カテゴリ:罪悪( 38 )

凡夫の定義

浄土真宗を明らかにされた親鸞聖人は、
凡夫というものをこのように定義されています。

『凡夫』というは無明・煩悩われらが身にみちみちて
もおおく瞋り腹だちそねみねたむ心多く間なくして
臨終の一念にいたるまでとどまらずきえずたえず。
(一念多念証文)

こうありますが、凡夫とはイコール人間のことです。
人間を定義された親鸞聖人のお言葉です。
これは一念多念証文にあります。

これ言葉を変えると機の深信なんです。
機の深信。
本当の己の姿。
地獄一定の私の姿をこう言うように言っておられます。

凡夫というは、あなたが信心決定しますと
これがハッキリ知らされます。

体でこれを読ませていただけます。

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by sakyamuni | 2018-09-24 13:00 | 罪悪 | Comments(0)

仏教で我慢とは

仏教で我慢というのは、忍耐のことではありません。
我慢とは明らかに自分が間違いだと知りながらその考えを貫き通そうとすること。
我を通すことです。

ここから我慢という言葉が生まれました。
意味がちょっと変形しています。

今なら我慢は忍耐ですけどね、良い意味で使われます。
本来はそうでない、
自分は間違いと知っているんだけど、それを認めない、我を通そうとする心です。
これは特に男性に非常に強い。
だからブッダは、男性はこれに気を付けよと言われます。

男は我慢のために損をする。
もっというなら、また我慢があるために仏教が聞けないことがあります。
女性はそれに対して愚痴です。
愚痴に気をつける。
愚痴で損をすると言われます。

明らかに自分が間違いだと知っていてもそれを素直に反省できない、懺悔できない。

生きる意味はこれだぞ、仏教が初めての人で、
明らかに反論できないと、
こういう立場に追い込まれても、素直に判りました、
仏教を聞きますと言う人は少ないんです。

生きる意味はこれだと言われて反論できなくても
生きる意味はとにかく子孫繁栄だという人もあるんですね。
色々なことをいって素直に認めない、素直に自分の間違いを認められないのが私達。

夫婦の会話を聞いていてもそうです。
奥さんが主人に注意をする。
「あなたここ間違っています」
と言われて、謙虚な主人ならば、
「ああそうか、そうだったね」
懺悔、反省すればよいのに、
男は非常に我が強い。

女性から注意されてもあまり聞けない人が多い。
それで女性に注意されても、
「うるさい」とはねつけます。

自分が間違い、誤りだと知っていても
素直に間違いを間違いと認められない心があります。
そして自分のおかしな主張を貫き通そうとします。
これを我慢といいます。
私たちはよくよく気を付けなければなりません。


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by sakyamuni | 2018-09-22 13:00 | 罪悪 | Comments(0)

限りある身に限りなき欲

こんな歌があります。

泣くも、笑うもぞ人の世は 限りある身に限りなき欲

人生はですよそんなの世で、命には限りがあります。
限りある身に限りなき欲。
限りない欲望を満たそうと生きています。
ところが、欲望を満たした喜びは一時的で、
のようにはかなく消えてしまいます。

馬の目の前ににんじんをぶらさげている、これが全人類です。

すべての人は、欲ばっかりもとめても満足できないのです。

馬にたとえると、にんじんはくわえられないのです。
どこまで求めても食べられません。
満たしても、たとえ満たしてもすぐに不満になります。
本当に大丈夫だろうかという不安もなくなりません。
もう心から安心も満足もできません。

欲望はキリがないということです。
そして酔生夢死してしまうのです。

では、何を求めればいいのかは、
仏教に教えられています。


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by sakyamuni | 2018-09-20 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

2種類の疑い

六大煩悩の中に、疑がありますが、注意して貰いたいのは
仏教には、なくなる疑いとなくならない疑いがあるということです。

信心決定してもなくならない疑いを疑煩悩といいます。
信心決定してなくなる疑いは疑情と言います。
疑いと言っても疑煩悩と疑情があります。

私達は信心決定してなくなる疑いは疑情と言われるもので
阿弥陀如来の本願を疑っている心、つまり心の闇です。

同じ疑いでも疑煩悩と言われる疑い。
人やものを疑ったりする心。
これは信心決定しても死ぬまでなくなりません。

これを疑といわれます。
煩悩は死ぬまでなくならない、
疑情は救い摂られると綺麗になくなります。

六大煩悩にある疑は、疑煩悩です。


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by sakyamuni | 2018-09-18 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

阿弥陀仏の本願とはどういうお約束か。
智慧慈悲によってたてられたお約束です。

光明、智慧の働きによって、全人類の機の真実が照らし出されます。
それが逆謗の一機です。
言葉を変えれば、煩悩具足の凡夫です。

無量の光明に照破されて、
なんとまあ馬鹿なやつだ、
箸にも棒にもかからないやつだと、
照らし出されて、懺悔となります。
信心決定しても煩悩は変わらないから、
随犯随懺です。

そんなにもあさましい醜いやつが、
そっくりそのまま至徳具足、
煩悩具足の者が、功徳の海水に満たされて、救われます。
なんてもったいない、かたじけない本願。
そう知らされるほどいよいよたのもしく思われます。

法の深信のたった人にとっては、ご恩喜ぶたねとなります。
片方だけあるということはありません。
懺悔と歓喜に身も心もゆり動かされます。

信前の人にとってはまったくわかりません。
けど、煩悩具足ということは、
過去の経験から照らしてなんとなくわかったような気になります。
生まるべからざる者が生まれます。
絶対助からない者が助かるとなります。
そうなると、こういうことがなんとなくわかりやすい。
廻心懺悔も同じです。

無二の懺悔がさせられます。
三品の懺悔です。


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by sakyamuni | 2018-09-06 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

極悪人が救われるというのは、根拠はあるのでしょうか?

これは難しい話になりますが、
善導大師の法事讃に、こうあります。
「謗法闡提廻心皆往」
(法事讃)

このお言葉は覚えておくといいです。
このお言葉を浄土真宗の親鸞聖人は教行信証に引用されています。

「謗法闡提」とは、
私たちが恐ろしい姿をしているということです。

罪を罪とも知らず、を作りつづけています。
心の病にかかっています。
そんなものが本当に救われるのか。

このことについて、親鸞聖人が論ぜられています。
涅槃経に、王舎城の悲劇のことが書かれているのを
教行信証に引用されています。

そして、
「ここをもって、今大聖の真説によるに
難化の三機・難治の三病は大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、
これを矜哀して治しこれを憐愍して療したまう」(教行信証信巻)
と結論されています。

「謗法闡提」のことを難化の三機・難治の三病といわれています。

それが、利他の信海に帰すれば救われるということです。
「謗法闡提廻心皆往」ということです。

それは生きているときに変わらない幸せに救われます。


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by sakyamuni | 2018-09-02 18:00 | 罪悪 | Comments(0)

意識が私?

意識の働きは非常に広いので意識が私だと思う人が多くあります。

ところが私たちは熟睡状態、あるいは失神した、気絶した場合、
意識はないんです。
しかし意識はないけれども死んでいませんね。

正常に生きています。
心臓も動いています。
ところが実際死んだら肉体バラバラになります。

どう違うのか。
仏教では私たちの心を8つに分けて教えられていまい素。
意識は死んでも意識の底に末那識・阿頼耶識があります。

意識に大きく影響を与えている末那識・阿頼耶識
これが意識を司っているんです。
阿頼耶識が本当の私です。
これが死ねば輪廻転生します。
これが残っている間は意識が死んでも生き続けるんです。

たとえあなたが失神状態、意識が働きを失っても
阿頼耶識は死んでおりませんから。
あるいは深い眠りに入ったときは意識は働いていませんが、
末那識・阿頼耶識は働いているだから、あなたは死なないんです。

末那識、阿頼耶識、実はこれを知らせるためにこれを教えられている。
本当の自己とはこれです。
本当の自分とは末那識を阿頼耶識に含めて阿頼耶識という。

肉体が亡びても滅びない不滅の生命がある。
西田幾多郎は
「これは火にも焼けず水にも流されない不滅の生命がある」
と言っていますが当にこれなんですね。

で末那識ですけど、話をすれば非常に時間がかかりますから
簡単にいいますと末那識は非常に難しいけど、一言でいえば
様々なものに執着しての根元となる心。
これが末那識です。

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by sakyamuni | 2018-08-06 18:00 | 罪悪 | Comments(0)

四苦八苦の四つの苦しみ

今回は四苦八苦です。
人生の苦しみを四つに大別、大きく分けたものを四苦といいます。
それに四つ加えたものを八苦といいます。

今日の日本語にも定着している言葉です。
四苦とは、生苦、老苦、病苦、死苦の4つです。

生苦とは世間の仏教学者は生まれる際の苦しみと、
とる人がありますが、生きる苦しみと解釈すべきです。

実際苦しいですよ、生まれるときは。
でも覚えていないでしょう。
これを説かれた目的をうかがってみると、
私たちに苦しみを自覚させるために説かれたのですから。

よく赤ん坊が生まれたときにオギャーと泣く、
あれは決して喜んで泣いているのではないのです。
お母さんのお腹にいるときと外は温度が違う。
外の外気に触れて、ひりひりするそうです。
身体全体がすりむくような感じだそうです。

生きる苦しみ。
人間関係にしろ何にしろ大変苦しいことです。
生まれてきたからには必ず年老いていかなければならない。

そしてやがて死んでいかねばならない。
人は病む、いつかは老いる、死を免れることはできない。
いつの時代の人もどこの国の人もどんな大金持ちで
もどんな人にでもあるものばかりですね。

これを聞いたらそやなあ、と事実、
ブッダも四苦に驚かれて真実の幸福を求められました。

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by sakyamuni | 2018-07-31 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

省みよ日に幾度も省みよ 怒りの絶え間なければ

気がついたら楽がしたい、あいつがむかつくこいつがむかつく、と。
ちょっとした苦労を怠ったが為にあとあと後悔します。

しかもその期間は長い、八万劫中大苦悩の阿鼻地獄です。

欲望怒り愚痴の為に仏法を聴こうとする心を失っていきます。
貪愛の心常に能く善心を汚し、瞋憎の心常に能く法財を焼く。
一度人身を失ってしまえば、万劫にもかえってえこないんだぞ、
今しかチャンスはない。
何の苦労もなく達成できるのに。
仕事でいってもちょっとしたことで一生を棒にふる人があります。
せっかくのチャンス。
万劫にも億劫にもないチャンスです。

こういう仏法を求めるチャンスはもうないんですよ。
今現在仏法を求めなければいつ助かるときがあるだろうか。
この後生の一大事がおこってからではもう遅いんだぞ。
いま死後の世界へ飛び込む時は現実と逆転します。
仏教を聞き抜いて、決して後悔してはいけませんよといましめておられます。


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by sakyamuni | 2018-05-15 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

昔、西村法剣という人があるところで仏法を話していました。

そこに学校の校長先生が来ていました。
仏教はすべての人が悪人だというが、それではだめだ、
悪人が生徒に教えるということになってしまうから
そんなことを言ってもらっては困る」
と言います。

すると法剣は「ああ、善人様がおられたか」
と頭をははーと深く下げて、玄関先まで見送りました。

そして別れる時、あなたはをつくことを
よいことと教えているか、悪い事と教えているか。

またあなたは生き物を殺す殺生
よいことと教えているか、悪い事と教えているか。

あなたは喧嘩することを
よいことと教えているか悪い事と教えているか。
悪い事だと教えている、と答えると、
では、校長先生、あなたはやったことはありませんか。
と聞かれて、答えにつまってしまいました。

あるのは当然なのだが、あるといえば自分は悪人になります。
しかし、ないといえばをついたことになります。
そして答えられなかったんです。

すべての人は悪人、そのように教えられたのが仏法です。
校長先生はこれをご縁に仏法を聞かれるようになったのです。


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by sakyamuni | 2018-04-15 12:00 | 罪悪 | Comments(0)