人気ブログランキング | 話題のタグを見る

罪悪も業報を感ずることあたわず

念仏者は無碍の一道なり。
そのいわれ如何とならば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、
魔界外道も障碍することなし、
罪悪も業報を感ずることあたわず、
諸善も及ぶことなき故に無碍の一道なり、と云々。
(歎異抄)

これは歎異抄に書き残されている
親鸞聖人のお言葉です。
無碍の一道といいますのは、一切がさわりとならない絶対の世界です。

天神地祇は敬伏する。
魔界の者も外道の者も障碍することなくなる。
罪悪も業報も感ずることあたわず。
諸善も及ぶ事なき故に無碍の一道なり。

罪悪も業報も感ずることあたわず。
罪悪・業報というのは様々な苦しみです。

苦しみがなくなるわけではない。
やってこないわけではないです。
やってくるけれども感じない。
問題にならないということです。

転悪成善、煩悩即菩提と変わりますから。
それによって喜びが減ることは全くないんですね。

罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし
          (高僧和讃)

罪障功徳の体というのは、ちょうど氷の体が水なんです。
氷と水のような関係。
これを煩悩即菩提、煩悩がそのまま菩提になる世界といわれます。
あるいは転悪成善といわれます。
これは煩悩と言っても罪障といっても苦しみといっても、
因から見るか、果から見るかの違いで同じことです。

ちょうど借金を抱えた人がチャラになったようなものと思うかも知れませんが、違うんですね。
自己破産というのはサラ金泣かせの法律なんですが、
もう返せない借金で苦しんでいた人が自己破産すると、
借金0になるんですね。
苦しみがチャラになるのではない。
苦しみが多ければ多いほど、それが転じて幸せになるのですから、
100万円の借金が100万円の貯金になるようなものです。
大きい氷ほど、それが解けたらたくさんの水になるように、
苦しみが多いほど幸せも多くなるんですね。

渋柿の渋がそのまま甘みかなといわれます。
渋柿は食べると、渋いんですね、口の中がざらざらする。
それが太陽の光に照らされると、甘い干し柿になるんですね。
美味しんぼでいってたけど、和菓子の甘さは干し柿を越えてはいけないそうな。
渋さが濃ければ濃いほど、甘い渋柿になるんです。
それは、渋い成分をスポイトで取って蜂蜜に漬けておくわけではない。
渋い成分が変化して甘くなる。
ちょうどそのように、罪障が多いほど喜びのもとになる。

喩えにはあわないところが当然出てきます。
これでいうなら、時間がかかるということと、
甘くなった柿からは渋がなくなってしまうと言うところですね。

煩悩即菩提というのは、煩悩のままですから、渋柿でいえ
ば渋はそのまま残っているんですね。
だから、ぴったりあう喩えはありません。
絶対の世界ですから。
何とか分かって貰いたいということで、喩えられているものです。

見れば見るほど頼もしそうな 添うて苦労がしてみたい。
粋な歌です。

煩悩・罪障。これは、無碍の一道に出ようが出まいが変わらない。
しかし、それが苦しみになるか、喜びになるか、全く違ってくる。
そういう世界に親鸞は出たぞと。

最後は、どんな素晴らしい人がどれだけ研究工夫して、素晴らしい結果
を残したとしても、そんな幸せは比較にならない、
絶対の幸福の世界に出られたぞと。
諸善も全く及ばない世界です。

無碍の一道に出られた親鸞聖人のお言葉です。


by sakyamuni | 2017-06-10 12:00 | 罪悪