教を聞いて救われて、
喜んでいる人の所に親鸞も帰っておるぞ。

でも、それは救われた人だけでしょ。
こう言って、親鸞聖人を極楽に追いやっている人ばかり。
私は、まだ決勝点を突破していないから関係無い。

そうではない。
そういう人のもとにも来ておられる。
衆生苦悩我苦悩の聖人を忘れている。

求道は、進めば進むほど波が高くなる。
二河白道の譬え。
苦しみが多くなる。
群賊悪獣悪知識、
「そんな時間とお金を使って
 仏法を聞く必要ないでしょ。一緒に遊ぼう」
進めば進むほど、群賊悪獣もひどくなる。
ボートも早く進めば進むほど、波がばげしくなる。
ゆっくりのんびりしている人は、そういうことは無い。

親鸞聖人はこの道進んでいる人を応援してくださる。
こんな親鸞が救われたんだから、頑張ってこの道進んで下さいね。
こういうお言葉と御臨末の書を味わわずにおれない。

弥陀の本願は悪人正機。
他の人には分かってもらえない求道上の悩みがある人は
道を進んでいる証拠。
それを、ある意味慶びにして、求道に拍車をかけてもらいたい。

なぜ帰って来られるのか。
みんなが救われているのなら、必要はない。
難度海で苦しんでいる人、たくさんいるから、
極楽で、のんびりしてなんかおれない。
活動せずにおれない。

求め抜いた人だけに、来て喜ばれるはずがない。
この道を進んでいる人の元に親鸞来ておるぞ。
横におられて励まして下される。




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by sakyamuni | 2017-08-23 12:00 | 二河白道 | Comments(0)

わたしたちが絶対の世界ださせていただけるのは、
ひとえに、阿弥陀仏、お釈迦さまのお導きあったからだ。
阿弥陀仏とお釈迦さまは慈悲のお父さんとお母さんのようなものだ。
わたしたちはこの世界にださせていただける。

二河白道の話を通して。
阿弥陀仏はこいよこいよ。
お釈迦さまは行け。
阿弥陀仏のこいよこいよお釈迦さまのいけよいけよ、
進ませていただける。
お父さんは厳しい。
お母さんは優しい。

父は打ち 母は抱いて悲しめば 変わる心と子は思うらん

変わる心と思うかもしれないが、

群賊悪獣悪知識にだまされるな、と厳しい。
阿弥陀仏の絶大なご念力、
お釈迦さまのゆけよゆけよのお進めによって、
二河白道を進むことができる。

よく浄土真宗の人の中に、18願だけでよいという人がいる。
というよりも、善の勧めはいらん、といっている人がほとんど。
三願転入わかっていない。
この道進まなければ、出られない。
そういうことは、この世界に出なければ分からない。

真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す
(親鸞聖人)

何が真実で何が方便か、わかっていないから、
阿弥陀如来の広大なご恩がわからない。

真実がわらなから、方便がわからない。
真実がわかった人が方便がわかる。
目的地がわからないのに、行き方がわかるという人はいない。
真実がわからあないものは、方便もまったくわからない。

方便からしか真実には入れないから、これを従仮入真という。
仮よりしか、真実に入れず。
方便をとおらずして絶対に真実には入れない。
こういうことを教えておられる。




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by sakyamuni | 2017-08-19 12:00 | 二河白道 | Comments(0)

二河白道のたとえの阿弥陀仏の呼び声は
汝一心正念にして直に来れ、我能く汝を護らん。
衆て水火の難に堕することを畏れざれ。

阿弥陀仏の本願は、

設い我仏を得んに 十方衆生
至心に信楽して我が国に生まれんと欲うて乃至十念せん。
若し生まれずば正覚を取らじ
唯五逆と正法を誹謗せんことを除かん

阿弥陀仏の呼び声を、本願と対応させたらこうなる。
 汝………十方衆生
 一心……至心・信楽・欲生
 正念……乃至十念
 直来……若不生者
 護汝……不取正覚
 不畏(慈悲)…唯除(智慧)

阿弥陀仏の18願と私とが、一つとなる。
阿弥陀仏は慈悲と智恵の覚体。
慈悲から見たものが呼び声。
智恵から見たものが本願。

阿弥陀仏の呼び声は言葉にならない。
不可称不可説不可思議だから。
声なき声。
片手の音。
鳴かぬカラスの声。

一念は若き女の乱れ髪言う(結う)に言われず
説く(解く)に説かれず

善導大師はこう言われている。
お釈迦様は、正覚大音響流十方
しかし、私たちはそれを聞く耳がない。無眼人、無耳人。
山口県のおかる同行はそのままこい。
ただじゃ。

呼び声を聞いた一念で、光明輝く人生となる。


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by sakyamuni | 2017-08-17 12:00 | 二河白道 | Comments(0)

善導大師。1300年前の中国の方。
唐の時代、仏教が栄えた時代。

親鸞聖人、正信偈の中で
善導独明仏正意
世界の光と言われる親鸞聖人が、大変尊敬されていた。
30年、仏教の勉強のために床をしいて休まれなかった。
ただ人ではない。

二河白道のたとえ。
たとえというのは、
分かりにくいことをわかってもらえるようにと使う。
たとえだから、当然あわないこともある。

善導大師は何のために作られたか。
「信心獲得するまでの求道の道程を示すため」
心の道程だから、わかりにくい。
そこで、たとえでその道程を少しでも分かってもらいたいと作られた。
善導大師でなければ作れない話。
これは私たちが、とても知りたいこと。

一人の旅人。
幸せを求めて旅していた。
無人空迥の澤。
生きる手段を教える人ばかりで、
人生の目的を知る人がいない。

ある一人の尊い方に出会った。
「本当の幸せを求めているのならば、西に向かって進め」
そして西に向かうと、忽然と大きな河が現れた。
向こう岸が見えない河。水の河と火の河。
それ以上進めなくなってしまった。
向こうは西岸、こちらは東岸。
ためらっていると尊い方
「何をしている、足元を見よ」
細い、白い道が走っているのを見つける。幅4、5寸
「その細い道を進め」
旅人は進むが、たちまち水の河と火の河の波が押し寄せる。
そこですぐに戻ってしまう。
尊い方「何をしている、おまえはこちらで本当の幸せがあったのか。
さあ、早く進め」
そう押し出されて、また進んでいく。
進んではまた下がり、下がってはまた進み。
少しずつではあるが、旅人は進んでいった。

すると、こちら岸に突如、群賊悪獣悪知識が現れた。
「そんなところに行っても幸せになれんぞ、こっちに来て楽しくやろうじゃないか」
と優しく旅人に呼びかける。
旅人は、道が細く苦しい。本当にこの白道が向こう岸に届いているのだろうかと不安。
さらに、いろんな人が呼びかけるので、ふらふらと帰ってこようとする。
みんなが帰って来いと言う中、尊い方だけが
「何をやっている、西に向かって進め。こちらにいて、本当の幸せはなかっただろう」
進めと言うのは一人だが、旅人はああそうだなあと知らされて、
また西に向かって進んでいく。

やがて、群賊悪獣悪知識が脅しにかかる。
「おまえのために言ってやったのに。だまされているんだ。
それでも行くなら殺すぞ」
旅人はこの言葉で、また戻ろうとするが、また進み、また戻り・・・
旅人にはわからないが、実は向こう岸から強い力で引っ張られている。
だから進んでいける。ひとえにこの御念力。そして、尊い方のお言葉。

ところが、真中あたりまで来た時、
もうこれ以上1歩も進めなくなってしまった。
水の河が道を潤し、火の河が道を焼く。

もうだめだ、引き返すしかないと振り返ったとき、
やはりその道も河にかき消されていた。とても戻れない。
そしてじっとしていても、そこに河が押し寄せていた。
絶体絶命。行くも死、帰るも死、とどまるも死。これを三定死。

そのとき、西岸上から呼び声が聞こえる。
その声を聞いた一念で、それまでの苦しみがなくなり、
大安心大満足の身になった。
白道は変わらない。
しかし、大安心大満足の心で進むことができ、やがて西岸に着いた。




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by sakyamuni | 2017-08-16 12:00 | 二河白道 | Comments(0)

二河白道の悪友

二河白道に悪友が出てくる。
本当の幸せを教えてくれない。

アメリカ建国の父フランクリンが小さい頃、
笛を高く買いすぎた。
ボストンの貧しいローソク屋に生まれたフランクリンは、
笛が欲しくなった。
笛屋さんにいって
「笛をください!」というと
「坊や、いくら持っている?」
「これだけ」
「それなら笛を一本あげよう」
夢見ていた笛を吹きながら家に帰る。
兄弟から「それだけお金を出したら、そんな笛、4本も買えるぞ」
とあざけられた。
人間は高く買いすぎてしまうと反省した。
「服装の価値を高く買いすぎている」
「守銭奴も、金の価値を高く買いすぎている」。
人間は、欲にほだされると、真価以上にものを買いすぎてしまう。
ほんとはそんなに、お金を使わなくてもいい、
ほんとはそんなに遠くに行かなくてもいいことに
お金を使ってしまう。

広末涼子が阪大に来たら見に行く。
プレステ2が発売されたら、3日前から並んで買いに行く。
睡眠不足に陥ると、ずっと寝ていたい。
結局、相対の幸福と言うのは、見た目は楽しそうで、おもしろそうで、
評価しがちだけど、いざ手に入れたら、そんなにたいした事がない。
というのを笛を高く買いすぎる。

「ヤシの木の下で昼寝をしている。」
ナイロンを発明したカロザース。
万人垂涎の約束をデュポン社がした。どんな買い物をしても、全て会社が持つ。
彼の一生の遊び代を保証した。41才の若さで自殺した。
人間の幸福とは何か。
アメリカ人と現地人。
ヤシの木の下で昼寝ばかりしている現地人に説教する。
「もっと働け」
「金を儲けろ」
「家が買える」
「別荘も買える」
「そして、昼寝をするよ」
「そんなことならもっと前からオレは昼寝をしているよ」と。
幸福論の破綻を物語っている。人間の幸福はどこにあるのか。
天国にいるようなカロザースが自殺をしてしまった。
どこに向かっていけば幸せになれるかわからない。
五里霧中。

本当の幸せを知らない人を悪友という。
こちらの岸はどう生きるかに一生懸命の悪友ばかりで、
本当の生きる意味を教える人にあえない。


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by sakyamuni | 2017-08-12 12:00 | 二河白道 | Comments(0)

善知識の勧め

「西岸というはすなわち極楽宝国にたとうるなり」

本当の幸せが西に有るぞ、極楽豊国、宝の国、
本当の幸せを教えて下さる方が善知識。
その善知識がいない。

「無人空迥の沢というは〜値わざるにたとうるなり」

善知識がいない。
本当の幸せを教えてくれる人がいない。
ついつい悪友に従ってしまう。

何をやってるんだ、仏法きいていてもしょうがない、なるようにしかならん。
遊ぼうじゃないか。
休みだぞ。
正座やめとけ。

みんなどう?こないだまで自分もそう思っていた。

不思議にもこの道進んでみようかな、
という気持ちになれたのが不思議。

パチンコ、テレビゲームそんな話はいくらでもある。
これ面白い、やってみよう。
そうやって人生たちまち終わってしまって何が残ったか、
生まれてきた証はなんだろう?

そんなときに貴い人、善知識は
「こちらの岸に幸せがあったか?」
「ありませんでした」
「本当の幸せになりたかったら西へゆけ」
そういわれる方が善知識。
「西に向かって進め」
「分かりました確かに幸せはなかった、火宅無常の世界はまことがないなあ。
こんな方がいわれるんだからにしたがってみようかな」
という気持ちになれるのは宿善。
まことはないな、そんな人が西へ行ってみようかな、
と一歩二歩、進む。

大きな河が出てくる。右には水の河、よく、左には火の河、怒り

順境の時には調子がいい、どんどんいこう、
ちょっと調子の悪いことがあると、なんだ、やめておこうかな、
腹が立ってしょうがない、

順境のときには欲が。
バイトして1万円、聴聞で無くなってしまうのか、
目的を忘れて別の欲望が起きてくる。
仏法のために使おう、そんな気持ちは細い4,5寸、かきけされてしまう。

やなことがあると、ひどい目にあった、もういきたくない、
せっかく合宿に行ったのに、二度といかん、怒りの心が。

見渡す限りそんな心しかないのに真実もとめようという心があるのが不思議
一歩二歩、すすませていただかずにおれないのはなんでかというと、
善知識が
「いけよいけよ、本当の幸せになりたかったらすすめよ」
その善知識のいわれることがまことだから、
いやなこというなあ、でもなるほどそうだな、もいとめざるをえないな、
よくよく考えてみればおっしゃるとおり、
否定しよう、そうじゃないと思いたくても、いわれるとおり、
その善知識が西へ行け、なるほど進まずにおれないな、
という気持ちになる。


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by sakyamuni | 2017-05-14 18:00 | 二河白道 | Comments(0)

二河白道の東岸とは?

善導大師が二河白道で教えておられること
みなさんきいていますよね。
話は分かっているものとして、たとえの意味

「東岸というは〜」

東の岸というのは此岸ともいう。
西の岸此岸に対して彼岸。
東岸というのは娑婆のこと、
苦しみ悩みの絶え間ない、堪忍土。
我慢しなかったら一日も生きていけない。

そういう娑婆は火宅のようなものだ。
火宅というのは火のついた家。
この世の中は全く火宅の如し。
「三界は火宅の如し安きことなし」
心休まるところがない、どこに行っても。
不安が絶えない。

「人生いたるところ青山なり」
田舎でもいいことがある
人事異動
今度カンボジアに行ってくれ。
実質上左遷。出発すると社員に挨拶。
「いたるところと青山なり」といいますから頑張ります。
なんかいいことあるよ、という意味

青山の語源は墓場ということ。
本来はどこにいってもいいことがあるさ、という意味ではない。
どこで死ぬか分からない、どこが墓場になるか分かりませんよ。
骨を埋めることになるかもしれない。
人間どこで死ぬか分からない。
これが本来の意味

親鸞聖人も
「火宅無常の世界はよろずのことみなもって空事たわごと真実有ることなし」
この世の中何を見ても何をきいても何を感じても真実がない。
これだけは変わらない真実だというのはどこにもない。
それが娑婆、それがこの世の中、
信じて疑わない自分の命でさえもどうなるか分からない。
そうであるなら信じられるものは何一つ無い。
そんな私たちが幸せを求めている。


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by sakyamuni | 2017-05-13 18:00 | 二河白道 | Comments(0)