凡夫の定義

浄土真宗を明らかにされた親鸞聖人は、
凡夫というものをこのように定義されています。

『凡夫』というは無明・煩悩われらが身にみちみちて
もおおく瞋り腹だちそねみねたむ心多く間なくして
臨終の一念にいたるまでとどまらずきえずたえず。
(一念多念証文)

こうありますが、凡夫とはイコール人間のことです。
人間を定義された親鸞聖人のお言葉です。
これは一念多念証文にあります。

これ言葉を変えると機の深信なんです。
機の深信。
本当の己の姿。
地獄一定の私の姿をこう言うように言っておられます。

凡夫というは、あなたが信心決定しますと
これがハッキリ知らされます。

体でこれを読ませていただけます。

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# by sakyamuni | 2018-09-24 13:00 | 罪悪 | Comments(0)

仏教で我慢とは

仏教で我慢というのは、忍耐のことではありません。
我慢とは明らかに自分が間違いだと知りながらその考えを貫き通そうとすること。
我を通すことです。

ここから我慢という言葉が生まれました。
意味がちょっと変形しています。

今なら我慢は忍耐ですけどね、良い意味で使われます。
本来はそうでない、
自分は間違いと知っているんだけど、それを認めない、我を通そうとする心です。
これは特に男性に非常に強い。
だからブッダは、男性はこれに気を付けよと言われます。

男は我慢のために損をする。
もっというなら、また我慢があるために仏教が聞けないことがあります。
女性はそれに対して愚痴です。
愚痴に気をつける。
愚痴で損をすると言われます。

明らかに自分が間違いだと知っていてもそれを素直に反省できない、懺悔できない。

生きる意味はこれだぞ、仏教が初めての人で、
明らかに反論できないと、
こういう立場に追い込まれても、素直に判りました、
仏教を聞きますと言う人は少ないんです。

生きる意味はこれだと言われて反論できなくても
生きる意味はとにかく子孫繁栄だという人もあるんですね。
色々なことをいって素直に認めない、素直に自分の間違いを認められないのが私達。

夫婦の会話を聞いていてもそうです。
奥さんが主人に注意をする。
「あなたここ間違っています」
と言われて、謙虚な主人ならば、
「ああそうか、そうだったね」
懺悔、反省すればよいのに、
男は非常に我が強い。

女性から注意されてもあまり聞けない人が多い。
それで女性に注意されても、
「うるさい」とはねつけます。

自分が間違い、誤りだと知っていても
素直に間違いを間違いと認められない心があります。
そして自分のおかしな主張を貫き通そうとします。
これを我慢といいます。
私たちはよくよく気を付けなければなりません。


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# by sakyamuni | 2018-09-22 13:00 | 罪悪 | Comments(0)

限りある身に限りなき欲

こんな歌があります。

泣くも、笑うもぞ人の世は 限りある身に限りなき欲

人生はですよそんなの世で、命には限りがあります。
限りある身に限りなき欲。
限りない欲望を満たそうと生きています。
ところが、欲望を満たした喜びは一時的で、
のようにはかなく消えてしまいます。

馬の目の前ににんじんをぶらさげている、これが全人類です。

すべての人は、欲ばっかりもとめても満足できないのです。

馬にたとえると、にんじんはくわえられないのです。
どこまで求めても食べられません。
満たしても、たとえ満たしてもすぐに不満になります。
本当に大丈夫だろうかという不安もなくなりません。
もう心から安心も満足もできません。

欲望はキリがないということです。
そして酔生夢死してしまうのです。

では、何を求めればいいのかは、
仏教に教えられています。


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# by sakyamuni | 2018-09-20 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

2種類の疑い

六大煩悩の中に、疑がありますが、注意して貰いたいのは
仏教には、なくなる疑いとなくならない疑いがあるということです。

信心決定してもなくならない疑いを疑煩悩といいます。
信心決定してなくなる疑いは疑情と言います。
疑いと言っても疑煩悩と疑情があります。

私達は信心決定してなくなる疑いは疑情と言われるもので
阿弥陀如来の本願を疑っている心、つまり心の闇です。

同じ疑いでも疑煩悩と言われる疑い。
人やものを疑ったりする心。
これは信心決定しても死ぬまでなくなりません。

これを疑といわれます。
煩悩は死ぬまでなくならない、
疑情は救い摂られると綺麗になくなります。

六大煩悩にある疑は、疑煩悩です。


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# by sakyamuni | 2018-09-18 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

今がわかれば過去世に戻らなくても
今の姿が判れば過去世のことがわかります。
因果応報だからです。

過去世に戻らなくても、タイムマシンがなくても、
そんなものないけど、
今の姿がわかれば過去世のことがわかります。

自分の過去のたねまきが、
自分の現在の運命を生みだしたからです。

今の姿がハッキリすればハッキリします。
だから仏教の出発点は自己自身を知ることです。

短い言葉ですが大変な御心が込められています。
だから親鸞聖人の教えは現在の教え。
三世は一念におさまります。
信の一念で、心の闇が破れて大安心大満足の絶対の幸福になれます。

常に親鸞聖人の教えは現在を明らかにする、
現在の教えです。
三世因果が仏教の根本です。

平生業成、現生不退、不体失往生が親鸞聖人の教えです。
実に仏教の根幹である因果の道理をもとにして、
親鸞聖人は三世因果を根幹に置かれて
私たちに本当の仏教を明らかにされています。


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# by sakyamuni | 2018-09-16 12:00 | 因果の道理 | Comments(0)