カテゴリ:仏教( 46 )

地球上で三大聖人、二大聖人と言われてもトップのブッダ
そのブッダが頭を下げられる方が阿弥陀如来です。

阿弥陀如来一つへ、向かえと言われています。
私の力では助けられない、だから阿弥陀如来の方へ行け。
このブッダ45年間の教えの説法の結論です。
このように説かれています。

一向専念 無量寿仏(大無量寿経)

一切経7000余巻が、この8文字におさまります。
これを教えて行かれたのがブッダです。

ブッダ阿弥陀如来の光明の素晴らしさを、
大無量寿経に教えておられます。

無量寿仏の威神光明は最尊第一にして、
諸仏の光明の及ぶこと能わざるところなり(大無量寿経)

威神とは、ものすごい、ということ。
光明とは仏の力です。
ものすごいお力、これが威神光明といわれています。

その直後に
ただ我今其の光明を称するのみにあらず、一切の諸仏・声聞・
縁覚・諸菩薩衆もことごとく嘆誉したまうこと、亦復是の如し。
(大無量寿経)

我とはブッダのことです。
諸仏の中から特に優れている。
だから諸仏は阿弥陀如来を誉めたたえておられるのです。
「またまたかくのごとし」ですから、
大宇宙の仏がたは、大日如来薬師如来も、
ブッダと同じように、阿弥陀如来一つに向きなさい
と教えられているのです。


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by sakyamuni | 2018-10-14 12:00 | 仏教 | Comments(0)

仏教で不思議とは

本願の不思議をもって、生まるべからざるものを生まれさせたればこそ
「超世の悲願」とも名け、「横超の直道」とも聞えはんべれ。(改邪鈔)

これは浄土真宗の3代目の覚如上人のお言葉です。

仏教で不思議というと、
世の中にはいろいろ不思議なことはありますが、
仏教ではそういったものは不思議とは言いません。

仏教で不思議といったら、イコール本願、または名号、
それらに救い取られた信心を指すかのいずれかです。
不思議といったら本願、こう思っていれば間違いありません。

生まるべからざるものとは、極悪人のことです。
阿弥陀如来は五劫の思惟で、十方衆生を煩悩の塊で、
絶対助からぬ五逆と謗法の極悪人と見抜き、本願を成就されているのに、
自分がその逆謗とは誰も気がつきません。

絶対に助かる縁手掛かりのないものです。
そういうものが本願の不思議によって、
生きているときに生まれ変われさせて頂きます。

信楽の心に生まれ変わるんですよと。
これが若不生者のちかい、不体失往生です。
不体失というのは、身体を失わずしてですから、
生きているときです。

この水際がついたのが、体失不体失往生の諍論です。
生きているときに、心が往生するのです。


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by sakyamuni | 2018-09-04 12:00 | 仏教 | Comments(0)

約800年前、浄土宗を開いた善恵房と
浄土真宗を開いた親鸞聖人の論争がありました。

善恵房は、念仏を称えたら死んだらお助け
という話をしていました。

それに対して親鸞聖人が、
私は今救われたことを喜んでいる
と反論しました。

確かに、今溺れている人に、舟に乗ってやってきて
「おーい、苦しいか?お前が溺れて浮いてきたら助けるぞ」
と言う人があるでしょうか。

こんな人はいるはずがありません。
助けられたくてもがいて溺れているのです。

腹痛の例もそうです。

今苦しんでいる人に、
死んだら助けるというのでは、
阿弥陀如来は無慈悲な方になってしまいます。

善慧房だけじゃなくて、この世の宗教、全部
死んだらお助けです。
キリスト教もそうです。

善慧房の話を聞いて
「ありがたい!」
と言ってたおばあちゃんがありますよね。
「死んだら極楽に往ける。ありがたい!」
そういう人です。

仏教はそんなにありがたいものなのでしょうか。
「ありがた屋」というのが世にあるそうです。
あのおばあちゃんです。
ありがたくない心に
ありがたいと暗示をかけているようなものです。

舟の例えなら
「死んだら助けるぞ!」
ありがとうございます!」
というようなものです。
「本当ですか?」
「本当だぞ!」
それで安心する。
これの繰り返しです。

死んだら極楽という浄土宗では、
死ぬま不安はなくならないのです。
浄土真宗は、今救われる平生業成です。


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by sakyamuni | 2018-08-21 13:00 | 仏教 | Comments(0)

浄土真宗の東本願寺では、なぜか
死後の世界なんて、分からない。
そんなのを扱うのは「宗教」だ。
として遠ざける傾向があります。

仏教を始めて聞きに来た人がいる時も、
今日は仏教の講師が死後のことを話す、
となったらふだん聞きに来ている人たちが緊張しています。
しかし、死後を論じない限り、仏教は始まりません。

東は浄土も弥陀も私達の心にあるんです」と言います。
のうのうと言っています。
そして聞く者も「それなら分かります」と安心している。
しかし親鸞聖人はこうした「自性唯心」を徹底的に破られた方です。

「然るに末代の道俗近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し」
(教行信証信巻)

「弥陀も浄土も心にある」と言う。
自己開発セミナーみたいなものと教えます。
あなたの脳はまだ15%くらいしか使われていませんよ、
もっと潜在したものがあるんです、
それを昔の人は“阿弥陀仏”と呼んだんです。
と教える。
そして「あ〜、そういうことですか」となる。
しかしそんな者へ親鸞聖人は
「お前達は浄土の真証を貶しているぞ!
頭で考えて出てくるようなものじゃないんだ!」
と言われているんです。
前の部分を読めばわかります。

「信楽を獲得することは如来選択の願心より発起す。
真心を開闡することは大聖矜哀の善巧より顕彰せり」

信楽とは他力信心です。
信楽は「獲得」するものであり、自分で創り出すものではない。
それはすべて弥陀と釈迦のお導きによるんだ。
と言われているんです。

だから『恩徳讃』になるわけで「釈迦弥陀は慈悲の父母」となるんです。
自分でどうにかなったのなら、ご恩は感じられません。

こうした教えを、自分の頭で解釈して、分かるように勝手に理解している。
帽子に合わせて頭を削っている。
東の主張するように、死んだ後がない!というのは間違いです。

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by sakyamuni | 2018-08-17 13:00 | 仏教 | Comments(0)

浄土真宗史上空前絶後の事件といわれる
「三業惑乱」という事件が江戸時代にありました。
これは、三業帰命の異安心です。
心と口と身体で阿弥陀如来にお願いしなければ助からないという異安心です。

当時「能化」というのがありました。
西本願寺の教学の学者集団の中の最高責任者で、
歴代の能化というのは有名な人ばかりです。
西吟・知空・若霖・法霖・義教・功存・智洞です。
全部で7人です。
一度能化になったら終身制です。
相当深い教学力をもっている者ばかりです。
いずれもものすごい権力をもっていました。

それに対して法主はデクノボウが多かったそうです。
親鸞聖人の血をひいているというだけですので、教学に関しては能化まかせ。
また、これは異安心だ、と決めるのは能化でしたので、
能化に異安心だと言わたらその寺はつぶれてしまいます。

その能化の6代目の功存の時、十劫安心が流行りました。
それを何とか正そうと、本を書きました。
願生帰命弁』です。

これには、後生の一大事と、それを解決するには信心決定しなければならない、
ということが徹底的に説かれています。
「願生帰命」というのは「信心決定」ということですから。

そして、十劫安心はなくなった。
ところが功存は早死にしてしまいまして、
その後、能化を継いだのが、弟子の智洞でした。
後生の一大事とその解決は信心決定しかない、こう聞かされた人達は、
ではどうすれば信心決定できるのですか、と聞いてきます。
僧侶に聞きます。
僧侶は分からないから、能化に聞きます。

そして7代目の能化の智洞がとんでもないことを言い始めました。
それが三業帰命の異安心だったのです。
これは自力です。

浄土真宗は他力本願ですから正反対です。
能化の言葉は大変重いですので、智洞が三業帰命を説いたら、日本中で、
「私はいついつにたのみました!」
と言う人がいたるところに現れました。



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by sakyamuni | 2018-07-17 13:00 | 仏教 | Comments(0)

ブッダはどこの国の人?

仏教を説かれたブッダはどこの国の人でしょうか。
仏教学ぶものは最低限知っていなければならない基本中の基本です。
どこの国の人かというと、インドの人です。

中にはネパールで生まれられたではないかという人があります。
確かにその通り。
しかしさとりを開かれたのはインドです。
インドで活躍されたのでインドの人です。

ブッダキリスト教とは違う。
キリスト教で、イエスはマリアの結婚前に、処女から生まれたといいます。
仏教では因果の道理を無視した奇跡は認めません。

当然生まれたときは最初から仏様ではありませんから、
お父さんお母さんの元で生まれられました。
それでお父さんの名前は浄飯王、お母さんはマーヤ—夫人です。

この時、参考までに言っておきますと、
なかなかこの二人の間には子供が産まれなかった。
このマーヤー夫人が出産したとき非常に高齢出産でした。

それで高齢出産だったためブッダを、
悉達多太子を生んだ後一週間で、
残念ながら、なくなっておられます。

その後マーヤー夫人の妹さんですマカマヤ夫人が養母となっておられます。
ブッダは、マカマヤ夫人に育てられました。

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by sakyamuni | 2018-07-07 12:00 | 仏教 | Comments(0)

浄土真宗を広められた蓮如上人は、
あるときこのようにおっしゃっています。

同じく仰せに、「今日の日はあるまじきと思え」と、仰せられ候う。
何事も、かきいそぎて、物を御沙汰候う由にて候う。
ながながしたる事を御嫌いの由に候う。
仏法のうえにては、明日のことを今日するように、いそぎたること、賞翫候う。
(御一代記聞書104)

今日の日もないんだと言われ何事も急がれています。
仏法者は明日することを今日する。
蓮如上人はこのように過密スケジュールを過ごしておられます。

ご説法では一言一言噛み砕いておられるが、
壇上から降りられると変わられます。
ものすごく早い。

蓮如上人のお言葉で若き仏法者が私たちにメッセージを残しています。
日々全力投球、これが蓮如上人のお姿です。

今日死んでしまったら、そういう気持ちで
説くので真剣で聞いてください。
今日が最後のご説法だと言う気持ちです。
そういう気持ちで聞いてもらいたい。

親鸞聖人の時代、天皇の女官であった鈴虫・松虫は、
夜、抜け出して仏教講座に聞きに行きました。
発覚したら命はないかもしれない。

暇なときに仏教を聞かせていただけばいいと思いますが、
どうして行ったのでしょうか。
後生の一大事があるからです。

昼間に話を聞かせて頂き、
その日の夜に仏教を聞かずにおれなくなったのです。

今の苦しみは一時の苦しみ。
明日はないという気持ちで求めて阿弥陀仏に救われる。

だから私たちのここ一つ聞いたならば底抜けの幸せ者になれる。
大宇宙一の幸せ者。
求めてきてよかった。

その先にある、求め抜いて頂きたい。
求道の道程には色々あるが、それは幸せのため。
それを苦しいと投げ出すのは勿体ない。
それが幸せの姿なのだから。
後生の一大事という大問題の解決に向かって進んで頂きたい。

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by sakyamuni | 2018-06-12 18:00 | 仏教 | Comments(0)

仏法聞き難しとか、
真の知識にあうことは難きが中になお難し
といわれます。

なぜでしょうか。
それは、私たちに仏法を聞こうという心がないからです。

欲望などの煩悩を満たそうとする心はおきます。
金儲けなら目を光らせますが、
仏教を聞くとなると、目は閉じていきます。

ところが、お金儲けをしていると、
不条理に思うことがあったり、
虚無感におそわれたりします。

その答えを知りたいと思うところから導かれて
仏教を聞くようになるのです。

それでも、本当の仏教を教える
真の知識はほとんどいないので、
苦しんでいるのは、煩悩のせいだ
という程度です。

仏教の真髄は、
真の知識にあわなければ決して分かりません。

正しい仏教の先生が教えてくださることが
流転輪廻の際なきは疑情の障りにしくぞなき
ということです。

疑情というのは、煩悩ではありません。
心の闇です。

苦しみ悩みに果てしがないのは、
心の闇が根本原因だ
ということです。

この世の中でそういうことを明らかにされるかたどれだけいるでしょうか?
考えるとみんな煩悩と間違えています。

本当の仏教を知ることができるのは、
大変な幸せなことです。


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by sakyamuni | 2018-05-21 13:00 | 仏教 | Comments(0)

阿弥陀仏とブッダの関係

阿弥陀仏とブッダの関係は?
御文章2帖目8通に蓮如上人がわかりすく教えられています。

ここに弥陀如来と申すは三世十方の諸仏の本師本仏なり

弥陀如来とは阿弥陀如来です。
三世十方の諸仏とは、十方とは、大宇宙のことです。

地球上で仏のさとりを開かれた方はブッダただ一人ですが、
大宇宙には、地球のようなものが数え切れないほどあります。

ですから、大宇宙には、たくさんの仏方がおられます。
たとえば大日如来薬師如来、奈良の大仏の毘盧遮那如来
などです。

そのような仏方の本師本仏が阿弥陀仏です。
本師本仏とは先生の仏ということです。

ですから、阿弥陀仏が先生で、大宇宙の仏方が弟子です。
地球に現れたおブッダも、大宇宙の仏の一仏ですから、
阿弥陀仏が先生でブッダが弟子です。
弟子のブッダは阿弥陀仏のことばかりを教えられたわけです。

天台宗の荊溪は、このように言っています。
「諸経所讚多在弥陀」
たくさんのお経にブッダが讃えられているところは、
多く阿弥陀仏にあり、ということです。

弟子とはそんなものです。
先生のことばかりをいいます。

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by sakyamuni | 2018-03-24 12:00 | 仏教 | Comments(0)

真実の仏教は、平生業成です。
平生に、人生の目的が完成します。
死ぬときではありません。

死ぬときが恐いか恐くないかは死に様がよいか悪いかを問題することは、
それによって救われているか否か分かるという信心で、
もしこうだととしますと、
私たちが救われたか救われていないかが
死ぬまで分からないということになります。

臨終に際して、死の恐怖があるかどうか、
臨終を迎えたときにならなければ
死ぬまで分からない決定できないということになります。

こういうことを死ぬまで求道といいます。
これを破られたのが本当の仏教です。

死ぬまでじゃない。
平生達者なときです。
平生の一念、ひとおもいではっきりします。

弥陀の本願を聞信する平生の一念で往生できるかどうかが決定します。
救われているか否か決定するのがブッダのねらいです。

臨終が一切関係なくなる問題にならなくなります。

ブッダの明らかにされたのは平生に信心は決するということです。
平生に往生の得否は定まります。




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by sakyamuni | 2018-03-14 12:00 | 仏教 | Comments(0)