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昔、子門真人
「泳げたいやきくん」
太古の昔は、開けポンキッキーズでやっていたけど。
最近はパラパラでもやってるみたい。

これ「毎日毎日僕らは鉄板の、上で焼かれていよんなっちゃうよー」

子供向けの番組でやってた歌なんだけど、
ところが年末の忘年会で、
サラリーマンがネクタイ頭にまいて熱唱している。

毎日毎日鉄板で焼かれてやんなっちゃうよーって
これ仕事は毎日大変
やりたいのかっていうとそうじゃない
海に飛び込みたい
でもやめたら食っていけない

変わらない日常にウンザリしている。

変えたいのに変らない日常
たまらないって人が多いってこと
しゃあその原因は自分にあるのか、外にあるのか
外って人は、周囲の環境とか、に原因があると思っているんだね。
例えば、大学生なら、
毎日どうしてこんなにつまらない授業ができるんだ、っていうぐらい
つまらない授業をするからだとか。

社会人でも、自分は何でこんな仕事についてしまったんだろう。
毎日が同じことの繰り返しだ。
そして、何かやりたいことは別にあるに違いない。
こう思って、転職したり、起業したりします。

ところが、それでも同じことの繰り返しになって、
またやりたいことが別にあるに違いない。
それの繰り返しのうちに、
何となく虚しい
そんな人生があっという間に過ぎて行きます。
光陰矢のごとしです。

早く自分の内側にある原因を探し当てて、
本当の生きる意味を知らなければならないんです。



# by sakyamuni | 2019-05-20 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

アインシュタインの提案

今知識ばっかりあって知恵がないと結果的に人間幸せになれませんよ
という例に、科学があります。

アインシュタインは
宗教なき科学は不具であり、科学なき宗教は盲目である
と言っている。

つまり、アインシュタインは知識の代表として科学を言い、
智慧の代表として宗教をいっているわけだ。
科学だけ発達しても宗教がなかったら本当にその科学を生かすことができないよ。
科学のない宗教は、盲信しているだけで駄目だよ。

E=MC2頭痛くなるね、相対性理論。

これをどう使うかは人間、人間の心で決まります。
通訳すると、科学を幸せのために使うならいいけど、
人殺しの原爆にもなる、ということは科学を生かすも殺すも人間だよ。
それ自体でもでもない。

宗教っていうのは、要するに分かりやすくいえば科学技術をどう使ったら幸せになるのか、
どうすればいいかということを知っていなければ、駄目ですよ、と。

ところが世の中には幸せになるには如何すればいいのか分からず、
要するに科学発達して頭よければいいと思っている。
それは、愚者。




# by sakyamuni | 2019-05-16 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

するめブログ

このブログでは、いったいなんのために生きるのか、っていう、
こういう大事な、そしてスケールの大きなテーマに取り組んでいる。

だからこのブログを訪れる人には、
そんな目が三つあるとか、口が耳まで裂けているとか、
そんな人はいないはずです。

どこにでもいる、普通のありふれた人達ですよね。
たまに普通でない人もいるけど、
だけどこのブログは、付き合えば付き合うほど味が出てくるというか、
そういう、するめみたいなブログなんだ。
だからするめブログと呼んでいる。
または、あたりめ。

だから意味がわかってくると、すばらしい感動があるんだね。
つきあえばつきあうほど味が出てきて、視野が広まる、幅ができる、役に立つ。
そういうブログなんだね。

だから最初は、難しいと感じることもあるかも知れない。
最初は、何だかよく分からないなあと言うこともあるかも知れない。
こんなにすばらしいことが言われていたのかという
一生もの感動が得られるんだよ。
後悔のない人生になる。
まあ論より証拠でまずは続けて読んでもらいたいんだね。



# by sakyamuni | 2019-05-12 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

迷うことなく自分の道を進んでゆくということは、なかなか難しい。

最近、読んだ本の中に、おけネズミの法則というものがありました。
ある大きな桶の中に、ネズミが一匹、おっこっちゃったんだって。

名前をチュータローっていいます。
そのチュータローが、何とかして桶から抜け出したい、ジャンプする。
ところが、どうがんばっても、おけが深くて、とても無理だった。
あっちへぴょーんだめ。
こっちへぴょーんだめ。
そこでチュータロウは今度は、桶の側をかじって、外へ出ようとする。
これをガリガリ亡者という(笑)。

我を忘れて、ガリガリかじり続けた。
ところが桶の側の木が厚くて、難くて食い破れそうもない。
慌てたチュータロウは、今度は場所を変えてガリガリかじり続けた。
ところがそこもだめ。

チュータロウは、また場所を変えてガリガリかじり続けた。
こっちがりがり、あっちがりがり。
こういう感じで、あっちこっち一生懸命食い破ろうとするんだけれども、
さんざん報われることのない努力をしたねずみは、
とうとう明け方近くに、心身共に疲れ果てて、死んじゃったんだって。
かわいそうだよねー。

こっちがりがり、あっちがりがり。
さんざんあっちこっちかじり続けたのに、一カ所として外まで届くことなく、
さんざん報われることのない努力をして、死んじゃったんだって。
これチュータロウの立場で言えばね。
まず歯が欠けただろう、総入れ歯にしなければならないかも。
しかし、一番イヤだったのは、やってもやってもうまくいかない、
これは精神的に追い込まれるよ。
色んな所をかじってる。
ところがことごとくダメなんだ。
これは精神的に疲れると思うね。
そしてむなしく、力尽き果てて死んじゃった。
文字通り、身も心も力尽きた、疲れ果てたと言うこと。
もし、このチュータローが、かじり始めた箇所を、
最後までずっとかじり続けていたなら、
桶の側まで通り抜ける穴ができたのに、
もし、最初からずっと同じ所をかじり続けていたら、もしずーっと、
一点に集中して、
オレここかじるんだ、あっちもこっちもかじらん、こうやっていたなら、
通り抜ける穴が空いた、そうしたらチュータローも救われた。
結局、チュータローが救われなかったのは、あっちがりがり、こっちがりがり、
身も心も歯もぼろぼろ、思い出ぽろぽろ、こんな感じで、だめになっちゃったんだね。
世間には、このネズミのことを笑うことができない人が多いと言われている。

たとえば、今ね、フリーターとか、プータローとか、チュータローとか
まあこれが言いたかったわけね。

まあとにかく、こういった人がいるんだってね。
それはね、転々と職を変える人、
1つの職をずっと続けることができない人。
転職に次ぐ転職。
気に入らないがあると、すぐにやめる。
つまらないと、すぐに飽きる。
ムカツクと、すぐにキレル。
だから何をやっても、長続きしない。
だからせっかく、大学出たのにね、
たとえばある工業大学は就職率90%以上だって聞いて、
はるばる遠くからやって来る人だっているワケよ。

たしかに就職率は高いよ、
でも就職したところにズーッといるかは問題。
だから、すぐにやめちゃう。
だからアルバイトして食いつなぐ。
一般には、転々と職を変えるって言う人は、社会的な信用がなく、
意志薄弱、薄志弱行と、言われるんだって。
あまり社会的な信用が得られないそうだ。

そうすると、お父さんとか、お母さんも、自分の子供が、
あっちブラブラ、こっちブラブラしてて、
中々決まった職に就かないとなると、大変に心配される、
こう言われている。

だから、早く本当の生きる目的を見つけて、
それに向かってまっしぐらに進んで行くのが
いいわけ。

また、目的が分からなければ手段である生き方も分からない。
生き方も、自分の強みを発見して、
周りの皆さんに喜ばれるような生き方がいいわけ。
それでこそ生きる意味がある。

その本当の生きる目的は、仏教に教えられているので
まずそれを知ることが大切です。



# by sakyamuni | 2019-05-09 12:00 | 仏教 | Comments(0)

親鸞聖人のお言葉の中に親鸞聖人自身が非僧非俗と仰有ったお言葉が、今日
は、僕が話している時は書かないで、黒板になるべく残しますから、
親鸞聖人のお言葉の中に非僧非俗という言葉があります。
ご自身のことを仰有ったことです。

親鸞聖人は、僧に非ずそして俗に非ず、
聖人がご自身のことを仰有ったことで、有名です。
親鸞聖人の主著『教行信証』後序に出ています。
教行信証』後序を最初から読むとこうなります。

ひそかにおもんみれば、聖道諸教は行証久しく廃れ、浄土真宗は証道今盛んなり。
然るに諸寺の釈門、に昏くして、真仮の門戸を知らず、
洛都の儒林行に迷うて、邪正の道路を弁うることなし。
ここを以って、興福寺の学徒、太政天皇も今上・・・の聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。
主上臣下法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。
これによりて、真宗興隆の源空法師、ならびに門徒数輩、
罪科を考えず、猥がわしく死罪に坐す。
或いは僧の儀を改め、姓名を賜うて遠流に処す。
予はその一人なり。
しかれば已に僧にあらず俗にあらず
この故に「禿」の字を以って姓と為す。

と書かれています。
すると僧に非ず俗に非ずというお言葉の直前に
『主上臣下、法に背き義に違し忿を為し怨を結ぶ』
というお言葉があって、
『これによりて、真宗興隆の源空法師、
ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥がわしく死罪に坐す。
或いは僧の儀を改め、姓名を賜うて遠流に処す。
予はその一人なり。
しかれば已に僧にあらず俗にあらず、
この故に「禿」の字を以って姓と為す』
このように書かれています。

主上」というのは天皇のこと。
この天皇は当時最高の権力者。
そして、最高権力を持った天皇は、外道を信じていたのです。
信心をしていた。

ちなみに、神信心をしている、
国家神道においては天皇と言うのは現人神と言いまして、
神が、人の形をとって現れたものが天皇であると、
こう位置付けています。
これを「アラー人だったの神様は」と覚えます。

そういった外道を信じていた最高権力者天皇を
親鸞聖人、主上といわれています。
それに対して臣下とは家来、大臣のことです。
それらのものは、仏法に背いたものであり、
そして正義を違えたもので、
そして、真実の仏教を伝える僧、
即ち法然上人や、法然上人のお弟子であった親鸞聖人など、
真実の仏法を伝える僧侶に対して、
怒りをなして、怨を結んだ者達である、
ということです。





# by sakyamuni | 2019-05-06 12:00 | 浄土真宗 | Comments(0)