あなたは殺し屋?

仏教では、すべての人が作っている罪悪を
十に分けて教えておられます。

その中、身体で造る罪は、殺生偸盗邪淫の3つがあります。

殺生とは生き物を殺す罪。
これについては3通りの殺生があると教えられます。

自殺と他殺と随喜同業です。

自殺は
自分で生き物を殺す。

他殺は、他人に頼んで殺す。

随喜同業は、他人が殺生しているのを見て
楽しむ心があれば同罪ということです。
ですから、スーパーで買ってきた肉や魚を食べて美味しいと思ったら
殺生罪です。

そして、殺生の罪を造った人は地獄に堕ちると説かれています。
ところが私たちは、食べるためといって
幾億兆の生き物を殺しているかわかりません。

そういうが、殺生罪です。

みんなこれ作っていますから。
男性も女性もこれみんなです。
殺し屋です。


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by sakyamuni | 2018-10-04 12:00 | Comments(0)

欲望怒り愚痴で死んで行く六道輪廻の中で
真実を求められたのが求法太子でした。

修行者が誰か真実を聞きたいものはいないか
という問いかけに求法太子は答え、
真実が聞けるのならば財産や地位や名誉はいりません
といっています。

ということは、
そういうものは生きる目的ではないということです。
もしそれらのものが生きる目的ならば
いりませんということはいえません。

そういう求法太子に穴を掘り、
まきをくべ火をつけて飛びこめ
と修行者は言いました。

そこで周りの人達が止めに入るわけですが、
これは私達が仏法を求めていくと
必ず反対が入る事があると言う事です。

家族が、また仏教を聞きに行くの、
この間行ったばかりじゃない、
といって反対をしてくる、
ということが起きてきます。

仏法を求めていなかった時にはなかったことですが、
仏法を求めていくと必ず反対が起きてきます。

その中、聞き抜くことによって
諸行無常不安な世の中で、本当の幸せになれます。
虚無感に覆われた人生が、
生きる意味に満ちた人生になります。


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by sakyamuni | 2018-05-11 12:00 | Comments(0)

仏教で愛欲とは?

仏教「愛欲」という言葉があります。

「愛欲」の「愛」は、愛したい、愛されたいという欲です。
私は子供の時、小学校4年のときの担任から、
人とは支えあって生きているものだ
と教えてもらいました。

人間というのは一人じゃ生きていけません。
ひとりぼっちじゃさびしくて。
自分を支えてくれる人、またそういう人に
大事にされたいと思います。

「愛欲」の「欲」とは欲する、ということです。
欲するとは欲しがっているということです。

「あーしてほしい」
「こーしてほしい」
こういう欲望、これを欲といいます。

食べるものがもっと欲しい、
お金が欲しい。
愛がほしい。

歌にも
「♪愛をください、WOWWOHW愛をください、ZOO♪」
とあります。

愛に飢えています。
こういう飢えている男を、
「あいうえおとこ」
といいます。

でも考えてみると、全人類が愛に飢えています。
だからお経には、
「人世間、愛欲の中にあり」
と説かれています。


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by sakyamuni | 2018-02-03 12:00 | Comments(0)

あなたこれもちょっと余談だけど
野口悠紀夫って人知っている人。

『超勉強法』さすが勉強している人は言うことが違う。
野口さんは一橋大学の教授を経て東大の教授になった人ですが
超整理法、超パソコン術、超のつく本をいっぱい出して超有名になりました。

一世を風靡する流行語にもなった超。
その一番最初にあった超整理法時間編。
これから試験があるでしょ。

大学生の例で。
大学生っていつから試験始まるの?
2月の10日くらいから?
ちゃんと計画されていますね。
大学の人。
いつからなの。
1月25日から?

まもなくですね。
いつから?ということで本日只今をもって試験にかける自覚を高めていただきたい。
例えば試験前に何をどれだけ勉強するか
あるいはバイト
あるいは仏教講座に行くとか。

人間はやることってその人それぞれ色々ある。
何か一つのことだけやっていればいいとはならない。
時間は24時間共通にあるわけだけど
ボーっとしている内に24時間過ぎた人。

またどうしよう、あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ、
とそわそわしているうちに1日が過ぎ
一年が過ぎという人があります。

限られた時間の中に生きているのでどうしたら有効な時間の活用ができるか。

タイムマネジメント。
多くの時間活用の本が共通に指摘しているのは人生の目的を把握せよということ。
まず人生の目的を把握せよ結局あなたが人生の凡てを使って
何をしたらいいのかハッキリさせてより有効な時間の使い方をしなさいよと。

何かを確実にするにはあんまり大事でないのを切るしかないから。
目的を果たすにはこれははずせないと大事なものとそうでないものを区別する。
大事じゃないものは切るしかない。
試験にも言えるよ。

あれもこれもといってみんな駄目になる人いますから。
王監督のダイエーがどうして勝ったかというと捨て試合が巧い。
負けるときは10−0とか。

つまり目的がしっかりしていると言うことは大事なものとそうでないものを
見分けることができるから、無駄なものはないか無理はないかと無駄を無くすには
どのように目的を設定しているかこれが揺らいだら駄目。

人生の目的を把握せよ。
この本がここにないのは残念だけど、その後読んでみると、
本書ではこの問題は扱わないことにすると結局書いていない。
大事よ大事よこれ大事、と言ったはいいけど、
結局書いていないと言う点から言えば五木寛之の『人生の目的』という本と全く同じ。


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by sakyamuni | 2017-12-22 12:00 | Comments(0)

生きる意味と阿弥陀如来

親鸞聖人が明らかにせられた生きる意味の答えは、揺るぎない確信で
簡潔に述べられたのが教行信証の冒頭のお言葉です。
人生の目的は、心の闇を破って絶対の幸福の身になることだと
明らかなされています。

人生の目的とは言いますが、
本当は多生の目的です。
多生永劫の目的です。

人生の目的とは未来永劫の幸福の身になることでして、
趣味や生きがいとは違います。

人は暗く辛い人生を趣味や生きがいともってやっとやっと生きています。
金、財、名誉、地位・・・。
人生の目的は?
と聞かれると趣味や生きがいを答える人いますが、
「そんなものとは違う!!」
と親鸞聖人は言われています。

趣味や生きがいの喜びはほんのしばらくの事です。
「今までで一番うれしかったことは?」
なかなか答えられません。
大学に受かった喜びと言ってももう忘れています。
覚えている人はそうとう記憶力のよい人です。

子供が生まれるということは母親、父親にとって大変な喜びです。
しかしその喜びはつつきません。
続くなら世間で起こっているような家庭悲劇は起こりません。
ほんのしばらくの喜びでしかありません。
時間が立つとほんのわずかな記憶が残るのみです。

「寝る時が一番しあわせかな」
ある意味あってます、
しかしこれが人生の目的ですか。
ほんのしばらくの幸せです。

人生の目的を達成せられた親鸞聖人の喜びは違うのです。
教行信証は喜びに始まり喜びで終わっています。
何に比べることもできない喜びです。

「愚禿釈の親鸞、よろこばしきかなや。
なんの間違いか、毛頭遇えぬことに、いま遇えたのだ。
絶対聞けぬことが、いま聞けたのだ。
釈迦が、どんなにすごい弥陀の誓願を説かれていても、
伝える人がなかったら、無明の闇の晴れることはなかったであろう。
ひろく仏法は伝えられているが、弥陀の誓願不思議を説く人は稀である。
その稀有な、印度・中国・日本の高僧方の教導にあえたのだ。
この幸せ、何に比べられようか。
ただ知らされるのは、阿弥陀如来の深いご恩である。
なんとか伝えることはできないものか」

未来永遠の幸せにいかされたその喜びを伝えずにはおれない。
教行信証を書かれた目的は飾っておくことでないです。
多くの人に読んで貰いたい、何とか伝えたい。
その思いで書き始められたのが教行信証です。
何とかこの本当の生きる意味を知ってもらいたい。

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by sakyamuni | 2017-12-20 12:00 | Comments(0)

救いは近いか遠いか

仏教を聞いて行くと、心はどのように変わって行くのでしょうか?

聞けば聞くほど段々助からない自分が見えてきます。
始めの内はちょっと頑張れば信心決定できるように思っていたが
聞けば聞くほど簡単ではないと分かってきます。
段々道が遠ざかっているように感じます。
本当は近付いているのだが求めるほど遠ざかっている感じがします。
ひょっとしたら信心決定できないんじゃないかという気持ちになります。

遠き道振り返り見れば近き道

これは信心決定すれば分かります。
求道すればするほど、遠そうだ、まだまだ時間がかかりそうだと思います。
しかし信心決定すれば、近き道です。
これがハッキリした体験です。
近き道と知らされます。
こんな私が救われたのだから、あなたも必ず救われます。
こんな易しいことはありません。
世の中でこんな易しいことはないのです。
これは阿弥陀仏の力で救われたので、無条件の救いだったと躍り上がって喜ばずにおれません。
親鸞聖人は教行信証に信心決定は難しいぞと言う御文がいっぱいあります。
私たちはあまり聞くと、難しいんですか、じゃあやめさせて貰いますとなります。
それで蓮如上人の御文章、これを裏側から、信心決定した体験から。
あら心得やすの安心や、あらいきやすの浄土や
とおっしゃっています。
間違いなく極楽浄土往生できるぞ、こんな易しいことはないぞ。
ウソじゃないです。
両方とも本当です。
真実の自己が知らされれば自分の力では絶対に信心決定できないことが知らされます。
難中の難。

易しい中に易しい。
こんな易しいことはなかったと知らされるから、ただじゃったと喜ばずにおれません。
どちらも本当です。
こう言っても分からないかも知れませんが。
これが二種深信です。

両方本当です。
蓮如上人は救われた世界からおっしゃっている。
相手の心を見て、頑張ろうよ。
言い方が違うだけ親鸞聖人蓮如上人、同じ事をおっしゃっています。
大無量寿経には
易往而無人
とあります。
極楽浄土はゆきやすいけれども人無し
とおっしゃっています。

みな仏法と御縁があっても極難信です。
信心決定が難しい、これを知るはまれです。
ここまで求めぬく人が多くない。
浄土真宗でもほとんど誰もありません。

ここまで求めぬくには命がけです。

求道は遊びではありません。真剣です。
一人一人が何としても求めぬくという気持ち持たなければなりません。
教えの通り実行すればどんな人も必ず決勝点まで進めるようになっています。


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by sakyamuni | 2017-12-11 12:00 | Comments(0)

蓮如上人が一代で浄土真宗を再興された。
蓮如上人が法主になられたとき、本願寺は弱小教団。
報恩講午前中の参詣者6名。
当時の資料「さびさびとしておわします」。
ところが当時仏光派という浄土真宗の一派。
ものすごい賑わい。
当時本願寺派は本当に小さかった。
蓮如上人は全力で布教され、御文章を書かれた。
それによって全国津々浦々に伝わった。
だから浄土真宗が今日あるのはまったく蓮如上人の力といってもいいすぎではない。
御文章の力。

それの現代版となれば、というお気持ち。
最近はマンガで育つ。
アニメなら子供も見る。
子供が見ると親が見る。
みんなに親鸞聖人の教えを浸透することができる。

なんとか親鸞聖人の教えを正しくお伝えしたい。

法戦とは真実を明らかにする活動。
親鸞聖人自らがその指揮をとってくださる。
天皇の権力にもそれが正義に反する者ならば徹底的に闘われた。
日本中の坊主どもが全く仏法にくらい。
儒教の学者、なにが正でなにが邪かわきまえていない。
末法の僧侶も在家の人も、天台宗の伝教、真言宗の空海、日蓮宗の日蓮、
みんな自性唯心に沈んでいる。
自性唯心とは?

迷った娑婆から真実の浄土へ行くのが往生浄土なのに、
それを知らないから阿弥陀如来や浄土といっても自分の心だと思っている。
迷ったものからは迷ったものしか出てこない。
そういうものが弥陀や浄土ならそれらも迷っている。
哲学者でも思想家でもみんなそう言う考え方。
聖道仏教はみんなそう。
自力の信心。
それを徹底的に破られた方が親鸞聖人。

ところが浄土門内の人でさえも、いまだ自力の心が廃っていない。
だから如来二種の回向を未だ知らない。

21世紀は多くの人に親鸞聖人の教えを知っていただく時代にしたい。


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by sakyamuni | 2017-11-02 12:00 | Comments(0)

発生源

親鸞聖人は
「詮ずる所、愚身が信心におきてはかくの如し」
絶対に変わらない、弘誓の仏地にたっておられる。
それが、他力の信心、真実の信心、正しい信心。
だからその信心を明らかにされたものを「正信偈」といわれる。
「あなた、この親鸞と同じ正しい信心になってください」

これが正しい信心だが、ところが、
そんな真実の信心を知らないが故に、
間違った信心にはまってしまう人がいる。
一体なぜ変な宗教にはまってしまうのか。

難度海からの救出の叫びは充満している。
薬物や秘儀、物理的、人工的に、てっとり早く助かろうとするあせりが、
外道、邪教、異安心の発生源であることを、
オウムなど新興宗教の事件は露出したと言える。
親鸞聖人の徹底砕破されたこと、無論である。

外道や邪教や異安心はどこから生まれてくるのかというと、
何かにすがりつきたい、
それが難度海からの救出の叫び。
なにか人工的に安らぎを得ようとする。
オウムのイニシエーションというのがあったね。
結局、薬物や秘儀なんかで助かろうとする。
手っ取り早く、なにかにすがって助かろうとする
あせりが外道や異安心の発生源。
それは親鸞聖人徹底砕破された。

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by sakyamuni | 2017-10-30 12:00 | Comments(0)

市民病院で毒薬を間違えて投与されて亡くなったという事件があった。
病院も信用できない。
医療ミス相次ぐ。
医者に殺される。

「明日ありと 思う心の 仇桜
  夜半に嵐の 吹かぬものかは」
明日あると思う心、それは仇桜だ。
「仇桜」とは仇ではなく、必ずその心が裏切られるという事。
今を盛りと咲く花も明日は見れないことある。

明日も生きておれるというのは迷った心。
だからこそ私たちは死んだらどうなるのかはっきりさせねばならない。
最も大切なことになる。

それを知っている者を智者と言われる。
それ八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす。
たとい一文不知の尼入道なりというとも、
後世を知るを智者とすと言えり。(御文章五帖)

八万の法蔵を知る」とは百科事典丸暗記しているような人。
パソコンに入っていると言う人もいるかもしれないが
それにしたって水に落とせば一発でだめになる。

そんな人でも後世を知らないひとは愚者。
死んだらどこに生まれるか分からない人、
死後どうなるかハッキリしていない人、
心の闇が破れていないひとは愚者。

文字の縦横も分からない人でも後生知っている人は智者。
それは大切なことを知っているから。
沢山知っている人より、最も大切なこと、確実な未来である死後をはっきり知っている人が智恵ある人。

智慧があるとは先の読める人のこと。
経済に関して智慧ある人は来年の株や市場が読める人、
囲碁や将棋の強い人は相手の手が読める、
髪を切る人でもそう、智慧がいる。
ところが自分の人生、魂の行く先を知る者がいない。
自分の事だから一番大事、50年もすれば確実にやってくる。
将棋や経済はやってなくたって生きていける。
死んでいくのは間違いなく自分。
なぜその問題をはっきりさせないのか。
死んだら死んだときだ、とあきらめている。

それを明らかにするのが仏教



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by sakyamuni | 2017-10-26 12:00 | Comments(0)

良寛の辞世

良寛に辞世あるかと人問わば
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

良寛に辞世の句はないかと聞かれたら禅宗の僧侶でありながら、
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏。
といった。

だから高僧といわれている人でも自力のお粗末さを知らされて
やはり阿弥陀如来の救いを求めなければ救われないと知らされる。
この世の最後。
辞世は南無阿弥陀仏。

禅宗の良寛に最後の言葉は何ですかと質問したときに南無阿弥陀仏、
これを読んだら救われているような感じがしますが
実際はどうかわかりませんが。

本人にしか信心決定できたかどうかは分かりませんから。
だからあの人が信心決定しているかどうかは推量しかできない。
断定はできない。
思いはあるよ。
あの人はしているに違いない。
まだだろうな、とか。
しかし断定はできない。
あくまで推測。
本人と阿弥陀如来しか分かりません。
また良寛にはこういう歌がある。
辞世の句、実際残っている。


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by sakyamuni | 2017-10-24 12:00 | Comments(0)