曇鸞大師とは

曇鸞大師とはどんな方でしょうか。

曇鸞大師天親菩薩の後に生まれられ、また大活躍されました。

この方の本で有名なのが浄土論註です。
天親菩薩浄土論を解釈されました。
またこの浄土論註がなければ浄土論は明らかにならなかったといわれます。

どんなすばらしい本、浄土論があって、書かれていても、
浄土論註がなければ、その正しい御心は分からなかったといわれます。

註というのは解釈した本です。
論註といえばまた浄土論註といわれる。
またあるいは往生論註ともいわれます。
それほど、有名な本です。

論註といったら浄土論註といわれるほど有名な素晴らしい本です。
教行信証を拝読してもこの本からたくさん引用されております。

曇鸞大師も67才まで生きておられます。
大変長生きです。



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by sakyamuni | 2018-07-29 12:00 | 善知識 | Comments(0)

仏の任務とは?

ブッダはどうして仏のさとりを開けたのか、
このように説かれています。

「三世諸仏 念弥陀三昧 成等正覚」
(楞伽経)
念弥陀三昧とは一向専念無量寿仏と同じ意味です。

等正覚とは元来51段目の意味ですが、
この楞伽経のお言葉だけは別でここでは仏のさとりのことです。

三世の諸仏も阿弥陀如来のお力で成仏しました。
だから、三世の諸仏も釈迦仏も阿弥陀如来のことを師匠と言われています。
弟子である釈尊は師匠である阿阿弥陀如来の本願一つを説かれたのです。

「弟子のつとめは師匠の御心を明らかにすること以外にない」
それ以外にあってはならない。

つとめとは使命、任務、役目、出世本懐のこと。

出世本懐とはこの世に生まれて死ぬまでに果たさなければならないこと。
その弟子のつとめを明らかにされた言葉が
正信偈にあるこちらです。

如来所以興出世
唯説弥陀本願海

弟子とは釈迦仏、
師匠とは阿弥陀如来
その御心とは本心・本願です。

これ以外にないということが「唯説です」。
弟子であるブッダは師匠である
阿弥陀仏の本願一つを説くのが目的であった。

如来とはお釈迦さまのことですが、
諸仏も同じです。


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by sakyamuni | 2018-06-08 13:00 | 善知識 | Comments(0)

年末のお礼

年末のお礼について、
浄土真宗を広められた
蓮如上人が教えられています。

蓮如上人は、歳末に今年はもう蓮如上人とお会いするのが最後だから
ご挨拶に窺おうと沢山の人達が蓮如上人の元へ集まったときに
蓮如上人は、無益の歳末の礼かなと。

歳末の礼には、信心決定して礼とせよと。
このようにおっしゃっていますね。
蓮如様今年も一年有り難うございました。
来年もお願いしますとごく普通の年末の挨拶をしようとしたとき
ガラッと気分を悪くされて無益だと意味がないと、
言葉だけの礼儀は意味がない。

本当に蓮如上人に礼を言いたいのなら、どうか信心決定して貰いたい。
それが一番嬉しいことだと仰有ったというお言葉がある。
御一代記聞書16番。

十二月六日に富田殿へ御下向にて候間、五日の夜は大勢御前へ参り候に、
仰に「今夜は何事に人多く来りたるぞ」と。
順誓申され候は「まことに此間の御聴聞申し、有難さの御礼のため、
また明日御下向にて御座候、御目にかヽり申すべしかの間、歳末の御礼の為ならん」
と申し上げられけり。そのとき仰せに
「無益の歳末の礼かな、歳末の礼には信心をとりて礼にせよ」
と仰候いき。

12月5日の夜に大勢の人が来られたんですね。
昨日、12月6日に富田へ行こうとされた蓮如上人の元へ
沢山の人が集まってきた。

何事だ、どうしてこんなに人が集まっているんだ。
順誓、法敬坊です。
蓮如上人が大変信頼されていたお弟子の一人。
秘書のようなことをされていた。

蓮如上人にご挨拶に来られた。
普通はそうです。
また普通なら忙しい中ご苦労さん、
また来年も頑張ろうと声をかけられるところですが、
蓮如上人はどうなられたって?

喜ばれたと書かれてる?

そのとき仰せに
『無益の歳末の礼かな、歳末の礼には信心をとりて礼にせよ』
と仰せ候いき。

これは何?
喜んでらっしゃるのかな?
無益の歳末の礼かな。
厳しいね。
こんなにたくさん集まって意味がない。
無益であると。
それよりも早く信心決定して貰いたいと。

こういう、お言葉ですよね。
腹を立てていらっしゃると言っても良いかも知れない。
大変厳しいご教導です。
仏法に明日はない。
一日も片時も急げといつもいつも
蓮如上人は同行達を導いておられる。

そういう善知識のご教導からすれば、
年末も年始もない。


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by sakyamuni | 2017-12-07 12:00 | 善知識 | Comments(0)

年末のお礼

年末のお礼について、
浄土真宗を広められた
蓮如上人が教えられています。

蓮如上人は、歳末に今年はもう蓮如上人とお会いするのが最後だから
ご挨拶に窺おうと沢山の人達が蓮如上人の元へ集まったときに
蓮如上人は、無益の歳末の礼かなと。

歳末の礼には、信心決定して礼とせよと。
このようにおっしゃっていますね。
蓮如様今年も一年有り難うございました。
来年もお願いしますとごく普通の年末の挨拶をしようとしたとき
ガラッと気分を悪くされて無益だと意味がないと、
言葉だけの礼儀は意味がない。

本当に蓮如上人に礼を言いたいのなら、どうか信心決定して貰いたい。
それが一番嬉しいことだと仰有ったというお言葉がある。
御一代記聞書16番。

十二月六日に富田殿へ御下向にて候間、五日の夜は大勢御前へ参り候に、
仰に「今夜は何事に人多く来りたるぞ」と。
順誓申され候は「まことに此間の御聴聞申し、有難さの御礼のため、
また明日御下向にて御座候、御目にかヽり申すべしかの間、歳末の御礼の為ならん」
と申し上げられけり。そのとき仰せに
「無益の歳末の礼かな、歳末の礼には信心をとりて礼にせよ」
と仰候いき。

12月5日の夜に大勢の人が来られたんですね。
昨日、12月6日に富田へ行こうとされた蓮如上人の元へ
沢山の人が集まってきた。

何事だ、どうしてこんなに人が集まっているんだ。
順誓、法敬坊です。
蓮如上人が大変信頼されていたお弟子の一人。
秘書のようなことをされていた。

蓮如上人にご挨拶に来られた。
普通はそうです。
また普通なら忙しい中ご苦労さん、
また来年も頑張ろうと声をかけられるところですが、
蓮如上人はどうなられたって?

喜ばれたと書かれてる?

そのとき仰せに
『無益の歳末の礼かな、歳末の礼には信心をとりて礼にせよ』
と仰せ候いき。

これは何?
喜んでらっしゃるのかな?
無益の歳末の礼かな。
厳しいね。
こんなにたくさん集まって意味がない。
無益であると。
それよりも早く信心決定して貰いたいと。

こういう、お言葉ですよね。
腹を立てていらっしゃると言っても良いかも知れない。
大変厳しいご教導です。
仏法に明日はない。
一日も片時も急げといつもいつも
蓮如上人は同行達を導いておられる。

そういう善知識のご教導からすれば、
年末も年始もない。


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by sakyamuni | 2017-12-07 12:00 | 善知識 | Comments(0)

浄土真宗に土蔵秘事という異端がある。
土蔵秘事の僧侶は、一体どう言うことを言うのか。

「こんな説法、いくら聞いても信心決定できない」
これは、聴聞しても信心決定できないと言うことです。

この言葉をきいただけで、
いかに彼らがでたらめを言っているか判ります。

本当にそうか。
お釈迦さまは、本願成就文に教えておられます。

本願成就文はお釈迦さまのお言葉です。
お釈迦さまが、ご自分の先生である
阿弥陀如来の本願を、わかりやすく教えて下さったものです。
四十字。

諸有衆生聞其名号|諸有の衆生、其の名号を聞きて、
信心歓喜乃至一念|信心歓喜せんこと乃至一念せん。
至心廻向願生彼国|至心に廻向せしめたまえり。彼の国に生れんと願ずれば、
即得往生住不退転|即ち往生を得、不退転に住す。
唯除五逆誹謗正法|唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん。

この中に大変重要なことが書かれています。
どうすれば信心決定できるのか。
本願だけではそれが判らない。
それを本願成就文では、聞其名号と教えられています。

諸有衆生とは、あらゆる人々。
すべての人よ、其の名号を聞いて助かるんだよと、教えられている。
南無阿弥陀仏の名号を聞きなさいと。

だから
仏法は聴聞に極まる
と言われます。

聴聞に極まるとは、聴聞一つで助かるということです。
ところが彼らは、いくら聞いても信心決定できないと言います。
そんな馬鹿なこと、お釈迦さまはどこにもおっしゃっていません。
お釈迦さまの教えに反するものは仏法ではないから、
土蔵秘事は仏法ではないことになります。

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by sakyamuni | 2017-11-23 12:00 | 善知識 | Comments(0)

蓮如上人の御遺言は、
「あわれあわれ存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」

遺言には犬に餌三回やるの忘れるなよとか、
食べかけの食べ物腐らすなよとかいわない。
遺言とは命を引き換えにして自分の言いたいこと、
伝えたいことである。
それは何か。

最初にあわれあわれ、と言っておられる、
普通に考えるとおかしいこと。

普通は臨終のときにその人がいて、それを何人の人が見ている、
それでかわいそうと思う。
見とっている人が思う。

そうではなくて全く逆で、亡くなられていく蓮如上人が言われている。
なぜかと言うと、あなたの有難い命がある間に、
皆々信心決定一つしてもらいたいと言うことを朝から晩版から朝思っている。
かわいそうでかわいそうでならない、信心決定してもらいたい。

これは人生の目的、信心決定することですよ。
その命でこれ一つしてもらいたいと言われているということは、
あなたが生まれてきたのは信心決定するためですよ、と言われている。
信心決定とは信心獲得。

だけどもこれができていない、
それはあまりにもかわいそうなことで、哀れと思わずにおれない。
なぜ信心決定できていなければかわいそうなのか。
蓮如上人はなんとおしゃっておられるか

「この信心を獲得せずば、極楽へは往生せず」
信心獲得できなければ極楽へはいけないといわれている。

ではどこへ行くのか。
お釈迦さまは必堕無間と言われている。
死ねば必ず地獄へ落ちていかねばならないと言われている。
だからかわいそうだ、哀れだと言われている。
お釈迦さまは必ず落ちると断言されている。
こういうことを45年間説きつづけられた。

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by sakyamuni | 2017-10-09 12:00 | 善知識 | Comments(0)

善知識と救いの関係


お釈迦さまが多くの弟子をつれて遊行せられていた時、
小石を手に取られて
この石を河に投げたら石は浮かぶだろうか、沈むだろうか」と尋ねられました。
すべての弟子達は異口同音に
「石である限りどんな小さなものでも必ず沈みます」
と答えるとお釈迦さまは
「石は沈むが自性だが、そんな大きな石でも
 これを浮かばせる船という縁さえあえば、水に浮かぶことができるのだ」
とおっしゃって、どんな極悪人でも善知識に遇ってその教えをきけば、
必ず助かることができるが、反対に善人であっても
悪知識に遇ってその教えを聞けば、必ず地獄におちて苦しむことを
教えられて、真剣に善知識を求めるべきことを諭されています。

また、阿難がある時、釈尊に
「善知識はさとりを得る道の半因縁と思えばいいのでしょうか」
とたずねると
「そうではない。善知識は全因縁である」
と答えておられます。

因縁というのは、これによって救われるということです。
半因縁というのは、貧乏人がよい主人につかえて、
のれんわけをしてもらった時。
「これはみんな旦那さまのお陰です」
と言います。
しかし、半分は自分が一生懸命に働いてのことだから、
主人は半因縁ということになります。

全因縁というのは、赤ん坊が親に育てられるように
みな親の力だから、赤ん坊の為には親は全因縁と言われます。

どのように聞けば、善知識を全因縁と思えるのでしょうか
という質問がありますが、
善知識を全因縁とか半因縁とかは、気持ちをいわれたものです。

絶対に間違いないと信順する気持ちになれるかなれないか。
なれれば全因縁だし、納得できることは従うけれど、
納得できないことは従えないというのは、半因縁。
ピンからキリまであります。

信順できる善知識に遇えた人は早く救われますから、幸せ。
その人にとって、善知識は全因縁になります。

御一代記聞書に赤尾の道宗のことが書かれていますが、
琵琶湖の湖を一人で埋めよといわれた時、
「ハイ畏まりたる」と無条件に服従しています。
それは信心決定の心であり、死ぬまで続きます。

善知識を全因縁と知らされるかどうかは、
偏に聴聞です。
聴聞を重ねるに連れ、光る真実の信心に命を懸けて
従わずにおれなくなってくるのです。
どこまでも仏法は聴聞に極まります。

親鸞聖人は善知識、法然上人のお導きによって、
迷いの打ち止めをなされました。
全く善知識のお蔭様でありましたと
その喜びを和讃に
「真の知識に値うことは かたきが中になおかたし」
「こう劫多生の間にも 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし」
とおしゃっておられます。

ですから、
善知識があったなら、十里二十里はおろか海山越えても馳せ参じ、
その善知識を仏のごとくに敬って
身肉手足をも供養すべきである
と般舟三昧経に説かれています。


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by sakyamuni | 2017-10-07 12:00 | 善知識 | Comments(0)