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聴聞とは

人間というのは、必ず死ななければならない。
何の前触れもなしに、人生最期の日がやってくる。

ニュースを見ると、エルサレムで暴動が起きている。
そのイスラエルという国のエルサレムって不思議な所で、
ユダヤ人の聖地、パレスチナ人の聖地。
嘆きの壁っていうのが、ユダヤ人の聖地。

世界中がとらえた写真がある。
自動車のバザールに来たお父さんが、
子供を連れてどんぱちをやっている
お前らやめてくれ、子供がいるんだ、壁の近くで、
ぶるぶる、そのわずか数秒後に銃弾が当たって即死。

この時、名古屋にいまして、中日新聞、
二枚の写真を見ただけで、胸が締めつけられる思いがした。
何の罪もないんだよ。それが一瞬にして、死んじゃっているわけ。
この人達の人生って何だったんだろう。一瞬にして人生が終わる。

仏教の言葉の中に、
出息入息不待命終。

実は、死と隣合わせ。
通り魔に殺される人もある。
いつどんな形で、人生が終わってしまうか、わからない。
必ず、死んでしまう。
確実な未来は、死んでゆかなければならない。
厳粛な事実です。

ヨーロッパの言葉の中に、メメント・モリ
ラテン語で、忘れちゃいけないよ、みんな忘れているけれど。

死すべき運命。
モータル、人間っていう意味の名詞、
やがて死ぬっていう形容詞。

露の命を長らえて生きているのですよ。
そういう事を教えられているのが仏教

人生、人の一生。生まれてから死ぬまで。
ずーっと長く続くと思っているけれど、死と隣合わせ。
いつ死ぬのか、わからない。
それを、みんな忘れている。

そんな事ないよ。俺の細胞は、サイボーグで出来ているんだ。
ガメラと同じで血が緑っていう人。
僕死なないかもしれない、まじで言っている人もいる。
けれど、相手にしない方がよいです。

自分が、常に死と背中合わせにしている、と意識している人、いません。
ニュースを聞いた時に、あっそうか、と思っても、すぐ忘れる。

わかった事いうな、と思っても、本心では、自分とは関係ない、と思っておる。
絶対に自分が死ぬとは思っていない。
そういう意味で、やがて死ぬという事が、わかっているようで、全然わかってない。

そういうように、話を聞いて理解する、といっても、その心に2つある。
上の方にあるように感ぜられる心。
下の方にあるように感ぜられる心。

1+1=2とか聞くと、これを聞いたらその通り、
こういう風に判断しているのは、上の方にあると、感ぜられる心。
部会が始まってから、聞いているのは、みんな上の心。
その上の心で、人間はいつ死ぬかわからんぞ。
聞いてうん、うん、わかるぞ、聞いたぞ。
これは上の心。

ところが、下の心は全然鈍感で、どた牛がどたーっと寝ている、
鈍感っていう意味、はねつけている、全然自分の事と思っていない、
この機に用事はない、毛布をかぶって、仏法を聞かない、そういう心とがある。

仏法は、聴聞に極まる。
聴という聴く字、聞という聞く字。

聴は耳が外に出ている。
聞は耳が内に入っている。

聴とは、肉体の耳で、仏法を聴くとは、聴。
正しい仏教の先生から、正しい仏法を聴かなければならない。

そっくりそのまま、教えて下さる先生がおられないから。
手あかをつけずに教える。
破ったらどうなるか、私達に、噛んでふくめるが如く、
そのまま正しく、私達に教えて下さる。
善知識からまことの仏法を聴こう、というのが、聴聞の聴。

純粋で、正確に説かれている仏法を重ねて重ねて聞かせて頂くと、
正確に聞きとる、その聴を重ねていきますと、
信一念で、私達の内側にある心の奥底にある、
下の心が、わかったぞー、その通り。

今までまったく自分の事と思っていない、
心が、聴聞の聴を重ねていきますと、平生ただいま、五臓六腑を貫いて、
わかったー!これを、聞即信の一念と言います。

まっくらがりだった無明の闇が一念でぶち破られて、
日本晴れの心に廻心して、大安心大満足するのです。


by sakyamuni | 2017-06-08 18:00 | どうしたら助かる?