死に様と死後どうなるかは関係あるか


私の母は平生大変仏法を喜んで私達にも真剣な聴聞を勧めてくれた人ですが、
ガンで大変苦しんで死んだことが案ぜられてなりません。
世間では苦しまず眠るように息絶えると大往生したといわれますが、
母は極楽へ往生しているのでしょうか。

私も親戚や知人が亡くなった時、その御家族にお悔みの言葉を述べますと、
きまったように故人の臨終の安らかであったことが強調されます。
「何の苦しみもせずに死にました」
「眠るように息絶えました」
「微笑を浮べて死にました」
とか、みんな静かな臨終であったことを繰り返されますが、
私はそんなことに余り興味も関心もありませんので、
またかと聞き流しています。

これは真実の仏法を知らされているからです。
ところが世間では臨終の相を大変気にします。
創価学会などの邪教はそれにつけこんで、
故人の後生をあれこれ問題にします。

特に肉親の臨終の相には一喜一憂するのは決して貴方だけではないでしょう。
しかし真実は臨終の有様と後生とは必然的関係はありません。
いくら信心獲得して浄土往生間違いない身になっておりましても、
死にたい気持は毛頭ありませんし、病気になれば苦しいし、心細くもなります。
親鸞聖人は、
「悲しきかな愚禿鸞愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、
定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快まず、恥づべし傷むべし」(教行信証)
と悲嘆なされています。
『歎異鈔』九章には、
浄土へ急ぎまひりたき心のなくて、いささか所労のこともあれば死なんずるやらんと心ぼそくおぼゆる……」
と述懐なされたと伝えられています。
死にたい心はさらさらないし、ちょっと病気にでもなると、
今度は死ぬのではなかろうかと心細くなってくる、
この世は苦海といいながら執着は決して離れない、
この親鸞の悪性はなんということかと悲嘆され、
こんな親鸞が無碍の世界に救い摂られたとは不可思議の弥陀の願力であったなあと、
感泣慶喜なされております。

蓮如上人も
「法然上人の御詞に曰く『浄土を願う行人は病患をえて偏にこれを楽しむ』
とこそ仰せられたり。
然れども、強ちに病患をよろこぶ心更に以って起らず、浅間しき身なり、
慚づべし悲しむべきものか」(御文章四帖十三通)
とありますように、信心獲得しても決して死にたくはないのですから、
死は苦しいことに違いはありません。
覚如上人は
「一切衆生のありさま過去の業因まちまちなり。また死の縁無量なり、
病におかされて死する者もあり、
剣にあたり死する者もあり、
水に溺れて死する者もあり、
火に焼けて死する者あり、
−乃至−寝死する者もあり、
酒狂して死するたぐひあり、
これみな先世の業因なり。更にのがるべきにあらず」(執持鈔)
「もし怨敵の為に害せられば、その一刹那に凡夫として思うところ
怨結のほ何ぞ他念あらん」(口伝鈔)
と道破されていますように、信、不信ともに死の縁無量ですから、
お互いどんな死に方をするやら分かりません。
信心獲得していなくても、安らかそうな死に方(医療の安楽死など)を
する人もありましょうし、信後の人でも肉体の苦しい死に方なら苦しまれるでしょう。
問題は臨終の相ではなく平生に後生の一大事が明らかに解決できているか、どうかです。
平生に信心徹到しておれば臨終正念であろうが、苦しみ狂乱しようが、
枯木のように分別なく死のうが、
一遍の念仏も称えずに死のうが浄土往生は間違いありません。
覚如上人は次のようにご教示になっています。
「然れば平生の一念によりて往生の得否は定れるものなり、
平生の時不定のおもひに住せばかなうべからず、
平生の時善知識の言葉の下に帰命の一念発得せば、
その時をもって娑婆の終り臨終と思うべし」(執持鈔)
要は自力心の臨終(死)が体験されているか否かが
後生未来を決定するのです。
貴方のお母さんの信心が真実ならば臨終のことは
一切案ぜられる必要はありません。
臨終のことが問題になる間は真実信心が徹到していない証拠です。
これを御縁につまらん臨終の心配をせず、
どんな臨終が来ても問題にならない身になる為に聴聞に身を沈め、
早く後生の一大事の解決を急がねばなりません。
そこまで真剣に求め切って下さい。

決まって安らかな臨終であったことを強調される。
紋切り型の言葉です。
みんながいいます。
それだけ、みんなの常識になっていますね。

「ちょっと見ておくれやす、この安らかな寝顔を」
といって顔を見せる。
ガンなんかで死ぬと、苦しみながら死んでいきますから、
葬儀屋が笑顔を作らせるんです。
白目なんかむいていると、地獄に落ちそうな気がするから。

こんな会話は、皆さんもすることがあるでしょう。
そういう臨終のすがたと往生を問題にするのが、
世間の常識になっていますね。
眠るように死んだら極楽にいっているとか。
ところが、真実の仏法には、臨終のすがたと
後生は全く関係ないんだと教えられます。

親鸞聖人が世間の誤りを破っておられます。
創価学会などの邪教はこういうことを非常に問題にする。
死んでいくときはにっこり笑って、後は頼むといって死んでいったとか。
死に様を非常に問題にするんですね。
そういうことが、気になって、そこにつけ込むんでしょう。

そんなことなどばかばかしいと思いますが、
肉親の臨終に際して、こういうことは感情的に起きてくると思います。
しかし真実は、臨終の有様と後生とは全く関係ありません。

それどころか最後には、臨終の有様と死んだ後を結びつけて考えるのは
真実信心徹到していない証拠であると仰っています。

なぜそうなるのかという事について、ここで教えて下さっています。
私達も、死を目の前にしたら恐ろしくなりますね。
それは信心獲得しても変わらないと仰っていますね。
死が怖いのは理屈の問題でないですね。
ときどき死が怖くないという人がいますけど、
そういう人は二階のベランダから逆さに吊してあげるとかしてあげればいいです。
そこでもう一度同じせりふが言えるか。

九州に、仙涯という有名な禅僧がいて、辞世の言葉を書いてもらったと
ころが「死にともない、死にともない」と書いたと。
これでは様にならないと、もう一筆書いてもらったところが
「ほんまに、ほんまに」と書いたと言います。
正直ですね。

よくおばあさんが「死にたくなった」とかいいますけど、言葉だけなんですね。
死刑囚は処刑台までの13階段を自分では上れないそうですね。
看守に両脇をかかえられて、便を垂れ流しながら登っていくそうですね。

実際に、人間一度は死ぬんだと思っていても、いよいよ自分が死ぬとなったら、
全身の細胞が死にたくないと叫ぶそうです。
私達にもそんなときが必ず来ますね。
自殺するのは、一時の激情ですね。
ちょうどちゃぶ台をひっくり返すようなもので、あとで片づけるのは自分なのに、
後先考えずにやってしまう。
だから、落ちている最中に後悔するといわれます。

自殺の原因のトップは病苦だそうです。
だんだんと病魔に蝕まれて死んで行くよりは、
さっさと死にたいという衝動に駆られるそうですね。
死が余りにも怖くて、そのときが平常心で向かえられそうにないから、
今死にたいと、こう思うこともあるそうです。

こういうのは本質的な感情で、
信心獲得していても変わらないと仰っていますね。
感情とか煩悩は全く変わりません。

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by sakyamuni | 2017-09-11 13:00 | 仏教 | Comments(0)