カテゴリ:罪悪( 43 )

一即多多即一

私たちの目は、外側を向いていますので、
他人のことはよくわかりますが、自分のことは分かりません。

何か嫌なことがあると、あいつのせい、こいつのせいと思います。

ですから仏教では自分の心を知ることが一番大事です。

自分の心を知れば相手の心を知ることができます。
これを『一即多、多即一』と言います。

一は即ち多なり、多は即ち一なり。
浄土真宗の親鸞聖人はご自身の姿を通して万人の姿を知られたんですね。

真理に即して、一切の真理を道破された。
自分の姿を通して万人の姿を知られた。
自分の姿を知れば相手の心がわかるんです。
自分の姿を知らないから相手の心がわからないのです。

自分というものを知る、
わたしとはどういうものか
これが私だぞと仏教で教えておられます。


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by sakyamuni | 2018-11-13 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

仏教で嘘とは?

ウソについては
人間の心と言葉の不実さを道破された
ブッダのお言葉が『大無量寿経』にあります。

とはこれを言うんですね。
人間の心と言葉の不実さ、
まことがないことをいいます。

というのは
心口各異言念無実
のことを言います。

意味は、私たちは心と口と各々異なっている。

言うことと思っていることにはまことがない。
これをと言うんですね。

というのは心に思っていることと
口で言っていることと違っていることを言います。

口で言っていることと思っていること。
一致しないんです。
まことがないとおっしゃる。
これをと言います。

人間の心と言葉の不実さ、まことがないと道破、
明らかにされたブッダのお言葉です。

これを仏教妄語といわれます。
妄語とはのことを言います。


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by sakyamuni | 2018-10-02 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

十悪とは

十悪を列記せよ。
1、貪欲。
2、瞋恚。
3、愚痴。
これが意業、欲望怒り愚痴です。

4、綺語。
5、両舌。
6、悪口。
7、妄語。
これ口業です。

8、殺生。
9、偸盗。
10、邪淫。
これ身業です。

これは、どういうことかというと
わたしたち、日々、私たち、
どんなを作っているか
それをブッダは教えて下さっています。

仏教では、私たちに判りやすく、
日々どんなを作っているか。
心ではどうだ。
口ではどうだ、
体ではどうだ
と教えて下さるんですね。

まず意業は、これは判るね。
さっき言ったとおり、貪欲瞋恚愚痴はわかります。
これがもとになって、心では常に貪欲、瞋恚、愚痴だから、
これが元で口ではこうだ、
体ではこうだと教えられますね。

もとはこうです。
ちょうど河があったとしたら、
川の上流で赤いインクを流したならば、
その下流はみんな赤く染まりますように心で、
欲望怒り愚痴を作り続けるならば、
口や体も、当然、を言ったりをやったりします。


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by sakyamuni | 2018-09-30 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

仏教で一番恐ろしい罪が謗法罪。
その次に恐ろしい罪が五逆罪です。
2番目ですね。

この五逆罪も謗法罪と同じく無間業と言われます。
五つの恐ろしい罪。
これが五逆罪です。

共にこれ無間業と言われます。
無間業とは無間地獄に堕ちる罪です。
私たちは謗法罪によって地獄に堕ちるんですか、
五逆罪によって地獄に堕ちるんですかと質問した人がありますが、
逆謗で堕ちるんです。

逆謗で私たちは無間地獄に堕ちるんです。
阿弥陀如来の本願では最も怖ろしい罪を二つ挙げて
私たちの本当の姿を教えて下さっています。

本願文では五逆罪、謗法罪という最も怖ろしい罪を出して
教えておられますが、その次の十悪も当然含まれていますね。
五逆罪、謗法罪が最も怖ろしいと言われますから、
それよりも軽い罪は当然出ています。

五逆罪とはあとででてくるように親殺しの罪。
普通の罪悪よりも恐ろしいのは何故かというと
ご恩をあだで返すからです。

ご恩を受けた人に対してあだで返す。
これはより恐ろしいです。
ご恩をご恩と感謝するものは成功する、
しかしご恩を当然と流すものは信用を失う。
ご恩をあだで返すものは身を滅ぼす
ご恩をあだで返す、それが非常に恐ろしいんだ。
十悪よりも恐ろしい。
ただいま残念なことに法律ではこれが一緒になってしまったんですね。

つい前まではこの尊属殺人。
親殺しです。
いわゆるご恩を被った人を殺す。
これは一般の殺人よりも重かったんですね。
ところが法律が改正されて、
今は親を殺しても一般の人を殺しても同じ罪だとなっている、
しかし仏教では違います。

同じ殺人でも十悪で言われる殺生
五逆罪でいわれる親殺しは、親殺しの方が恐ろしい。
なぜかというと本来親孝行すべき
ご恩を受けている方を殺すのですから。

全くご恩を受けていない人を殺すのも恐ろしいですが、
ご恩をあだで返す、身を滅ぼします。
恐ろしい結果を招きます。
恩を仇で返すのがいかに恐ろしいかを
私たち知っていなければなりませんね。

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by sakyamuni | 2018-09-28 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

心で常にを思い続けていることを教えられた善導大師のお言葉があります。

一人一日のうちに八億四千の憶いあり、
念々になすところこれみな三塗のなり。

これは善導大師が己の本当の姿が
阿弥陀如来の無碍光に
照らし出されて知らされた姿です。

これは善導大師のみならず、私達すべての姿です。
古今東西すべての人の心常念の姿です。

私たちこれがなかなか信じられませんが
絶対の幸福になる瞬間に知らされることです。

一人が一日の間、八億四千の思いがある。
私たち日々思っていること、色々なこと思っています。

自分でも気付いてないことが多いですが、
気付かないところでも沢山のことを思っています。
八億四千と言えば物凄い回数が多いですが、
沢山のことを私たちは日々思っています。
その私たちが日々思っていること念々といわれています。

三塗のとは悪ですから、
ばかり思っているのが私たちだ
ということです。

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by sakyamuni | 2018-09-26 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

凡夫の定義

浄土真宗を明らかにされた親鸞聖人は、
凡夫というものをこのように定義されています。

『凡夫』というは無明・煩悩われらが身にみちみちて
もおおく瞋り腹だちそねみねたむ心多く間なくして
臨終の一念にいたるまでとどまらずきえずたえず。
(一念多念証文)

こうありますが、凡夫とはイコール人間のことです。
人間を定義された親鸞聖人のお言葉です。
これは一念多念証文にあります。

これ言葉を変えると機の深信なんです。
機の深信。
本当の己の姿。
地獄一定の私の姿をこう言うように言っておられます。

凡夫というは、あなたが信心決定しますと
これがハッキリ知らされます。

体でこれを読ませていただけます。

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by sakyamuni | 2018-09-24 13:00 | 罪悪 | Comments(0)

仏教で我慢とは

仏教で我慢というのは、忍耐のことではありません。
我慢とは明らかに自分が間違いだと知りながらその考えを貫き通そうとすること。
我を通すことです。

ここから我慢という言葉が生まれました。
意味がちょっと変形しています。

今なら我慢は忍耐ですけどね、良い意味で使われます。
本来はそうでない、
自分は間違いと知っているんだけど、それを認めない、我を通そうとする心です。
これは特に男性に非常に強い。
だからブッダは、男性はこれに気を付けよと言われます。

男は我慢のために損をする。
もっというなら、また我慢があるために仏教が聞けないことがあります。
女性はそれに対して愚痴です。
愚痴に気をつける。
愚痴で損をすると言われます。

明らかに自分が間違いだと知っていてもそれを素直に反省できない、懺悔できない。

生きる意味はこれだぞ、仏教が初めての人で、
明らかに反論できないと、
こういう立場に追い込まれても、素直に判りました、
仏教を聞きますと言う人は少ないんです。

生きる意味はこれだと言われて反論できなくても
生きる意味はとにかく子孫繁栄だという人もあるんですね。
色々なことをいって素直に認めない、素直に自分の間違いを認められないのが私達。

夫婦の会話を聞いていてもそうです。
奥さんが主人に注意をする。
「あなたここ間違っています」
と言われて、謙虚な主人ならば、
「ああそうか、そうだったね」
懺悔、反省すればよいのに、
男は非常に我が強い。

女性から注意されてもあまり聞けない人が多い。
それで女性に注意されても、
「うるさい」とはねつけます。

自分が間違い、誤りだと知っていても
素直に間違いを間違いと認められない心があります。
そして自分のおかしな主張を貫き通そうとします。
これを我慢といいます。
私たちはよくよく気を付けなければなりません。


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by sakyamuni | 2018-09-22 13:00 | 罪悪 | Comments(0)

限りある身に限りなき欲

こんな歌があります。

泣くも、笑うもぞ人の世は 限りある身に限りなき欲

人生はですよそんなの世で、命には限りがあります。
限りある身に限りなき欲。
限りない欲望を満たそうと生きています。
ところが、欲望を満たした喜びは一時的で、
のようにはかなく消えてしまいます。

馬の目の前ににんじんをぶらさげている、これが全人類です。

すべての人は、欲ばっかりもとめても満足できないのです。

馬にたとえると、にんじんはくわえられないのです。
どこまで求めても食べられません。
満たしても、たとえ満たしてもすぐに不満になります。
本当に大丈夫だろうかという不安もなくなりません。
もう心から安心も満足もできません。

欲望はキリがないということです。
そして酔生夢死してしまうのです。

では、何を求めればいいのかは、
仏教に教えられています。


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by sakyamuni | 2018-09-20 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

2種類の疑い

六大煩悩の中に、疑がありますが、注意して貰いたいのは
仏教には、なくなる疑いとなくならない疑いがあるということです。

信心決定してもなくならない疑いを疑煩悩といいます。
信心決定してなくなる疑いは疑情と言います。
疑いと言っても疑煩悩と疑情があります。

私達は信心決定してなくなる疑いは疑情と言われるもので
阿弥陀如来の本願を疑っている心、つまり心の闇です。

同じ疑いでも疑煩悩と言われる疑い。
人やものを疑ったりする心。
これは信心決定しても死ぬまでなくなりません。

これを疑といわれます。
煩悩は死ぬまでなくならない、
疑情は救い摂られると綺麗になくなります。

六大煩悩にある疑は、疑煩悩です。


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by sakyamuni | 2018-09-18 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

阿弥陀仏の本願とはどういうお約束か。
智慧慈悲によってたてられたお約束です。

光明、智慧の働きによって、全人類の機の真実が照らし出されます。
それが逆謗の一機です。
言葉を変えれば、煩悩具足の凡夫です。

無量の光明に照破されて、
なんとまあ馬鹿なやつだ、
箸にも棒にもかからないやつだと、
照らし出されて、懺悔となります。
信心決定しても煩悩は変わらないから、
随犯随懺です。

そんなにもあさましい醜いやつが、
そっくりそのまま至徳具足、
煩悩具足の者が、功徳の海水に満たされて、救われます。
なんてもったいない、かたじけない本願。
そう知らされるほどいよいよたのもしく思われます。

法の深信のたった人にとっては、ご恩喜ぶたねとなります。
片方だけあるということはありません。
懺悔と歓喜に身も心もゆり動かされます。

信前の人にとってはまったくわかりません。
けど、煩悩具足ということは、
過去の経験から照らしてなんとなくわかったような気になります。
生まるべからざる者が生まれます。
絶対助からない者が助かるとなります。
そうなると、こういうことがなんとなくわかりやすい。
廻心懺悔も同じです。

無二の懺悔がさせられます。
三品の懺悔です。


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by sakyamuni | 2018-09-06 12:00 | 罪悪 | Comments(0)