カテゴリ:仏教( 42 )

浄土真宗史上空前絶後の事件といわれる
「三業惑乱」という事件が江戸時代にありました。
これは、三業帰命の異安心です。
心と口と身体で阿弥陀如来にお願いしなければ助からないという異安心です。

当時「能化」というのがありました。
西本願寺の教学の学者集団の中の最高責任者で、
歴代の能化というのは有名な人ばかりです。
西吟・知空・若霖・法霖・義教・功存・智洞です。
全部で7人です。
一度能化になったら終身制です。
相当深い教学力をもっている者ばかりです。
いずれもものすごい権力をもっていました。

それに対して法主はデクノボウが多かったそうです。
親鸞聖人の血をひいているというだけですので、教学に関しては能化まかせ。
また、これは異安心だ、と決めるのは能化でしたので、
能化に異安心だと言わたらその寺はつぶれてしまいます。

その能化の6代目の功存の時、十劫安心が流行りました。
それを何とか正そうと、本を書きました。
願生帰命弁』です。

これには、後生の一大事と、それを解決するには信心決定しなければならない、
ということが徹底的に説かれています。
「願生帰命」というのは「信心決定」ということですから。

そして、十劫安心はなくなった。
ところが功存は早死にしてしまいまして、
その後、能化を継いだのが、弟子の智洞でした。
後生の一大事とその解決は信心決定しかない、こう聞かされた人達は、
ではどうすれば信心決定できるのですか、と聞いてきます。
僧侶に聞きます。
僧侶は分からないから、能化に聞きます。

そして7代目の能化の智洞がとんでもないことを言い始めました。
それが三業帰命の異安心だったのです。
これは自力です。

浄土真宗は他力本願ですから正反対です。
能化の言葉は大変重いですので、智洞が三業帰命を説いたら、日本中で、
「私はいついつにたのみました!」
と言う人がいたるところに現れました。



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by sakyamuni | 2018-07-17 13:00 | 仏教 | Comments(0)

ブッダはどこの国の人?

仏教を説かれたブッダはどこの国の人でしょうか。
仏教学ぶものは最低限知っていなければならない基本中の基本です。
どこの国の人かというと、インドの人です。

中にはネパールで生まれられたではないかという人があります。
確かにその通り。
しかしさとりを開かれたのはインドです。
インドで活躍されたのでインドの人です。

ブッダキリスト教とは違う。
キリスト教で、イエスはマリアの結婚前に、処女から生まれたといいます。
仏教では因果の道理を無視した奇跡は認めません。

当然生まれたときは最初から仏様ではありませんから、
お父さんお母さんの元で生まれられました。
それでお父さんの名前は浄飯王、お母さんはマーヤ—夫人です。

この時、参考までに言っておきますと、
なかなかこの二人の間には子供が産まれなかった。
このマーヤー夫人が出産したとき非常に高齢出産でした。

それで高齢出産だったためブッダを、
悉達多太子を生んだ後一週間で、
残念ながら、なくなっておられます。

その後マーヤー夫人の妹さんですマカマヤ夫人が養母となっておられます。
ブッダは、マカマヤ夫人に育てられました。

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by sakyamuni | 2018-07-07 12:00 | 仏教 | Comments(0)

浄土真宗を広められた蓮如上人は、
あるときこのようにおっしゃっています。

同じく仰せに、「今日の日はあるまじきと思え」と、仰せられ候う。
何事も、かきいそぎて、物を御沙汰候う由にて候う。
ながながしたる事を御嫌いの由に候う。
仏法のうえにては、明日のことを今日するように、いそぎたること、賞翫候う。
(御一代記聞書104)

今日の日もないんだと言われ何事も急がれています。
仏法者は明日することを今日する。
蓮如上人はこのように過密スケジュールを過ごしておられます。

ご説法では一言一言噛み砕いておられるが、
壇上から降りられると変わられます。
ものすごく早い。

蓮如上人のお言葉で若き仏法者が私たちにメッセージを残しています。
日々全力投球、これが蓮如上人のお姿です。

今日死んでしまったら、そういう気持ちで
説くので真剣で聞いてください。
今日が最後のご説法だと言う気持ちです。
そういう気持ちで聞いてもらいたい。

親鸞聖人の時代、天皇の女官であった鈴虫・松虫は、
夜、抜け出して仏教講座に聞きに行きました。
発覚したら命はないかもしれない。

暇なときに仏教を聞かせていただけばいいと思いますが、
どうして行ったのでしょうか。
後生の一大事があるからです。

昼間に話を聞かせて頂き、
その日の夜に仏教を聞かずにおれなくなったのです。

今の苦しみは一時の苦しみ。
明日はないという気持ちで求めて阿弥陀仏に救われる。

だから私たちのここ一つ聞いたならば底抜けの幸せ者になれる。
大宇宙一の幸せ者。
求めてきてよかった。

その先にある、求め抜いて頂きたい。
求道の道程には色々あるが、それは幸せのため。
それを苦しいと投げ出すのは勿体ない。
それが幸せの姿なのだから。
後生の一大事という大問題の解決に向かって進んで頂きたい。

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by sakyamuni | 2018-06-12 18:00 | 仏教 | Comments(0)

仏法聞き難しとか、
真の知識にあうことは難きが中になお難し
といわれます。

なぜでしょうか。
それは、私たちに仏法を聞こうという心がないからです。

欲望などの煩悩を満たそうとする心はおきます。
金儲けなら目を光らせますが、
仏教を聞くとなると、目は閉じていきます。

ところが、お金儲けをしていると、
不条理に思うことがあったり、
虚無感におそわれたりします。

その答えを知りたいと思うところから導かれて
仏教を聞くようになるのです。

それでも、本当の仏教を教える
真の知識はほとんどいないので、
苦しんでいるのは、煩悩のせいだ
という程度です。

仏教の真髄は、
真の知識にあわなければ決して分かりません。

正しい仏教の先生が教えてくださることが
流転輪廻の際なきは疑情の障りにしくぞなき
ということです。

疑情というのは、煩悩ではありません。
心の闇です。

苦しみ悩みに果てしがないのは、
心の闇が根本原因だ
ということです。

この世の中でそういうことを明らかにされるかたどれだけいるでしょうか?
考えるとみんな煩悩と間違えています。

本当の仏教を知ることができるのは、
大変な幸せなことです。


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by sakyamuni | 2018-05-21 13:00 | 仏教 | Comments(0)

阿弥陀仏とブッダの関係

阿弥陀仏とブッダの関係は?
御文章2帖目8通に蓮如上人がわかりすく教えられています。

ここに弥陀如来と申すは三世十方の諸仏の本師本仏なり

弥陀如来とは阿弥陀如来です。
三世十方の諸仏とは、十方とは、大宇宙のことです。

地球上で仏のさとりを開かれた方はブッダただ一人ですが、
大宇宙には、地球のようなものが数え切れないほどあります。

ですから、大宇宙には、たくさんの仏方がおられます。
たとえば大日如来薬師如来、奈良の大仏の毘盧遮那如来
などです。

そのような仏方の本師本仏が阿弥陀仏です。
本師本仏とは先生の仏ということです。

ですから、阿弥陀仏が先生で、大宇宙の仏方が弟子です。
地球に現れたおブッダも、大宇宙の仏の一仏ですから、
阿弥陀仏が先生でブッダが弟子です。
弟子のブッダは阿弥陀仏のことばかりを教えられたわけです。

天台宗の荊溪は、このように言っています。
「諸経所讚多在弥陀」
たくさんのお経にブッダが讃えられているところは、
多く阿弥陀仏にあり、ということです。

弟子とはそんなものです。
先生のことばかりをいいます。

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by sakyamuni | 2018-03-24 12:00 | 仏教 | Comments(0)

真実の仏教は、平生業成です。
平生に、人生の目的が完成します。
死ぬときではありません。

死ぬときが恐いか恐くないかは死に様がよいか悪いかを問題することは、
それによって救われているか否か分かるという信心で、
もしこうだととしますと、
私たちが救われたか救われていないかが
死ぬまで分からないということになります。

臨終に際して、死の恐怖があるかどうか、
臨終を迎えたときにならなければ
死ぬまで分からない決定できないということになります。

こういうことを死ぬまで求道といいます。
これを破られたのが本当の仏教です。

死ぬまでじゃない。
平生達者なときです。
平生の一念、ひとおもいではっきりします。

弥陀の本願を聞信する平生の一念で往生できるかどうかが決定します。
救われているか否か決定するのがブッダのねらいです。

臨終が一切関係なくなる問題にならなくなります。

ブッダの明らかにされたのは平生に信心は決するということです。
平生に往生の得否は定まります。




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by sakyamuni | 2018-03-14 12:00 | 仏教 | Comments(0)

新春や 生死の園を ひとまたぎ
暮れてまたよし 明けてまたよし

生死の園」とは、
生まれた者が死ぬほど苦しいことはありませんから、
生死とは苦しみのことです。
苦しみ悩みの世界を生死の園と言われます。

ひとまたぎというのは、
絶対の幸福に救われた瞬間に、
さとりの52位を
51段ぽーんととぶからひとまたぎです。

私達は阿弥陀如来の大願業力で
51段をとばせていただくからです。

ひとまたぎ、
絶対の幸福に救われたならば、
暮れてもよし明けてもよしです。

煩悩はさわりにならないから、
苦しみ一杯の人生が
光明輝く人生と開けます。


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by sakyamuni | 2018-03-05 18:00 | 仏教 | Comments(0)

絶対の幸福になるには

全ての人を信楽にする、これが弥陀の本願です。
全ての人を相手に、信楽にする、
というお約束です。

では、信楽とはどういう心でしょうか?
無明の闇が破れてなくなった心です。

『破れた』とは『なくなった』ということです。
そういう心です。

無明の闇とは後生くらい心、先が暗いから今が暗い、
後生も遠くない今の問題です。

それが後生明るい心にガラリと変わります。
だんだん変わるのではありません。
水際だった変わります。

人間に生まれてよかったという
変わることのない
絶対の幸福になります。


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by sakyamuni | 2018-02-28 12:00 | 仏教 | Comments(0)

観無量寿経には、
地球上ではじめて阿弥陀如来の本願に救われた
韋提希夫人が救われるまでが説かれています。

韋提希夫人に阿弥陀如来の本願を説かれる
時節到来を感知されたブッダは、
「除苦悩法を説く」
といわれました。

除苦悩法とは阿弥陀如来の本願のことです。

阿弥陀如来の本願は、
後生暗い心を破って明るい心にしてみせるというお約束です。

ブッダが機毎機毎に一切経を説かれた目的です。

一切経に教えられたのは、一言でいうと廃悪修善です。
因果の道理は仏教の根幹です。

因果の道理は、私たちの行いが、自らの運命を作り出す
因果応報ですから、それが分かると廃悪修善をせずにおれなくなります。

ブッダは因果の道理を知らせて
廃悪修善の心を起こさせます。

色んな事を考え、信じてい人々ですが、
因果の道理で統合して、知らせたかったのは、
悪しかできない一機です。

一機とは、逆謗の一機です。
それは、地獄行き間違いなしの一機です。

その一機を救う一法。
それが阿弥陀如来の本願です。

これを説かれたのが仏教です。

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by sakyamuni | 2018-02-11 12:00 | 仏教 | Comments(0)

人生というのは、
みんな夢のような1つのアブクの中で、
家族などをアテにして生きています。

浄土真宗葬式でよく読まれる白骨の御文章には、
アッという間に過ぎ去る一生なんだ。
アッという間に、後生はすぐソバに迫っている
ということが書かれて、最後はこう結ばれています。

されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、
誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。

誰も後生の一大事といっても心かけてない、
後生の一大事が迫っています。

それは「誰の人も」ですから、全員です。
全人類が後生の一大事に直面します。

だから後生の一大事を解決しなさい。
それを救うというのは
阿弥陀如来だけだから、
はやく、後生の一大事を解決をしてもらいなさい。
と教えられています。

ブッダは、仏教の結論として
一向専念無量寿仏
と教えられています。

無量寿仏とは、阿弥陀如来のことですから、
阿弥陀如来一つに向きなさい、
阿弥陀如来だけを信じなさい、
ということです。



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by sakyamuni | 2018-02-07 12:00 | 仏教 | Comments(0)