浄土真宗に東と西があります。
おおまかに言うと、
東本願寺は、生きているときの救いだけを説きます。
西本願寺は、死んでからの救いだけを説きます。

東の主張というのは、
宗教偏見のある人とかにでも受け入れられやすい。
この世での心の変換を説いた、だから親鸞聖人は素晴らしい、
と言います。
親鸞聖人が「この世の救いのみ」を説かれたかどうか、
それはエピキュロス派に聞かなくても、
親鸞聖人がどう書かれているか、
どうおっしゃっているか、そこに立たなければなりません。

どこに書かれていますか。
末灯鈔です。

信心の定まると申すは摂取にあずかる時にて候なり。
その後は正定聚のくらいにて、まことに浄土へ生まるるまでは候べし」
(末灯鈔)

ここでの「生まるる」は
肉体が死んでから生まれるとしかとれませんね。
その前にもあります。

「この身は今は歳きわまりて候へば定めて先立ちて往生し候わんずれば、
浄土にて必ず待ちまいらせ候べし」(末灯鈔)

ここでも「この親鸞もう死ぬぞ、そして浄土で待っているぞ」
と言われていますので「往生」は死んで極楽へ往くということになります。

彼らがエピキュロス派がどうのこうの、と言ってきたら、これを出せばいいです。
親鸞聖人が死んだ後の往生があるとハッキリ説かれています。
浄土真宗の看板を掲げるからには、親鸞聖人のお言葉によらねばなりません。

他にもあります。
「この世にて真実信心の人を護らせたまえばこそ『阿弥陀経』には
「十方恒沙の諸仏護念す」とは申すことにては候へ。
「安楽浄土往生して後に護りたもう」と申すことにては候わず。
「娑婆世界に居たるほど護念す」とは申すことなり」(末灯鈔)

どんなに強引な解釈をしようと、
ここでの「往生」は死んでからの往生です。
この世でも護られる。
そして死んでからも護られる。
という文書ですから。


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# by sakyamuni | 2018-08-15 13:00 | 信心 | Comments(0)

お盆にどこに行く?

今やお盆ですが、
大学になって、誰も知らない遠くへ生きたいって言う人、
結構多いんだよね。
お盆休みにどこ行きたいの、って聞いたら、
帰省するというよりも、北海道。
でっかいどう。

次に沖縄。
芸能人にあえるから。
勘違いしてる。
要するに遠く。

中途半端に軽井沢なんて言う人はいない。
九十九里浜で泳ぎたいという人もいないね。

そういえば、去年の年末年始、海外に行った人は最高だったんだって。
去年のゴールデンウィークも最高。
年々、増えている。
遠くへ生きたい人は。
そして、帰ってきて、一、二週間もすれば、虚しい虚しい
言いながら、虚無感を抱えて仕事する。

そして、休みでどこかに行き、帰ってきて
同じことの繰り返し。
不条理な人生だよね。

ところが、もし目を自分に向けたなら、
周囲も環境も変えずに世界がガラッと変わるんだよね。

だから、あなたらしく、生まれ変わる。
自分を見つめて、自分を変える。
自分のつまんないと言っている暗い心をガラッと180度、
日本晴れの明るい楽しい心に大変わりしちゃえば、
周囲の環境を変えなくてもすべてが変わる。

そこで、昔から汝自身を知れって、ソクラテスも言ってるし、
敵を知り、己を知れば百戦危うからず、って孫子の兵法でも言っている。
自分自身を見つめて、自分自身を変えれば、ガラッと。
友達、家族、家を変えなくても。
自分を見つめて自分を変えると世界が変わる。
じゃあ、自分とは何なのか。

それは仏教に教えられているし、
このブログのテーマでもある。


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# by sakyamuni | 2018-08-13 13:00 | 生きる意味 | Comments(0)

尺取虫が火鉢のまわりをまわり、
最後、火の中におちてゆきます。

私たちの人生も、同じようなものです。
どうすれば人より先へ行けるか、
どう生きるかという生き方しか知らず、
どこへ向かって生きているのか、という目的地がありません。

どう生きるかだけに一生懸命生きている人は、
最後死ぬときに、
がんばって生きてきた甲斐があったといえるのでしょうか。

決勝点がなければ歩く苦労が無駄になります。
なぜ生きるかがわからねば、生きる苦労がまた無駄。
「今まで私はどう生きるかしか考えて来なかった。おかしいな」
これに気づけるかが勝負です。

尺取虫もおちてゆくために火鉢のまわりを何回もまわったのか。
一生懸命生きて何をする。
死ぬ為の人生でなければ何をするためなのか。

人間に生まれてきてよかった、という決勝点を明らかにする。

私がお伝えしようとしている内容は
ほとんどの人が知らない事です。

どう生きるかということは
さまざまな智慧がありますが、
そいうやって一生懸命生きるのはなぜか。

生きて何をするのか。
これは仏教にしか教えられていません。
それを明らかにされたのがブッダです。
お盆をご縁に仏教を聞いてみて下さい。



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# by sakyamuni | 2018-08-11 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

どう生きるかとなぜ生きるかは、どっちが大事でしょうか?
確かに、『君たちはどう生きるか』がベストセラーになるほど、
どう生きるは人気ですが、もっと大事なのはなぜ生きるかです。

なぜなら、なぜ生きるとは、最終的な生きる目的のことです。
どう生きるかは、生き方です。
狭き門でいえば、狭き門のくぐり抜け方です。
狭き門をくぐってどこへ行くのかが、なぜ生きるです。

狭き門を一生懸命くぐってきたが、
その先が墓場なら、こんな人生でいいのか?

同じような言葉に
「越えなばと思いし峰に来てみればなお行く先は山路なりけり」
というものがあります。

峰をのぼり続け、その最後は、墓場です。
それならあんなに苦労して坂をのぼってこなくても
よかったのではないか。

なぜ生きるの重要さは、
これがないと生きる意味がなくなり、
苦労が報われないことにあります。

生きる意味を知るにはまず、生きるとは何か
よく知らなければなりません。

人生の場面場面(断片)さえ楽しければいい
という人生観をもっている人多いですが、
乗り越えても乗り越えても苦しい
そんな人生なぜ生きる。

こういうことが分かると、
なぜ生きるかとどう生きるか、
どちらが大事か、おのずとわかってきます。


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# by sakyamuni | 2018-08-10 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

生きる目的の意味

生きる目的という言葉は、
誤解する人も少なくありません。

生きる目的とは、と聞くと、
目標というものをあげる人が多くあります。

本当の意味で生きる目的といわれるのは、
なりたい職業ではない。

「なぜ」というのは問いかけ。
どんなときに問いかけるか。
心がうきうきしているときは、なぜ、と問いかけない。

満を持して臨んだ試験、結果が・・・。
なぜ?

思うようにいかないとき、苦しい時、
なんでこんなにまでして、そいうときに、
なぜ?
という問いかけが出てくる。

生きる意味とは、こんなに苦しい人生、
なぜ生きるのか、ということ。


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# by sakyamuni | 2018-08-08 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)