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法然上人と親鸞聖人の出会いと別れ

1175年、法然上人は、浄土宗を開かれると、爆発的に広まっていきました。
がこの比叡山や興福寺から徹底的に攻撃を受けられます。
一つ目が、団結した日本中の仏教学者たちから大原に呼び出され、法論を挑まれます。
これを大原問答といいます。
1186年です。
ところが、法然上人は、一人で打ち破られてしまいました。

その後1201年、
親鸞聖人は法然上人の弟子になっておられます。

この時、親鸞聖人は29歳。
29歳の時、比叡山を降りられました。

つまりこれまで9歳から29歳まで20年間、
親鸞聖人もまた法然上人と同じく比叡山で勉強しておられました。

だけどこの比叡山に本当の仏教はないと気づかれ、
法然上人は27年比叡山におられたが、
山をおりられました。

親鸞聖人は20年で山を降りられました。
おりられてどこへゆかれたでしょうか。

本当の仏教を私に教えてくれる方は
おられないかと探されたが比叡山にはおられなかったので
京都の町におりて探しておられた。

救いを求めて京都の町を彷徨われるうち、
親鸞聖人は法然上人と出会われました。

その時法然上人とであい、
こんな凄い方がおられたとすぐにお弟子になって
それ以降法然上人と親鸞聖人といえば、
師匠と弟子という関係だけど、
どちらも今日の日本の歴史に残る二大双璧です。

たとえが悪いですがババと猪木のタッグマッチのようなもの
といえばわかりやすい人もいるかもしれません。
すごい方が2人揃われました。

親鸞聖人が法然上人のお弟子になられて
なお法然上人を中心とする吉水の人たちが、
当時は浄土宗といわず吉水の人たちといわれていました。
吉水の人たちが今日の浄土宗となっていきました。

法然上人、親鸞聖人が中心となって大活躍せられた。
その次の年1202年、比叡山と興福寺がぶつかって
喧嘩しとったが我々はそんなことしとるひまはない。
その間に信者全部法然にとられるぞと
1205年6年7年と立て続けに事件を起こしました。

そして最後その事件が収束するのが1207年です。
親鸞聖人35歳、法然上人75歳のときに吉水解散になります。

一向専念無量寿仏の布教禁止。
4人死刑。
法然上人土佐へ流罪。他7人流刑になったのです。
その中に親鸞聖人もあり、新潟県へ流刑にあわれました。
法然上人と親鸞聖人は、西と東にばらばらにひきさかれたのです。

仏教を勉強する場合は、こういうことを知っておいて下さい。
日本史の教科書では簡単にしか書いてないかもしれないが
副読本では詳しく書いているものもあります。


by sakyamuni | 2019-06-25 18:00 | 善知識