2025年 11月 05日
因果応報だから未来が分かる
仏教というと、お経も沢山あるし、色んなことを教えられているんだろうな、
と思う人も多いと思います。
でも実は、「後生の一大事」という、たった一つのことを教えられているんです。
お釈迦様が45年間かけて説かれたのも、結局はこのこと。
「後生の一大事」というのは、
「後生」とは、死んだ後のこと。
「一大事」というのは、もう取り返しがつかないということ。
私たちが息を引き取ったその瞬間から、取り返しのつかない一大事が待っている
ということです。
この世のことなら、気持ち一つで何とかなることもありますよね。
でも、死んだ後のこととなると、絶対に取り返しがつかない。
ある仏教の先生が、亡くなる直前の方に話をしてほしいと頼まれた時のこと。
家に帰ってお風呂に入ろうとして、ふと自分の足にホクロがあるのを見つけた瞬間、
こう思ったそうです。
「このホクロ一つで人生設計が全部崩れることもある」と。
臨終には、それまで大切にしてきたものが全部崩れ去ってしまう。
それが死というものなんですね。
ある14歳の少年が、人生の最後に直面した問題。
それは「これから僕は一体どこへ行くの?」ということでした。
もうそれ以外、何も気にならなかったそうです。
地位や名誉のある東大の教授でも、14歳の少年でも、死を前にしたら問題になるのは
「今、死んだらどうなるのか」という一点に絞られるんですね。
普段はタレントの話題とか、宇宙の話とか、色々気になっていても、
死が目の前に迫ると、そんなことどうでもよくなってしまう。
この少年も「死んだらどうなるの?」と真剣に聞きたかった。
その時、仏教の先生は「因果の道理」を説明されたそうです。
すべての結果には必ず原因がある。
これが「道理」で、絶対に変わらない法則ということです。
因果の道理は
「善因善果 悪因悪果 自因自果」
善いことをすれば善い結果がかえってくる。
悪いことをすれば悪い結果がかえってくる。
蒔いた種に応じた結果がかえってくるということです。
例えば、1時間勉強したら、その分の結果がかえってくる。
5時間勉強したら、その分の結果がかえってくる。
これって当たり前のことですよね。
でも、この法則は今この世界だけでなく、過去・現在・未来の三世を貫いています。
私たちが「今、ここに生まれた」という結果。
その時点でも、人生は大きく変わります。
もし違う時代に生まれていたら、どんな人生になったでしょうか。
もし違う国に生まれていたら?
もし身体に障がいを持って生まれていたら?
全然違う運命になっていたはずです。
では、誰がそれを決めたんでしょうか。
神様かというと、そんなことはなくて、
仏教では、そういう結果にも必ずそれに応じた原因があると教えられます。
生まれてから死ぬまでを「現在世」と言いますが、気がついたら生まれていて、
学校に行って、社会人になって、と時間が過ぎていきます。
でも、その「生まれた」という結果があるなら、生まれてくる前の世界、つまり過去世がなければならない。
そうでないと、なぜ私が今ここにいるのか、説明がつかないんです。
もし記憶喪失になったとしても、現在の自分のすがたを見れば、
過去にどんなことをやってきたかある程度分かります。
数学が得意なら、過去に数学を頑張ってきた。
卓球が得意なら、過去に卓球をやってきた。
そういう因果関係があるんです。
同じように、死ぬというのも「原因」です。
人を殺して死んでいく人、誰かを助けようとして死んでいく人、
色々な死に方がありますが、どういう結果を受けるかは、その原因を見れば分かります。
お釈迦様はこう言われています。
「過去の因を知りたければ、今の結果を見なさい。
未来の結果を知りたければ、今の因を見なさい」と。
私たちが今日1日生きたということは、1日死に近づいたということ。
「今日はあれをしよう、これをしよう」と色々考えているけれど、
必ず自分が死ぬという時が来る。
そして、その先はどうなるか分からず、真っ暗です。
そんな状況で、今何をしたら本当に満足できるでしょうか。
真っ暗なところへ突っ込んでいくのに、不安しかないですよね。
こんなたとえ話があります。
目の前に一つの扉があって、1時間後にはその向こうに行かなければならない。
たくさんの人がすでに向こうに行っているけれど、
向こうで何が起こっているのか誰も教えてくれない。
そんな時、この1時間に何をすればいいんでしょうか。
心は真っ暗です。
これが1時間ではなく80年以内だったら、
向こうが全然分からなくても、本当に心の底から安心できるでしょうか?
家族がいて、お金があって、それで安心できますか?
「今すぐ行かなきゃいけない」となった時、
「今まで何してたんだろう」と気づく。
「これから一体どこへ行くの?」と、この一点になるんです。
大学生活で何をするかは、大学卒業後に何をするかということが大きく関係してきます。
医者になるなら医学の勉強をするとか。
同じように、死んだらどうなるかが分かれば、今何をすればいいか分かる。
でも、死んだらどうなるか分からない。
だから何をしても、本当の安心も満足もない。
そうだとすれば、これ一つを解決しなければならないとなる。
それでお釈迦様は、これ一つを解決する方法を教えてくださっています。
死んだらどうなるかがハッキリしなければ、何をつかんでも同じ。
この解決を教えられたのが、お釈迦様であり、親鸞聖人です。
人間というのは、いつ割れるか分からない薄い氷の上に立っているようなもの。
だから、いつも不安なんです。
何もない部屋にいたら、何かせずにはいられない。
人は不安になるから、何か資格を取ればいいんじゃないか、お金を稼げばいいんじゃないかと求めます。
以前、イスラエルの結婚式場で、突然床が崩れ落ちるという事故がありました。
まさに、いつ割れるか分からない薄い氷の上に立っている状態。
それが突然バリバリとヒビが入る時がある。
その時、「その先は一体どうなるの?」と思う。
それが分からないから不安で、何かに狂ったように熱中するんです。
それを見ないようにしても、解決にはなりません。
死んだらどうなるかは、因果の道理で決まります。
つまり、現在の種まきで決まるということです。
今自分はどんな種まきをしているか。
本当の自分を見れば分かります。
お釈迦様はこう言われています。
「心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善」(大無量寿経)
心は常に悪を思い、口は常に悪を言い、身体は常に悪を行って、
これまで一つの善もないということです。
「あなたの知らない本当のすがたは悪なんですよ」と。
こう聞いても、正直、そうは思えないですよね。
もしこう思えたなら、今何をしたらいいか分かるはず。
生まれてからの種まきがこうだったら、死んだらどうなるかはハッキリ分かる。
浦島太郎は、なぜいい人だと言われるのか知っていますか?
みんながカメをいじめている中、お金を払ってまで助けてあげたから。
それで「いい人」だと。
でも、その浦島太郎が肩に担いでいるのは、今まで何千という命を奪ってきた釣り竿。
そのことには全然気づいていない。
今まで自分がどんなことをしてきたか、全然認識してないんです。
少しいいことをするまでに、心の中では何回人を殺してきたか分からない。
そんなことは、自分の評価の対象にならないので、自分のつくっている悪には無自覚で、
いいことばかりに目が向くんですね。
もう一つ、私たちが「自分はいい人」と思うのは、誰かと比べてそう思う。
真っ暗闇のところにロウソクが現れて「私は明るいぞ」と言った。
そこにランプが現れて、同じことを言う。
そこに電気が現れて、また同じことを言う。
最後に太陽が現れたら、それまでの明かりはみんな暗くなったという話があります。
これも比較して明るいとか暗いと言っているわけです。
人間というものを客観的に見ると、本当の人間のすがたはこういうもの。
これまで心の奥深くの阿頼耶識におさめられてきた悪い行いが、
一気に自分にかえってくる一大事がある。
お釈迦様が「人間は悪しかつくれない。だから後生は地獄だ」と教えられたのを聞いて、
親鸞聖人は、最初は「お釈迦様が教えられているから」としか受け止められなかった。
でも実際に仏道を歩んで、光に向かっていくうちに
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)
と知らされた。
善のできない自分は地獄行きだと。
地獄は誤解されやすいのですが、地獄というのは、そういう世界があるのではなく、
自分の悪い行いによって生み出すものです。
鬼が待っていて何かされる場所ではなくて、
「苦しみの境涯」という意味です。
この後生の一大事が分かった時、苦しみ悩みの根本原因である心の闇が破れて
変わらない幸せに救われます。
心から光に向かって進まなければ、自分の本当のすがたはハッキリしません。
「自分は死んだらどうなるのか」
仏教の教えを真剣に聞かせていただくことが大事です。
2025年 10月 28日
幸せを呼ぶ布施の極意
あらゆる善を6つにまとめられたものです。
その6つのうち、1番最初に挙げられているのが布施です。
布施の反対は「慳貪(けんどん)」と言います。
「富み有れども慳惜してあえて施興せず」
与えるものがあっても、気持ちがなければ布施はできません。
布施というのは強要できるものではないので、
その人に気持ちがなければ、とてもすることはできないんです。
どれだけ財産があっても、権力があっても、
気持ちがなければ布施をすることはできません。
布施について、特に「報謝(ほうしゃ)」という言葉を使います。
本願寺の蓮如上人という方の『御一代記聞書』にこうあります。
「仏法にはまいらせ心わろし、これをして御心に叶わんと思う心なり。
仏法の上は何事も報謝と存ずべきなり」
「まいらせ心」というのは、何か一生懸命した時に
「これだけやっているのに」というように思う。
この心が悪いと。
これは、人生の目的を果たす時に阿弥陀仏の御心に反するから、いけないんですね。
阿弥陀仏に救いとられると、その後はご恩報謝の行になります。
「信心正因、称名報恩」
恩徳讃で歌われている、あの心。
「身を粉にしても報いずにいられない、骨を砕いても感謝せずにいられない」
これは、阿弥陀仏に救いとられた人、信心決定した人が
このような気持ちになるというように思いがちです。
でも、「報謝」という言われ方をするのは、
このような気持ちで求めていかなければならない、ということなんです。
「これだけやっているのに」という心は、怒りの心につながり、
不幸な状態になってしまいます。
それで仏教では、「三輪空(さんりんくう)」を教えられます。
3つのことを忘れなさいということです。
「他人に親切した時、私が、誰々に、何々を、この3つを忘れなさい」と。
せっかくいいことをしても、「私がやった」と思うと、相手にお礼を求めることになります。
少しいいことをやったために、「私がしてあげた」という心によって、
かえって悪をつくってしまう。
「寸善尺魔(すんぜんしゃくま)」
ちょっとした善をすると、それ以上の魔が生まれてしまう、ということです。
布施をするにあたっての、大切な心がけなんですね。
そして、布施をする相手はどんな人がいいかというと、三福田を教えられています。
三福田というのは、私たちを幸せの身にしてくれるということです。
なぜ「田」というのかといえば、 田んぼにモミダネを蒔くと、
やがて稲になります。
1つ蒔いた種が800倍になってかえってくるように、
布施をすると、一時は相手のものになったように思えても、自分にかえってくるんです。
相手に施しをした時、それは相手のものになるのではない。
必ず蒔いた種は、自分にかえってきます。
その三田とは、敬田、恩田、悲田の三つです。
敬田というのは、敬うべき徳を持っている人で、
阿弥陀仏と正しい仏教を説かれる方。
私たちが最も敬うべき人です。
その阿弥陀仏、善知識に対して布施をするのは、大切なことです。
恩田というのは、私たちがご恩を受けている方。
阿弥陀仏や善知識、また、親や先輩、友人など、色んな人から恩を受けています。
私たちが恩を感じるかどうかは、とても大事なこと。
人間として徳があるかどうかというのは、
知恩、感恩、報恩、この心がどれだけ強いかなんです。
知恩というのは恩を知るということ。
今まで「なぜ生きる」を知らなかった私が、阿弥陀仏や善知識のご教導によって
聞かせていただいている。
受けたご恩を流していてはならない。
沢山の恩を受けている中で、私たちの一番大きなご恩というのは
人生の目的を知らせていただいたご恩。
これ以上のことはありません。
感恩というのは、恩を感じるということです。
ご恩を知らされたなら、まずお礼状を書くとか、お礼を伝えることが大事になってきます。
そうやってお礼状を書くことによって、自分自身の姿勢が正される。
「書く気持ちがない」
そういう自分だからこそ書いて、そのご恩をかみしめるんです。
なかなか、今まで受けたご恩は分かりません。
阿弥陀仏は五劫の間思惟し、兆載永劫の間ご修行なされました。
『安心決定鈔』という本にはこうあります。
「弥陀は兆載永劫の間無善の凡夫に代りて願行を励まし」
簡単に聞いているように思うかもしれませんが、
大変なご恩を受けて聞かせていただいているんです。
報恩は恩に報いるということ。
大変なご恩を受けているので、その恩を知り、恩を感じ、恩に報いる
これが大事です。
親に対しても、大変な恩を受けています。
けれども、そんな親に心配をかけている、五逆罪を犯している私たちなんです。
恩田、こういう恩を受けている人たちに布施をするのも大切なこと。
最後に悲田というのは、かわいそうな人、災害などにあった人のこと。
自分のことを「悲田」というのは間違いです。
かわいそうな立場にある人たちに、施しをすることです。
敬田、恩田、悲田のこれらの相手に施しをすることによって、
自分にその幸せがかえってきます。
現代の私たちは、とても忙しく生きていますよね。
仕事とか家事とか人間関係。
もう自分のことで精一杯。
だから「誰かに何かしてあげる余裕なんてない」
そう思っていませんか?
でも、布施というのは、お金や物だけではありません。
「笑顔で挨拶する」
「話を聞いてあげる」
「感謝の気持ちを伝える」
「お礼状を書く」
こういうことも布施です。
でも、気をつけてください。
「私がやってあげた」という心がないか。
これ、私たちはすぐに思ってしまいませんか?
親切にしたのに、お礼を言われなかったら、ムッとする。
何かしてあげたのに、感謝されなかったら、腹が立つ。
「せっかくやってあげたのに」
「これだけしてあげたのに」
この心が、実は問題なんです。
でも、安心してください。
布施をしたら、必ず自分にかえってきます。
田んぼに種を蒔いたら800倍になってかえってくる、それと同じように。
相手がお礼を言わなくても、感謝しなくても、
蒔いた種は、必ず自分にかえってくるんです。
だから、お礼を強要する必要なんてないし、
「してあげた」と思う必要もない。
静かに淡々と布施をする。
それが、本当の布施なんです。
そして、もう1つ大切なこと。
それは、自分が受けているご恩を知ること。
私たち、今日もこうして生きている。
それは、どれだけの人のお陰でしょうか。
親、先生、友人、先輩、同僚。
そして、阿弥陀仏、善知識。
人生の目的を知らせていただいた、これ以上のご恩はありません。
そのご恩を知り、感じ、報いる、それが本当の布施の心なんです。
今日、帰ったら、お礼状を書いてみませんか?
親とか、お世話になった人に。
「ありがとうございます」
その一言で大丈夫です。
書く気持ちがない?
だからこそ、書くんです。
そのご恩をかみしめるために。
書くことによって、自分の姿勢が正されるし、受けたご恩が分かってきます。
そして、書くことによって、自分が変わっていく。
布施は、幸せの種を蒔くこと。
その蒔いた種は、必ず自分にかえってくる。
800倍になってかえってきます。
「してあげた」と思わずに、「させていただいた」と思う。
それが、本当の布施の心。
それが、幸せへの道なんです。
今日から、幸せの種を蒔いていきませんか?
笑顔で、「ありがとう」の感謝の言葉で、お礼状で。
小さな布施を一つずつ。
それが、あなたの幸せにつながります。
2025年 10月 20日
生きる意味は勘違いされやすい
「人生の目的」と「人生の目標」
似ているようで、実は全く違うものなんです。
その違いを知らずに生きていると、
いつまでも満たされない人生になってしまいます。
では、その決定的な違いって何でしょうか。
目標というのは、一時的なもので、やがて記憶に変わるもの。
色褪せたり、薄れるものなんです。
日に焼けると、新しいカーテンとかでも色褪せますよね。
それと同じように、目標を達成した満足も、やがて色褪せてしまうんです。
たとえば、「今までで一番嬉しかったことは何ですか?」
こう聞かれると、どうでしょうか。
「何かいいこと、あったかな...」
くらいの記憶しかなかったりしませんか?
「そういえば、高校の時の修学旅行は楽しかったかな」
「大学合格した時は嬉しかったかな」
「初めての海外旅行は良かったかな」
そういう何となく覚えているような思い出が出てきたり。
あるテレビ番組で「幸福論」という特集がありました。
「どんな時が幸せですか?」という質問に対する答えの上位は、
1位:おいしいものを食べている時
2位:寝ている時
その時は楽しかったはずのことが薄れているので、
こういう答えになってしまうということです。
今、この瞬間の満足しか答えられない。
これが「目標」の特徴なんですよね。
考えてみてください。
受験で志望校に合格した時、めちゃくちゃ嬉しかったはず。
でも今は、その時の喜びを感じていますか?
昇進が決まった時、舞い上がるほど嬉しかった。
でも今は、新しい責任とプレッシャーで、あの時の喜びはどこへやら。
彼氏ができた時、結婚が決まった時、すごく幸せだった。
でも今は、日常の中に埋もれて、当たり前になっている。
そんなふうに、どんなに頑張って手に入れたものでも、どんなに嬉しかったことでも
時間が経てば、色褪せてしまう。
それが「目標」なんです。
それに対して「目的」は、色褪せることも薄れることもないものです。
浄土真宗の親鸞聖人が書かれた『教行信証』という本があります。
これは、人生の目的を完成された喜びが書かれた本なんです。
「よろこばしきかな」で始まって、「よろこばしきかな」で終わっています。
評論家の亀井勝一郎さんが「大歓喜が響きわたっている」と言っているほど、
喜びが綴られているんですね。
この『教行信証』は、親鸞聖人が52歳の時に書かれ、
90歳でお亡くなりになられるまで、修正を重ねられたもの。
つまり38年もの間、親鸞聖人の喜びは、色褪せていないということ。
普通、何十年も経ったら、喜びはなくなってしまうと思いますよね。
でも変わっていない。
これが「目的」を達成した喜びなんです。
究極の願いは、永続する幸せになること。
私たちは裏切らない幸せを求めているんです。
でも実際はどうかというと、何度も裏切られてきました。
趣味や生きがいによって、一時的に幸せは感じるけれども、
つかまっては裏切られ、また別のものを求める。
信じていたものに裏切られると、残酷な裏切りに傷つけられたくないということで、
裏切らない幸せを求めるんですね。
すべての人が求めてやまないものは、絶対に変わらない絶対の幸福なんです。
すべての人に共通する目的というと、「え、みんな同じなんですか?」
そう思うかもしれません。
普通は人それぞれだと思っていますよね。
でも、人それぞれというのは「目標」のことです。
ある人は起業したい、
ある人は結婚したい、
ある人は世界一周したい。
そういう「目標」は人それぞれ。
でも「目的」は、万人共通なんです。
達成しても、やがて虚しい感じになったりするものは、
人生の目的とは言えないんです。
本当の目的を知らずに、目標を追い続ける人生は、どうなるのでしょうか。
海で溺れている人のたとえで考えてみましょう。
波にもまれて苦しんでいる。
そこに丸太が流れてきた。
「これだ!」とつかまる。
その時は、一時的にホッとして満足します。
でも、丸太は必ず裏切る。
クルッと回って、また波にもまれる。
すると苦しいので、また別の丸太を見つける。
「今度こそ!」と思って、必死で泳いで、つかまる。
また一時的に満足。
でも、結局裏切られる。
丸太を求めて苦労して裏切られ、また別の丸太を求めて苦労して裏切られ。
この繰り返しだと、人間に生まれて良かったという生命の歓喜は、永遠にないですよね。
そのうち、疲れ果てて沈んでしまう。
周りには、沈んだ人ばかり。
こんな悲劇はないですよね。
哲学者のショーペンハウアーは、こう言っています。
「人生は、苦痛と退屈のあいだを振り子のように揺れ動く」
大学合格のために頑張って勉強する。
合格したら、ちょっと落ち着いて、何か目標が欲しくなる。
旅行のためにバイトしようとなって、時間を見つけて働く。
お金を貯めるのは大変だったけど、やっと行けた。
旅行から帰ってきたら、また退屈。
「次はどこに行こう」
こんな感じで同じことの繰り返し。
これを仏教では「流転輪廻」と言います。
終わりのない苦しみ。
私たちも、まさにこの振り子なんですよね。
資格を取るために勉強。
取ったら、「次は何を目指そう」
昇進を目指して頑張る。
昇進したら、「もっと上を目指さないと」
ダイエットを頑張る。
目標を達成したら、リバウンド。
それでまた頑張る。
恋人が欲しくて出会いの場に出掛けたり、自分磨きを頑張る。
恋人ができたら、次は「結婚したい」
結婚したら、次は「子どもが欲しい」
子どもができたら、「子育てが大変」
そんなふうに、次から次へと、目標を追いかけている。
でも、満たされない。
「いつになったら、本当に幸せになれるんだろう」
そう思いませんか?
ある歌にこんな歌詞があります。
「山のむこうに幸せが住む 希望にあざむかれ
この坂を越えたなら しあわせが待っている
そんな言葉を信じて そんな言葉にだまされて」
この坂を越えたら幸せが待っている。
そう思って頑張る。
でも越えたら、また次の坂。
そのうち疲れ果てて、倒れてしまう。
これが人生なら、悲劇ですよね。
命というのは「地球よりも重い」と言われます。
でもそれは、未来永遠の幸せの身になって、生命の歓喜を得てこそのことで、
目標だけを追い続けて、満たされないまま死んでいく。
それだと、何のための人生だったのか、分からなくなってしまう。
私たちの本当の生きる意味とは何でしょうか。
それは、色褪せない幸せを得ること、裏切らない幸せを得ること、
絶対の幸福を得ることです。
目標をいくつ達成しても、それは得られません。
なぜかというと、目標は必ず色褪せるからです。
でも、目的を達成すれば、それを得られます。
親鸞聖人が38年間、色褪せることのなかった喜び。
それが、本当の生きる意味です。
あなたは今、何を追いかけていますか?
次の昇進?次の資格?
理想の体型?結婚?
マイホーム?
それは、目標ですか?目的ですか?
もし目標なら、達成しても色褪せてしまいます。
そしてまた次の目標を探すことになります。
そうなると、永遠に満たされない人生です。
でも、本当の目的を知ったなら、それに向かって生きるなら
色褪せることのない幸せが得られるんです。
海で溺れている人が、丸太にすがっている。
目の前には大きな船があって、その船に乗れば助かる。
それなのに、丸太に必死でしがみついているから、船が見えない。
「この丸太を離したら、沈んでしまう」
そう思って、とても離せない。
今の仕事、今の生活、今の楽しみ。
それを離したら、何もなくなってしまう。
そう思って、離せない。
でもその丸太、いつまでもつでしょうか。
いつか必ず裏切られます。
それよりも、色褪せない幸せ、裏切らない幸せというのが、
私たちの本当の人生の目的なので、それを求める人生の方がいい感じがしませんか?
目標ではなく、目的を持って生きる。
それが私たちの本当の生きる意味なんです。
2025年 10月 11日
生きがいは苦しみをなくしてくれるわけじゃない
人生はいいことばかりではありません。
嫌なこととか、辛いことが色々起きてきます。
苦しみ悩みの波が次々とやってくる海のようなものだということで、
「難度海」とか「苦海」と言われました。
難度海の「難度」というのは、渡ることが難しいということ。
仏教の話を聞こうと思った理由として、苦しみを感じているから
という人も少なくありません。
何の苦しみも感じていなかったら、興味を持たないはずです。
「なぜ生きる」
この「なぜ」という言葉は楽しい時には出てこない言葉です。
楽しい趣味に打ち込んでいる時、「なぜこれをするのか」なんて思わないし、
面白い映画を見ている時に、「なぜこの映画を観るのか」なんて考えません。
楽しい時には「なぜ」という問いは出ないんですよね。
だから、「なぜ」という問いは、何らかの苦しみがある時に出てくるんです。
「なぜ生きる」と問う時、自覚はしていないけれど、苦しみを感じている。
「あなた、苦しんでいるでしょ?」と聞かれて「はい」と答える人はいないけれど、
心のどこかで苦しみを感じ取っているんです。
苦しみを苦しみと知る、そのために聞いているとも言えます。
生きることは大変なことです。
どんな苦しみがあるのか、具体的に見ていきましょう。
受験戦争を勝ち抜き、就職難をくぐり抜け、
リストラの不安も感じつつ、老いや病魔とも戦わなくてはならない。
人間関係のトラブル、事故や災害、会社の倒産、不測の事態が色々襲ってきます。
これだと、いつまでも不安はなくならない。
「大変そう」って思いませんか?
「嫌だな〜」「やれやれ」と思うこと、それが波なんです。
誰にでもそう思うことって、あると思うんですよね。
職場で嫌なことがある時、上司に叱られる時、
朝起きた時とかも。
朝から絶好調という人は、「嫌だな〜」とは思っていません。
でも、起きた瞬間から波を被る人もいる。
「仕事だ」「会議だ」って。
考えてみると、色々「嫌だな〜」と思うこと、ありませんか?
以前、新聞に、サラリーマンが感じるストレスの統計が出ていました。
1番は仕事の悩み。
仕事についていけない、上司の言っていることが分からない、
同僚に聞いても分からない。
仕事の次は、経済的な悩み。
お金がない、借金苦。
毎月1万円の赤字なら、12ヶ月で12万円。
3番目は人間関係で、4番目は病気。
どうしたら解消できるか、それが悩みなんです。
これを考えると「やれやれ」と思う。
どんなに趣味や生きがいがあっても変わりません。
嫌な仕事、やり残した仕事、これがストレス。
「あのこと考えると嫌だな」というようなことが
波として襲ってくるんです。
その波はだんだん盛り上がってきて、遠くに見える。
「嫌だな〜、嫌だな〜」と思いながら、だんだん波が近づく。
借金の返済、あの人に会わないといけない、健康診断の結果が返ってくる。
そんなふうに悪い結果が返ってくるのが嫌でたまらない。
見ないようにしているけれど、近くになるとだんだん波は大きくなります。
それが毎日毎日、連続でやってくるんです。
「嫌だな〜」と思うことが次から次へとやってくる、これが人生。
どんな人でも何らかのストレスがあるはずです。
ない人はいないんじゃないでしょうか。
勉強がつらい、仕事がつらい、
経済的につらい、人間関係がつらい。
この人間関係の苦しみは、特に苦しいですよね。
今まで仲のよかった人とうまくいかなくなるのがつらい。
いつも会わない人だったら、戦争状態になっても、決裂してもいい。
でも、家族とか友達、先輩後輩、上司となると話は別。
つい最近までいい関係だったのに、それがダメになる。
これは、言葉にできないほどの苦しみなんです。
今まで人間関係に悩まされたことがない人でも、これからあるはず。
そういう人が人間関係の苦しみに初めて直面した時、とても苦しむことになるんですよね。
楽しかったコミュニティが、本当に嫌になる。
同じ職場の人だから、下手なこと言えない。
悩まされて、エネルギーが失われていくんです。
そんなことが毎日毎日続くと、会社に行くのが嫌になる。
人間関係は、本当にエネルギーが吸い取られる。
その悩みがなければ、もっと頑張れるのに。
モヤモヤモヤモヤ、そうなっていくんですよね。
病気の苦しみもつらい。
人に言えないですしね。
病気になった時、それを人に知られたくない。
ごく親しい人でも言えない。
孤独のまま耐え続けないといけない。
そういうことを知らなくて、人は話しかけてくるし、接してくる。
ある身体的な理由で外泊できないという人もいて、
そういうのも本当につらいと思います。
外泊すると体調を崩す、眠れなくなる、朝食を食べると激痛が走る。
友達が何か言ってきても「ちょっとお腹が痛い」としか言えない、そういう悩み。
人に話しても、やっぱり分かってもらえなくて、「大変だね〜」で終わり。
そういうことで苦しむんです。
テレビ番組で「死に急ぐ中高年」という特集がありました。
近年、自殺する人で多いのは、借金の苦しみです。
遺書に「保険金を借金に充ててください」と書き残す人もあるそうです。
決算が近づくと、自殺が増える。
毎月、毎月、支払日がやってきて、胃がキリキリする。
もう疲れた、となってしまい、生命保険に目がいく。
アーサー・ミラー原作の映画「セールスマンの死」も、
そういうところがありました。
高速道路を走っていても、ローンの看板が目立ちます。
そこまで宣伝して採算が取れるということは、それだけ利用者がいるということ。
経済的にままならない、そんな波が押し寄せる。
その波に翻弄されながら、泳いでいく。
「嫌だな」「やれやれ」と。
同じ立場の人が自殺すると、半年くらいで次の人が自殺するそうです。
周りには難度海で溺れた人ばかり、それでも必死に耐えている。
隣で一生懸命泳いでいた同僚が、もうダメだと自殺する。
次から次と波が来て、「それなら私も」と自殺する。
そういう難度海が私たちの人生です。
周り中が波や風に悩まされている、その中を泳ぐ。
波の絶えない海で泳ぐのは大変なことです。
そして泳がなかったら沈んでしまう。
最初は楽だったかもしれない。
子どもの時は、楽とは言わないまでも、そこまででもなかった。
それがだんだんつらくなってくる。
マラソンもそうで、最初は楽。
でも、思いもしなかったところが痛くなったりする。
今日は体調万全だと走り出すけれど、急に
ふくらはぎが痛い、横腹が痛い、肩が痛い、腰が痛いと、
次々と色んな場所が痛くなってくる。
だんだん泳ぐのに疲れて、溺れていく。
そんな中、波の間に板きれが見えたら、そこに向かって一生懸命泳ぎます。
そういう丸太や板きれというのは、趣味とか生きがいのこと。
ストレスなく生きるにはどうすればいいか。
色々なストレスから逃れるために、他のことに心を向ける。
それは依存症とも言えるかもしれません。
何か気晴らしがなければ、やっていられない。
それが丸太とか板きれ。
苦しくてしょうがないから、丸太や板きれにすがらずにいられないんですね。
何かにすがらなくては生きていけない。
漠然とした不安や不満、それを乗り切るために丸太にすがる。
やけ食いをする人もあれば、買い物依存症の人もあるし、
ふて寝したり、他人を攻撃する人もあります。
ふて寝しても、やがて起きなくてはならない時がやってきます。
この場合、起きられないのは、疲れているとかではなく、
起きて動き出して現実にぶつかるのが嫌なんです。
起きた後の現実が嫌で、なるべく寝ていたい。
誰にも何も言われないと、それが習慣化してしまう。
丸太にすがることができるのは一時的ですが、丸太にすがった時は、ホッとする。
何もかも忘れて、食べたり、買ったり、寝たり、悪口を言ったり。
その時はホッとするんですが、それは一時の満足で、
すぐに見たくない現実にぶつかっていかなくてはならない。
借金を忘れて一時的にホッとしていても、それでは根本的な解決にはなりません。
つかまっては裏切られ、そういうことの繰り返しなんですよね。
いい大学に入って、出世街道まっしぐらと言われていた人でも、
急に自殺してしまうこともある。
難度海で苦しみ、溺死してしまう人。
私たちが気づかないだけで、周りにはそういう人がいます。
楽しそうな人は、みんなといるから楽しそうにしているだけ。
家に帰ると、自分の部屋で一人になると、暗くなっているという人もあります。
楽しそうにしていることと、幸せというのは違うんですよね。
いつ何が起こるか分からない。
次々と波にのまれて命を落とす人がいるということです。
生きる気力をなくしている人を励ます、それが政治とか科学、経済です。
「もうダメだ」と言っている人に「こうしたらもっと泳げる」
そう言っているのが、医学とか経済とか政治。
臓器の移植は、その最先端みたいなものですが、
そうまでしてどこへ向って泳ぐのか。
すがった丸太に裏切られると、裏切った人を恨んだり、呪ったりする。
「何かひどい目にあえばいいのに」
そんな恨みや呪いの言葉が出てくる。
丸太がクルッと回って裏切られ、塩水飲んで、恨み、呪い、悶え、苦しんでいる。
「裏切られた〜。じゃあ次はこれ」
そんなものは、丸太や板きれじゃないんです。
1回でも裏切られたら、その傷はなかなか癒えない。
つらい中、最後は必ず溺れて死んでしまう。
これだと何のために泳ぐのか分かりません。
「今までつらかったけど、生きてきてよかった」
そう喜べるものがあればいいんです。
でも、どこへ向って泳いだらいいか分からない。
人から臓器をもらって、大変な手術をして、なぜ生きるのか。
「こんなに苦しいなら死んだ方がマシ」と言って、死んでいく人もいる。
肝心の泳ぐ方角が、全く論じられていないし、それについて驚きもしない。
世の中はただ
「生きなさい」
「死んではいけない」
「こうしたら楽に泳げる」
それだけ。
波をいかに乗り越えるか、どうしたら長く泳げるか、それだけなんです。
方角が分からないまま泳ぐのは苦しい。
これらの苦しみを乗り越えて泳ぐ意味が分からないから、
自殺してしまう人がある。
人生の苦、これにすぎるものはないんです。
その苦しみを説き、「生きてきてよかった」という生命の歓喜があること。
それを教えるのが宗教です。
でも今の宗教は、世の中のストレスをいかになくすか、これだけ。
ストレスとか苦しみというのは、一時的になくなっても、
新たなストレスや苦しみがやってくる。
人間はそこまで弱くないので、苦しみに耐えられるもの。
広島の原爆をくぐり抜けた人、よく生きてきましたねと思う人はたくさんいます。
その人たちには、これをくぐり抜けたら、という生きる希望があった。
でも実際はどうかというと、苦しみを乗り越えてどこへ向かって生きるか。
そういうことを明かにされていない、分からない。
これが最も深刻な苦しみなんです。
お釈迦様は私たちの人生の苦しみを8つに分けて四苦八苦を教えられています。
その中の死苦は死ぬ苦しみですが、
その苦しみに目を向けなさい、
私たちは苦しみ悩むために生きているのではない、
難度海に大きな船がある、ここに乗りなさい
そう言われているんです。
でも私たちは、丸太や板きれに心を奪われて、その大船に乗ろうとしない。
だから親鸞聖人は大船のあることを一生涯教えられています。
仏教の目的は「抜苦与楽」、苦しみを抜いて楽しみを与える。
仏教の教えは苦しみを苦しみと知るために聞いている、とも言えます。
私たちの苦しみ悩みの根元を知る。
そのために教えを聞くんですね。
仏教の教えを聞くことを聴聞と言いますが、
聴聞して苦しみ悩みの根元がきれいになくなると、
「生きてきてよかった」という生命の歓喜が起きる。
だから、そこまで教えを聞いてもらいたいです。
2025年 10月 04日
苦しみにも幸せにも因縁がある
仏教が解き明かした、苦しみの原因と結果、幸せの原因と結果。
これを四聖諦と言います。
四聖諦というのは、苦諦、集諦、滅諦、道諦という4つの真理のことで、
四諦とも言われます。
苦諦、集諦は苦しみの因果。
滅諦、道諦というのは幸せの因果。
苦諦というのは苦しみの真理。
集諦というのは苦しみの原因。
滅諦というのは苦しみの滅した世界。
道諦というのはその原因です。
もともとは聖道門仏教で言われる言葉。
苦しみの原因を煩悩として、道諦は八正道。
きゅうりの種をまけば、きゅうりの芽が出てくるし、
まいたとおりの結果があらわれるんですね。
何の種をまいたかによって、どんなものが生えてくるか分かります。
たとえ暗いところで種をまいたとしても、生えてきたものを見れば
自因自果というのは、
自分のまいた種は自分が刈りとっていかなければならないということ。
このことを詠った歌があります。
「蒔けば生え 蒔かねば生えぬ 善し悪しの
人は知らねど 種は正直」
種をまいたら必ず生える。
生えてこなかったら、まいていないということ。
まいていれば必ず生えてくるんですね。
そして、まいた種に応じた結果があらわれます。
こういうことを教えた言葉はたくさんあります。
「身から出た錆」とか
「自業自得」、
蚕は自分の出した糸によって茹でられて死んでしまう。
いずれも因果の道理を言われたものです。
「親切は人のためならず」とも言います。
善いことは巡り巡って自分のところにかえってくる。
ホテルニューオータニの創始者、大谷米次郎さんは、
お風呂で自分の方に温かいお湯を持ってこようとすると、
けれどもお湯を押し出すようにしてやると、回りまわって
これは、布施の精神を教えたものです。
善いことも悪いことも、一度やった行いは決して消えることはありません。
「正直者が馬鹿を見る」なんてことは、因果の道理からすると
善いことをすれば必ず、自分のところにかえってくるんですね。
イソップ童話の中に「救うものは救われる」という話があります。
百獣の王ライオンがお腹いっぱいになって伸びをした。
その時、伸ばした手の下にネズミがいた。
ネズミは「いててて、助けて大王様〜
するとネズミは「必ずご恩返しします」と喜んだ。
ライオンは「お前なんかに助けられることなどない」と言った。
でもある時、ライオンがジャングルで落とし穴にはまって、網にかかってしまいます。
その時ネズミがやってきて、網を食い破ってくれたので、ライオンは助かったという話。
人が見ているから善いことをする、
種まきの通りに結果がかえってくるんですね。
因果の道理の「因」というのは行為のこと、
「果」というのは運命のことです。
運命というのは本来、仏教では使わない言葉で、禍福ということが言われます。
人間はどういう行いをしているものなのかというと、
それを身口意の三業と言われます。
この中で最も重視されるのが心の行い、意業です。
心が口や身体の行いを支配しているので。
そういう意味で、口も身体も心の奴隷。
これが問題にされるのが仏教です。
本当の心のすがたが明らかになると教えられているのが仏教。
「なぜ生きる」の扉を開く鍵。
その鍵とはどこにあるのでしょうか。
それは一念であり、二種深信。
一念と二種深信は同じこと。
二種深信というのは、二つのことがハッキリするということ。
まず、私のすがた、本当の自分のすがたがハッキリする。
分かっているようで、分かっていないのが自分自身のこと。
近すぎるから分からないんですね。
「灯台もと暗し」と言われますが、近すぎて分からない。
メガネをかけているのに、メガネがないと探す人があります。
メガネをしたまま眠ってしまって、起きてみるとメガネがない。
そんな時、実はかけていたということも。
他にも、「なくて七癖」と言われます。
「自分には癖なんてない」と思っていても、
あなたは自分の癖、いくつ挙げられますか?
例えば、家族とか友達とか職場の人の癖はすぐに見つかる。
座り方とか、歩き方とか、うなずき方とかも人によって特徴があります。
他の人から見ると一目瞭然。
でも、自分ではよく分かっていなかったりします。
そういうことを
「刀、刀を切ることあたわず」
斬鉄剣はどんなものでも斬ってしまうというもの凄い切れ味。
ビルも一振りで斬ってしまうほど。
そんな斬鉄剣でも斬鉄剣自身は斬れません。
私たちは他人の言葉に一喜一憂します。
たとえば、子どもがいるお母さんにとって重要な「公園デビュー」。
新たに引っ越してきた母親が初めて子どもを連れて近所の公園に行く。
団地とかであれば特に、そこのボスみたいな人がいたりして、
その時、その初めての母親がどんなふうに振舞うか。
ここで対応を誤ると、後々まで尾を引くことになる。
このプレッシャーがあまりにも大きいので、公園デビューできない母親もいるとか。
朝起きると、公園には行かず、ショッピングセンターに行く。
そこで「こんにちは〜」くらいの言葉を交わして、
昼食もショッピングセンターでとって、夕方はそこでお惣菜を買って帰る。
そんなふうに1日中ショッピングセンターで過ごす人たちも。
「人に笑われるような人になってはいけない」
そういうふうに言うのも、人からの評価を気にしているから。
他人は適正な評価をしているか、そもそも評価できるのでしょうか。
スポーツ選手が活躍すると、一気に評価が高まりますが、
芸能界でも栄枯盛衰がある。
今売れているといっても、来年はどうなっているか分からない。
人の評価で自分というものが浮いたり沈んだりしない。
それで、自分の道徳的良心で自分を見ようとするけれど、
自分自身のことは欲目とか自惚れという色眼鏡をはずして見ることはできない。
なかなかありのままに見るのは難しい。
私たちは人を見ると、無意識でランク付けしている。
「生臭坊主との同宿はご免被る」
「何だ。お前はまだあの女性を抱いていたのか」
これは、連れの僧侶が心の中で女性を抱いていたところをついたもの。
問題は心にあるので、心こそ重要視しなければならない。
心こそ取り締まらなくてはいけないんですね。
けれども警察が取り締まれるのは、口や身体の行いだけ。
心の中でたとえ人を殺したとしても、殺人犯ということにはなりません。
宝石店で心の中で泥棒したとしても、逮捕されない。
もしそんなことで逮捕されたら、警察官も裁判官さえも
これは私たちの思いと反対。
自分の体裁は取り繕うのですが、心の中までは見られないと思って
「今、誰かに見られたかな?」
でも、心を問題にしなかったら、問題は解決しないんですね。
大泥棒と言われた石川五右衛門の歌です。
「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」と言われ、
口や身体で行う罪よりも、心で思う罪のほうがはるかに重いと言われます。
ところが、心を軽視しているので全く自覚がないんですね。
暗闇で種をまき続けるようなもの。
では、その私たちの心というのは、どんなすがたをしているのでしょうか。
その昔、帝が最高権力者だった頃、お屋敷の中にはたくさんの女性がいました。
それで、ある女性が帝の寵愛を一身に受けると、
「あの田舎娘、新入りのくせにすっかり帝のお気に入りになって、
どうやって取り入ったのかしら」
と陰口を言われる。
そして、自分に非があるなんてことは思いもしない。
そうやって優るを妬む愚痴の心というのは、とても恐ろしいもの。
嫉妬心むき出しの人を見ると、何だか浅ましく思えたりもする。
でも私たちには、優っている人を見ると許せないという心がある。
勉強ができるだけじゃなくて、スポーツまでできるとなると
結構遊んでいるはずなのに、テストがいつも一番とかだと
事前に情報が漏れていたに違いない」
そんなことまで思ってしまう。
あきらかに自分より優っている人でも
この愚痴の心は、不幸な人を見ると、「いい気味」と思って
自分のしゃくにさわる人がひどい目にあうと気持ちいい。
雨上がり、綺麗な服を着ている人が横を通った車に泥水をかけられると
雪道で思いっきり転んでいる人を見て、
たまに高速道路で黒塗りのベンツとかが
自分がアクセル全開にしても全然追いつけない。
でも、その車が覆面パトカーに捕まると「いい気味」と思ってしまう。
週刊誌が売れる三大条件は
1 恋愛よりも破局
2 結婚よりも離婚
3 おめでた出産よりも問題出産
この3つの記事を載せた時は売れるらしい。
結婚したと思ったら、みんなてぐすね引いて
妬みや嫉み、そんな心は自分ながらに嫌になる心。
とても人には言えない心。
スポーツで自分よりも上手い選手がいて、
そうなると、その人が失敗した時に喜ぶ心が出てくる。
「あなたの代わりなんて、とてもできない」と口では言いながら、
今のうちに自分がレギュラーに、と思う心がある。
どこかに自分よりひどい目にあっている人はいないかと思う心が
「凡夫」というのは私たちのこと。
その心は死ぬまで動きづくめで、減ったりなくなったりすることはない
私たちの心は変わり通しで、1人が1日のうちに
お盆の上に乗せた卵のようにコロコロ変わる。
ですが仏教では、欲や怒り、愚痴の心のままで、
渋柿の渋がそのまま甘味にかわるように、
聖人には苦悩がそのまま幸福になっているんですね。
罪障功徳の体となる
氷と水の如くにて
氷多きに水多し
さわり多きに徳多し
自分の心が知らされたら、ひたすら嫌になるだけじゃないかと
でも、私たちの本当の苦しみの原因である心の闇が破れたら、
なので、私たちが人生の目的を達成できるかどうかは
心の闇が晴れると明るい心になります。
そこに出るには「仏法は聴聞に極まる」と言われるように
真剣に仏教の教えを聞いて、実践すること。
そのために、どんな生活をするかも問題になります。
生活即求道、聴聞の一本道を進むために生活を整えることも大切なんですね。
人生の目的を果たせるよう、真剣に教えを聞いていただきたいと思います。

