浄土真宗の8代目の蓮如上人は、
親鸞聖人の教えを正確に、
最も多くの方に広められました。

蓮如上人の場合は非常に布教活動が激しかったために
御著書がほとんどありません。

御文章と正信偈大意くらいです。
御文章もお手紙ですから、御著書ではない。
正信偈大意でも非常に簡潔に短いものです。
大部ではありません。

布教活動に専心されますと
本を書く時間が取れないのです。
本を書くにはまとまった時間が必要です。

どうしても本を書くにはまとまった時間が必要。
それで蓮如上人晩年になられても布教活動に命を懸けられています。
しかしお手紙なら布教の合間でもかけるものですから御文章がそれでたくさんあります。

正信偈大意は、蓮如上人の時代からおつとめで正信偈を拝読するようになりました。
御和讃を組み入れて。
この私たちのお勤めも蓮如上人の時代から始まったといわれます。
今日御文章は五帖、五帖の御文といわれます。

この蓮如上人には三百通あまりのお手紙があります。
それをこの五帖の御文では80通にまとめてあります。
これは誰がまとめたかというと蓮如上人のお孫さんである円如法師です。
この人の命を懸けた報恩の行いがなかったら私たちは御文章が拝読できませんでした。

そのような色々の方のご苦労によって私たちは
本当の幸せを求めてさせて頂けるのです。

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by sakyamuni | 2018-07-15 12:00 | 教学 | Comments(0)

親鸞聖人の主な著作5選

親鸞聖人の主な著作を5つあげるとしたらこうなります。

教行信証
愚禿鈔
三帖和讃
末灯鈔
一念多念証文

これは、親鸞聖人の浄土真宗の教えの書かれている
重要度の高い順です。

一番は教行信証です。
これは根本聖典です。

この教行信証には浄土真宗の教えがすべて納まっています。
だから根本聖典と言われます。
浄土真宗の根本の聖典が教行信証です。
略してご本典といわれています。

世界に名著はありますが、名著の中の名著が教行信証です。
優れた著作。
有名な著作たくさんありますが。
これ以上すばらしい本はありません。

本当の幸せになる、獲信の最も近道が
ここに明らかに説き明かされています。
仏教の真髄です。
これが教行信証です。

次、愚禿鈔です。
親鸞聖人の御自身の名前がつけられています。
しかし本当は親鸞聖人は本の名前をつけておられません。
後世の人が愚禿鈔と言いました。
西本願寺では二巻鈔。
東本願寺では愚禿抄といいます。

ここに親鸞聖人の教えが要約されています。


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by sakyamuni | 2018-07-14 12:00 | 教学 | Comments(0)

ブッダの一切経の別名

ブッダが35歳で仏のさとりを開かれてから、
80歳で入滅されるまでの45年間説かれたことの一切を記したお経を、
今日、「一切経」と言われます。

他には何といわれるでしょうか?

一切経以外の言い方。
いくつかありますから。
たとえ人に言わなくても知っているだけで自信になりますから。
ここでは八万の法蔵、一代教。

沢山の経典があるから八万の法蔵と言われます。
八万とは非常に数が多いことを表しています。

私たちの本当の幸福になる真理が納まっているから「法蔵」。
またブッダ一代の教えですから、一代の教え、「一代教」。

他にもいろんな言い方があります。
七駄片馬」。
七頭の馬。
当時インドから中国に運ぶとき、
一切経を七頭の馬で積んでもまだ足りなかったから
七駄片馬といわれます。

キリスト教のわずか二冊と比べたら桁が違います。


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by sakyamuni | 2018-07-13 12:00 | 教学 | Comments(0)

法尋という人が作った
親鸞聖人の歌にこうあります。

真宗の組織は
この時ここがまことぞと
教行信証六巻に
真意を開き著わさる

法然上人が明らかにされた阿弥陀仏の本願です。
それを書かれた選択集の御心を明らかにされたのが教行信証です。
選択集の書写を許されてから十数年の年月がたって
やっと教行信証のご執筆に取り組まれました。

それも御執筆だけでなく
その前に田植え歌があり、
田植えで仏法聞きにこれない人に
なんとか伝えたいと田植えをいっしょにされたりしています。

その後、お疲れの中末代の人にもなんとか伝えたいと
御執筆されました。

親鸞聖人はその後、お亡くなりになるまで修正を加えられています。
本当の仏教の真髄が詳しく明らかにされています。


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by sakyamuni | 2018-06-10 12:00 | 教学 | Comments(0)

阿弥陀仏の本願を読んでも私たちには
わからない点が4つあります。

1どうすれば助かるのかわからぬ
2自力か他力かわからぬ
3信心か念仏かわからぬ
4若不生者の生れるの意味がわからぬ

その阿弥陀仏の本願を読んでわからないところを
お釈迦さまが明らかにされたのが本願成就文です。

その本願成就文から、親鸞聖人がこれらのことを
明らかにされたイベントが、三大諍論です。
それぞれどの諍論でしょうか。

2自力か他力かわからぬ・・・信心同異の諍論
3信心か念仏かわからぬ・・・信行両座の諍論
4若不生者の生まれるがわからぬ・・・体失不体失往生の諍論

3信心か念仏かわからぬというのは
本願成就文に信心しかでてこないので
信心一つで助かるということがわかります。

2の自力か他力かわからないというのと
信心同異の諍論がなぜ結びつくのでしょうか。

自力の信心というのは自分の才能、学問とかを磨き上げて、つくるものです。
だから人によって異なります。
一方他力の信心というのは同じ阿弥陀仏から
同じまことの心をいただくのだから、みんな同じになります。
こういう仏意を親鸞聖人は、
本願成就文から明らかにされたということです。

阿弥陀仏の本願は生きているただ今救われるのだと
体失不体失往生の諍論であきらかにされたのも、
他力の信心は一味平等といわれたのも、
念仏ではなくて信心一つといわれたのも
全部本願成就文に腰をすえて明らかにされたのです。

それで本願成就文を至極といいます。


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by sakyamuni | 2018-03-18 23:01 | 教学 | Comments(0)

昔から日本の仏教徒達は、
自己の保身の為に、釈尊が徹底的に排斥なされた神を、
本地垂迹の仏説をネジ曲げて、神も仏も同じだと言って、
神仏一体という邪説をデッチあげました。

天台宗真言宗の聖道仏教の学者達が、
自己の保身の為に、仏教の本地垂迹説を都合のいいように解釈して
「神仏一体」という単語を造り、仏と日本のを同じだといった。
こんなを、権社の神、という。

自己の保身の為に、でっちあげた神。

日本にいる権力者というのは、
天皇、その権力者天皇というのは神道
自分が、人となって現れたである、としていたのですね。
現人神、なんかに後生の一大事の解決なんかできる訳ないのですけれど。

天照とか、そういうようなですね、神信心が間違っている、と。
分かっている。
ところが話は複雑でして。
奈良とか、京都とか、に行きますと、国宝とか、伝統とか、
そういうような、さも立派な僧侶が出て、良いイメージなんですね。
ところがですね、天台宗真言宗僧侶達は、
権力者ににらまれたらかなわない。
そういう所から腐敗が始まる。

それが商売人なら分かりますよ、
ところが、それを仏法に持ち込んだ。
神も仏も一緒にしてしまえ。
何の力もない神。
天皇の権力を持たせる神。
そんな神と仏を一緒にしてしまう。

こうなるとですね、後生の一大事の解決の道を、まったく、ねじ曲げたのですね。

そういうのがですね、日本中にいた僧侶なんです。

そして、仏教をして全く外道化させ、
あまねく世間に流布させました。
これでは仏教の敵ですし、地獄行きですよね。


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by sakyamuni | 2017-11-29 12:00 | 教学 | Comments(0)

質問
「私は仏教を伝えるのが忙しくて、教学が思うように進みません」
どういう努力をしていけばいいか。


仏教を伝えるのが忙しい。
それで教学が思うように進みません。
どういう努力をしていけばいいでしょうか。
こういう質問に対して。

仏教を伝えるのが忙しくて教学が思うように進まないと言う人があるが、
仏教の聞き誤りではないか。
教学を疎かにしていてどんな活動をしても空回り。
教えを学ぶ、これをおろそかにしていて、
仏教を伝えようとしてどんな活動をしていてもそれは空回り。

空回りでしかない。
仏教を伝えているように見えるだけで、
実のある活動とはならないのではないか。
形だけで。

仏教は教学と行学。
車の両輪です。

教学と行学。
この両輪をもって求道は進む。
この場合活動が行学とするなら行学できるが教学できないと言うのなら、
右の車輪は進むが左の車輪は引きずって前に進まない。
どちらがかけても前に進みませんよ。

また仏教を伝えることと学ぶことを別個に考えることが間違っている。
私たちは何のために活動に忙しくなっているのか。
仏教を聞くため。
原点を再度活動して貰いたい。




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by sakyamuni | 2017-10-13 12:00 | 教学 | Comments(0)

仏教を聞く指針とは?

親鸞聖人の教えられた教え。
真実の教学というものは、
親鸞聖人や蓮如上人のご説法を親しく聴聞するのと同じですから、
大いに学ばなければなりません。

だから教学を学ぶのは聴聞と同じ。

たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名を聞く人は
永く不退にかなうなり。

聴聞と同じですから。
あなたはそういう心がどれだけあったか反省して貰いたい。
仏教の教えを学ぶままが
親鸞聖人、蓮如上人から聞かせていただいているのと同じです。

大いに学んで貰いたい。
それがあなたの求道に大変プラスになり
使命を果たす上において無形の財産になる。

だから大いに学ばなければならない。
教学はそのまま求信の指針となるものばかり。
信心決定の最も近道を教えられている。

また破邪顕正の宿善になる。
破邪顕正の利剣といってもいい。
これをしっかり身につければ自信を持って話をすることができる。
教えに対して自信をもつことができる。
また信心決定したものからすれば報謝の大行となる。

老若男女を問わず、大いに真実の教学を深めていきましょう。




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by sakyamuni | 2017-10-06 12:02 | 教学 | Comments(0)

疑情と法謗罪の違い

諸善万行で後生の一大事助かろうという心。
これ疑情と言いますね。

弥陀の本願を疑う心。この疑情と謗法罪の違い。
判らない人あったね。皆さんも多いと思います。

全く違います。
謗法罪と弥陀の本願を疑っている心。

同じように思いますが全く違う。
謗法罪は信前信後作り続けるが疑情はなくなる。
疑情と煩悩の違いです。


しかしそれハッキリしないと思います。
おそらく信心決定するまで同じじゃないかと思ってしまうかも知れないが、
違うと言うことを知って下さい。
自力の心と謗法罪は全く違います。

謗法罪のような恐ろしい罪を救うと誓われたのが阿弥陀仏の本願。
その阿弥陀仏の本願を疑っている心、これが自力の心ですから、全く違います。
そう言うことここで知って貰いたい。

ここは聞いたときは分かった気になるが時間がたつと判らなくなる。
これは頭が良いから悪いからではない。
自力とはそう言うもの。
時間がたつと判らなくなる。そう言うものですから、しっかり覚えて欲しい。
何回も何回も同じ事を繰り返し聞かせて頂かねばならないことです。



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by sakyamuni | 2017-08-30 12:00 | 教学 | Comments(0)

お釈迦さま阿弥陀仏のとの関係は?
寺参りしている人でもほとんど誰も知らない。

大宇宙には、地球のようなものがちりのように
ガンジス河の砂の数ほどある。
この部屋にもほこりが充満している。
そのほこりの一つが地球。
その地球の上で、おれの家の前に車とめるな。
警察呼ぶぞ、とやっている。

お釈迦さまの説かれたことを蓮如上人は、
このように教えられている。
阿弥陀如来と申すは三世十方の諸仏の本師本仏なれば
(御文章2−8)

十方諸仏」とは大宇宙のたくさんの仏方。
お釈迦さまも十方諸仏のお一人。
本師本仏」とは先生。
その先生、本師本仏が阿弥陀仏。
お釈迦さまも十方諸仏のお一人だから、阿弥陀仏と先生と生との関係。

これで、お釈迦さまが阿弥陀仏の本願一つ説いていかれたのもなぜか、
ということがはっきりする。
仏教では弟子の使命は、先生のみ心一つお伝えすること。
だから、仏教というのは阿弥陀仏の本願一つ説かれた。




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by sakyamuni | 2017-08-18 09:58 | 教学 | Comments(0)