人気ブログランキング | 話題のタグを見る

蓮如上人は大衆に飛び込んでいかれた

 仰せに、「身をすてて平座にてみなと同座するは、
聖人の仰せにも、『四海の信心の人はみな兄弟』と仰せられたれば、我もその御言葉の如くなり。
また『同座をもしてあらば、不審なることをも問えかし、信をよくとれかし』と、願うばかりなり」
と仰せられ候なり。(御一代記聞書39)

昔は、高座。
高いところですわって説法する人が多かった。
いかにも俺は一段高いんだ。
ところが蓮如上人は平座に降りられた。
そんなところで説法する身分ではない。
みんなとおなじところで説法された。これを平座。

このばあい身を捨ててとはご自分の立場を捨てて。
本願寺派八代目という立場からいえば、高いところでも誰も文句を言わない。
けれど蓮如上人はそういう立場肩書きをすてて、みんなと一緒のところで説法された。
それは親鸞聖人も仰っている。
四海、世界中の、ということ。
当時は余り世界という概
念無かったかも知れないけれども。世の中のということ。

「信心の人は皆兄弟」
この世の中の信心決定した人は皆兄弟。
そう親鸞聖人仰っているんだから、この蓮如もおなじようにしているんだ。

高いところにいると分からないことがあってもなかなか尋ねにくいでしょう。
だから
『同座をもしてあらば、不審なることをも問えかし、信をよくとれかし』と、願うばかりなり
同じところで話しますから、なんでも聞いてください。
はやく信心決定してください、と願うばかりです。

蓮如上人は大衆の中に飛び込んで行かれた人。
相手が農民だろうが、武士だおるが貴族だろうが、天皇だろうが差別されなかった人。
みんな兄弟。当時は講といって、人々の集まりが村々にあった。
そこにはいっていかれて、話をして行かれた。
そういう蓮如上人のお気持ちは、親鸞聖人でさえ、皆兄弟とおっしゃるんだから。

逆に言うと、大衆と離れておれはえらいんだぞ、
そんなことでは聞きたいことも聞けない。

ただ、蓮如上人も村々の講のときは平座で話されたけど、
沢山の人が集まるときには在る程度高いところで。
それはしかたない。心はみんなと同じところで。


by sakyamuni | 2017-07-03 12:00 | 実践