蓮如上人は、領解文に
もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に
「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」とたのみ申して候。
たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、
この上の称名は、御恩報謝と存じよろこび申し候。
この御ことわり申しわけ候こと、御開山聖人御出世の御恩・
次第相承の善知識の浅からざる御勧化の御恩と、有難くぞんじ候。
この上は定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもり申すべく候。
と、おっしゃっています。

まず知らねばならないのは、
我等が今度の一大事の後生です。

我等が今度の一大事の後生。
まず知らねばならないのは仏法を聞く目的。
人生の目的は我等が今度の一大事の後生。
万人共通唯一の目的は後生の一大事の解決。
今度の。今度と言ってもそんな遠い未来ではない。

吸った息が吐けなければ後生。
吸う息吐く息がふれあっているのが後生。
一大事とは取り返しのつかない大問題。
その後生の一大事の解決のために生を受けた。
仏法を聞かなければならないと言われている。

人や人やと思えども今に我が身が誘われて油断する間にダマシ鳥

我々死んでいかねばならない、後生と言っても人や人や、
まだまだ死なないと他人事、動物園の虎としか眺めていない。
まだまだ遠い未来と思っているけれどもいつまでも人の死ばかり見ておれない。

人や先人や先と思っているがやがて立場が逆転する。
ジャングルででくわす虎にでくわすときが来る。
我が身の後生がそう遠くない未来にやってくる。
誘われる、とはどう言うことですか。

これは無常の風と言うこと。無常の風に誘われる。
こういう言い方しますから。
今に我が身が無常の風に誘われる。みんな油断している。
後生の一大事ある限り油断してはならないと
赤尾の道宗はいわれている。

油断している間に騙されて後生へ突っ込んでいく。
人に騙され我が身に騙されて突っ込んでいく。
ダマシ鳥、どんな鳥か。寒苦鳥、我々は寒苦鳥だと
釈尊はおっしゃっている。

騙されて最後臨終に泣かなければならない。
寒苦鳥は一年中雪に覆われたヒマラヤに寒さに苦しむ鳥があると言われる。
非常に愚かな鳥。

これは古今東西の我々を譬えられている。
どうして愚かなのか。
この寒苦鳥は昼になると、夜の寒さを忘れて遊び回り、夜になると後悔する。
夜と昼の気温差がヒマラヤだから激しい。

昼だとポカポカ陽気で、夜を忘れる。
夜になるとどうして昼に巣を作らなかったのかと後悔する。
夜になると、今度はこんな後悔しないと固く決意するそうですが、
昼になると忘れて遊び回ってまた後悔する。これを何度も繰り返す
愚かな鳥があると言われている。

我々の姿です。
皆さんも人間界に生まれる前、地獄を出るときこんな苦しい世界は二度と来るまい、
今度こそは仏法を聞くぞと決意して出てくるそうですが、
人間界に出たら、またわすれる。

喉元過ぎれば熱さ忘れる。
地獄の苦しみを忘れている、人間界では五欲の蜂蜜に騙されてまた後悔する。
馬鹿だった馬鹿だったと後悔する。
これを何十回何百回と繰り返しているのが我々。
騙されてはならない。

人に、自分の心に騙されてはならない。
これからも騙されようとしている。
夢の浮世を日長に思い暮れて泣きやる寒苦鳥

苦しみの充満した世界がこの世です。
苦しみ一杯の儚い短い一生を日長に思ってまだまだ死なないと日長に思っています。
しかしやがて人生の夕暮れ時が来る。
いつまでも太陽は昇っていない。

人生の夕暮れ、これが暮れて泣きやる、昼もすぐに夜になる。
夜の寒さに打ち震えて、遊んでいたことを後悔する。
今なら豊かな生活で遊んでいる、仏法を真剣に聞かない。
暮れて泣きやる、こういう後悔をしてはならない。

決して寒苦鳥になってはならない。
騙されてはならない。
一息切れると同時に、無間地獄に堕ちて八万劫中大苦悩です。
この世の苦しみはひとすくいの水、後生の苦しみは大海と言われる。

桁違いの苦しみの世界が未来に待ちかまえている。
この一大事があるから何を犠牲にしてでも解決しなければならない問題だと教えます。
まず後生の一大事を自覚する。

今日浄土真宗が衰退してしまった原因。
後生の一大事を鮮明に説ききらないからです。
これを明らかに説ききれば真宗が衰退する、
浄土真宗の教えが衰退することは考えられない。
これを説けば必ず驚きを立て、火の中を突破しても
聞き抜かねばならないという思いになる。

それを説かないから葬式仏教法事仏教と衰退を辿らねばならなかった。
仏教は後生の一大事に始まり後生の一大事の解決に終わる。

私の後生の一大事です。
私たちはこの私を抜かしているから。
人の後生。
人や先ではない、我や先だぞ、私が今度に一大事の後生を解決するために仏教を聞くのですよ。


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by sakyamuni | 2017-08-29 12:00 | 蓮如 | Comments(0)

『弥陀をたのめば南无阿弥陀仏の主になるなり。南无阿弥陀仏の主になる
という は、信心を獲ることなり』と云々。又『当流の真実の宝というは南无
阿弥陀仏、是れ一 念の信心なり』と云々。
(蓮如上人御一代記聞書239)

なぜ蓮如上人がこの南無阿弥陀仏が真実の宝である、
ダイヤモンドよりも真珠よりも子宝よりも素晴らしいと仰有ったのか。
御文章五帖目六通に教えておられます。

一念に弥陀をたのみ奉る行者には、無上大利の功徳を与えたまう意を、
『和讃』に 聖人の曰く、
『五濁悪世の有情の選択本願信ずれば、
不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり』。
この『和讃』の心は、『五濁悪世の衆生』というは、一切我等女人、悪人の事 なり。
さればかかる浅ましき一生造悪の凡夫なれども、弥陀如来を一心一向にたの
みまいらせ て、『後生助けたまえ』と申さん者をば、必ず救いましますべき
こと更に疑うべから ず。斯様に弥陀をたのみ申す者には、不可称・不可説・
不可思議の大功徳を与えましま すなり。

『不可称・不可説・不可思議の功徳』ということは、
数限りもなき大功徳のことなり。
この大功徳を、一念に弥陀をたのみ申す我等衆生の廻向しまします故に、過
去・未来・ 現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、等正覚の位なん
どに定まるものなり。

この意をまた『和讃』にいわく、『弥陀の本願信ずべし本願信ずるひとはみ
な、摂取不 捨の利益ゆえ、等正覚にいたるなり』といえり。『摂取不捨』と
いうは、これも一念に弥陀をたのみたてまつる衆生を、光明の中に摂めとりて
信ずる心だにも変らねば捨てたまわずという意なり。

 この他にいろいろの法門どもありと雖も、ただ一念に弥陀をたのむ衆生
は、皆悉く報土に往生すべきこと、ゆめゆめ疑う心あるべからざるものなり。


 ここに大変詳しく蓮如上人が言われている。
弥陀をたのめば、無上大利の功徳を与えたもう。
この上がない、大変な幸せ。
それを阿弥陀仏が与えて下さる。
その心を親鸞聖人は御和讃に、

「五濁悪世の有情の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり」

五濁悪世の有情とは、十方衆生、すべての人。
五濁とは?『末法五濁』末法の時代、五つに濁っている悪い世の中。
五濁って知っている?
『劫濁、見濁、煩悩濁、命濁、衆生濁』

五つに濁っている。阿弥陀経にあったね。
末法五濁あるいは五濁悪世。
阿弥陀経の最後の方です。

能く娑婆国土の五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁
 
劫濁って何だったかな?天変地異。
天地自然の災害だよ。
時代の乱れと言ったら全部そうだから、末法のことをこれは表している。
地震や火山の噴火など。

見濁というのは?『思想の乱れ』そうだね、
煩悩濁『煩悩をかきたてるものがおおくなる』
近頃の雑誌やインターネットを見るとそうだと思う。
どんどん人間バカになっている。
コンビニでもいらない本がたくさんある。

衆生濁とは?争いが多くなる。
戦争などですね。
20世紀は本当に戦争と革命の時代でしたね。
6000万の人が死んだと言われている。

命濁、『命が短くなる』長生きしているんじゃない?
生命力が弱くなる。
医学の進歩によって延命技術があがったから長生きしているように見えるが、
ただ死なないだけだね。

これら五つの濁、五濁。
「五濁悪世の有情の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり」

五濁悪世、この末法の時代の有情の、選択本願信ずれば。
選択本願とは18願です。
そうすると不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり、
これが南無阿弥陀仏の功徳。

不可称不可説不可思議の大功徳。
口で言うこともできない、不可称。
言葉をもって説くこともできない。不可説。
我々凡夫の想像さえもできない、不可思議。
ものすごい大功徳が行者の身にみちる。

信心の行者。行者の身にみちみちる。
全身に満ちあふれる。
喜びに満ちあふれる。信心獲得すれば。
不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり。
その意味を次に説明していられる。
この『和讃』の心は、『五濁悪世の衆生』というは、一切我等女人、悪人の事 なり。
この和讃の心は五濁悪世の衆生とは、凡ての人間のことだ。
死ぬまで悪ばかり作っている凡夫だけれども。

さればかかる浅ましき一生造悪の凡夫なれども、弥陀如来を一心一向にたのみまいらせて、
『後生助けたまえ』と申さん者をば、必ず救いましますべきこと更に疑うべからず。
斯様に弥陀をたのみ申す者には、不可称・不可説・不可思議の大功徳を与えましますなり。

阿弥陀仏が下さるのだ。
『不可称・不可説・不可思議の功徳』ということは、数限りもなき大功徳のことなり。
この大功徳を、一念に弥陀をたのみ申す我等衆生の廻向しまします故に、

廻向ってなんだ。さし向ける与えると言うことです。
誰が誰に与えて下さるの。
阿弥陀仏が我々に与えて下さる。
阿弥陀仏がわれら衆生にさし向けて下さるが故に。

過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
「過去・未来・現在の三世の業障」とは何か。

無明の闇。
遙かな過去からずっと現在までそしてこのまま放置しておけば未来永遠に渡って我々を苦しめる。
三世の業障。
一念でそれがなくなる。消える、やぶれる。
無明の闇が消えてなくなるんだと。

この南無阿弥陀仏を頂いたときに無明の闇がなくなるんだと。
こう仰有っているわけです。そして正定聚の位、等正覚の位に定まる。
正定聚って何かな。『51段』言葉ではね。

何に定まるの。
極楽にいって
いってどうなるの。
一息切れたなら浄土往生、そして弥陀同体の悟りを開くことに定まった人々。
また等正覚。

等正覚の位。これも同じ事。等正覚、正覚は仏の悟りでしょ。
その上に等の字がある。
等しいんだね。等しいと言うことは同じじゃない。
仏に悟りに等しいくらい。
あと一段足りない。死ねば極楽。等しい位を等正覚。

一念で。
こんな不思議なことは又とありませんから、不可称不可説不可思議の大功徳。
いうことできない、説くことできない、想像さえできない。
こう仰有っているね。




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by sakyamuni | 2017-07-26 12:00 | 蓮如 | Comments(0)

御文章とは

御文章は、蓮如上人が大変お忙しい中をぬって、
門徒の方々へ書かれたお手紙であります。
親鸞聖人がたくさんの著作を書かれたのに対して、
蓮如上人の代表的にな著作といえば、この御文章くらいであります。

そのお手紙が「御文章」で5冊の本から成り立っています。
1帖目から4帖目
までと5帖目はどう違うでしょうか。1帖目から4帖目までは、
最後にいつ書いた、というのを書かれてあります。
5帖目はいつ書かれたか分からないものです。

蓮如上人が1帖目の1通を書かれたのは、57歳の御時であります。
今問題になっている4帖目の第15通というのは、
蓮如上人が85歳でお亡くなりになる直前、
4ヶ月前にお書きになられました。

非常に寒い時に書かれています。
11月です。
親鸞聖人の御命日が11月28日です。
当時は21日から28日まで7日間ぶっ通しで報恩講が行われましたので、
お七夜、とか、一七箇日、とかいわれます。
その11月28日に書かれたものです。

ちなみに、御文章の構成というのは
1帖目が15通まで、
2帖目が15通まで
3帖目が13通まで、
4帖目が15通まで、
5帖目が22通まであり、
全部で80通あります。

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by sakyamuni | 2017-07-20 12:00 | 蓮如 | Comments(0)