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フローは続かない

ピカソと言う人がいた。
このぐらいの芸術家になると幸せを感じる領域がちがう。
ピカソは絵を書いているときに幸せになった。

そのピカソは筆をおくとたちまち不機嫌になった。
豚の尻みたいな顔をした奥さんがくるとか
かばのようのな子供が来るとか
国税庁から「お前、脱税してるだろ」ときたりすると
「うるさいなー」となる。

実は私の母も芸術家。
名前をいうとみんなびびるから言わない。
髪を振り乱してやっている。

でも終わると
「冷蔵庫にあったケーキ誰、たべたの」
とたちまち不機嫌になった。


志村けんという人がいたよね。
「東村山三丁目♪」といって馬鹿殿。
しかし舞台からおりるとたちまち不機嫌になる。
豪邸に一人でいる。

芥川がいうところのまさに道化師、ピエロ。
みんなといるときにはさも面白げなようすをしている。
みんなにつまらないと
こういうのがコメディアンにおおい。
チャップリンもそうだった。

お母さんもお客さんが帰るとたちまち不機嫌になった。

「ほほほっ、ようこそいらっしゃいました」
かえると

「いつまでいるつもりだったのかしら〜、ほらっ、片付けるの手伝って!」
さっきとだいぶ違うなぁということになる。

旅行いってもその計画を立てている時には楽しいが
終わって帰るときの倦怠感といったら。
つまり喜びや幸福は続かない。

満足が得たくってがんばっているのに求めても求めても一時的な
喜びしか得られないから、一生これらを求めて、不安や不満を抱えて
いなくてはならない。

求めても求めても
安心を求めようとしても
それは一時的な人生の小目標程度なら、
いいよ、
でも人生の目的というのは一時的なものではなくって。
大安心、大満足のみになること、

この「大」は単に大きいということではなくって、
変らないということ。
これを仏教の言葉では信と楽という。

これを信楽まことにときいたり、という。
歎異抄の中には摂取不捨の利益という。




# by sakyamuni | 2021-07-09 18:23 | 生きる意味

人間の苦しみの根元は何かについて
正信偈』に
「還来生死輪転家」
と教えられている。

生死」というのは苦悩のこと。
人間にとって死ぬほど苦しいことはないから苦悩をあらわす。
死ぬほどつらいことはないと言う言葉のとおり、死ほどの苦はない。
だから生死は苦しみをあらわす。

また、その苦しみを生み出しているもののなかに、煩悩があるぞといっている。
除夜の鐘が108つなるのは
来年こそは煩悩にわずらわされないようにという意味で。

これは欲などがそう。
食いたいのみたい。
……食欲。

金がほしい。
……財欲

彼女ほしい。
……色欲

人から誉められたい。
……名誉欲。

楽がしたい。
……睡眠欲

これらが妨げられると怒りの心がでてくる。
また恨みのこころがでてくる。

欲、怒り、愚痴。
こういう煩悩があってこの煩悩によって私たちの心が煩わされ、
悩む。

人生というのはその煩悩に煩わされ、苦しみがたえない。
同じことを繰り返して
輪転する。

輪転を現代のわかりやすい言葉でいうと無限という意味。
無限という言葉を漢字四字でいうと無始無終という、

私の小目標は大学に入ることだ、
こうなったらそのために睡眠欲と戦う。
これは名誉欲で頑張る。

大学に合格すると直後に睡眠欲に襲われる。
大学に入ってきて何やりたいと聞かれて
好きな勉強したい。
こんなのうそ。
彼女がほしいという人もいる。

社会に出たら就職。
出世したい。

自分よりも後から入ってきた人がはるかに出世したの。
しかもすてきな女性と結婚する。
私なんかいまだに犬とくらしているのに。
しかもロボット犬。

自分に不足して、自分には足りない何かがあるから、
求めるものがある。

求道する。

求道というのは別に柔道とか、剣道だけではない。
自分に、あれがあったら、これがあったらと思う。
これを一生涯繰り返していく。
これを死ぬまで求道という。

人間の生死輪転の実態というのは
すぐに求めたものが色あせて次のものを求めるということ。

死ぬまで求道するということは死ぬまで不足がある、死ぬまで不満。
死ぬまで苦しみ続ける。
求めるということ自体が不足があり、不満があるから。
死ぬまで不幸ということになってしまう。

これが人間の実相。

ここで生死輪転の家といわれている
」というのは離れられないところ。
私は自分の家に帰らないという人はそれはあなたの家ではないということ

家というのは必ず、自分がかえるところ。

すべての人間の実相。
目標が達成できないと惨めな思いをする。
達成しても最後にばたっと倒れてしまう。

ゴールがわからない人の実相。
この苦しみのワッカから、一歩はなれでること、
これを哲学的な言葉でいうと出離するという。

そのためには生死輪転をしているようないつまでいっても
同じところの繰り返しということになってしまう原因は何なのか?

浜崎あゆみ先生は
「不自然な時代のせいだよと先回りしてあきらめていた」
と歌っている。

歌はいい。
「あんたもあほや、うちかてあほや。
ほなさいなら」
といってるようなもの。
浜崎あゆみにこれがわかったら大哲学者になってしまう。

実は『正信偈』の次の行にその根本原因がかかれている。
その根本原因を解決して、
人間に生れてきてよかったという決勝点がバーンと書かれている。

だから日本の三哲も驚いたし、
評論家の亀井勝一郎も驚いた。




# by sakyamuni | 2021-07-05 12:00 | 苦悩の根元

こんな歌があります。

泣くも夢 笑うも夢ぞ 人の世は
限りある身に 限りない欲

勝った負けた、得した損したと言っているが、みな最後は夢となる。

豊臣秀吉も
露と落ち 露と消えにし我が身かな
難波のことも 夢のまた夢
という辞世を詠っている。

私も夢で1億円宝くじがあったた夢を見たが、
覚めてみたら余計虚しい。

なぜそうなるか、限りある身で限りない欲を満たそうとしているから。
流転輪廻の道を限りある命ですすんでも悲劇あるのみ。


1000万円貯めるとか、看護婦になるとか、学校の先生になるとか、
世界一周するとかをお目的にしている人があるが、それは人生の目的ではない。
いわば「人生の小目標」
たとえて言うならば、マラソンの給水所。
達成したとたんに次々を変わってゆくもの。

人生究極の目的というのは、
これ一つ達成したら悔いがないということ。

とりあえず、これをやりたい。
当面これをやりたい。
とりあえずあれをやりたい、
と何も考えずにやっていくから悲劇が起きる。
究極の目標を知ることが大事。

確かに色々やっているが、みんな中途半端だから、自分に自信がもてない。
何も残っていない。
気迫がない。
そういう人が多い。

ほとんどの人はそれで失敗している。
ごく少数の成功した人はそれを知って成功している。

「世人薄俗にして共に不急の事を争う」
という言葉がある。

世の人は考えが薄く、あさはかで、
みんな、急がなくていいことばかりいそいでいる。
目先の快楽、目先の楽を求めている。
お金を得ようと争っている。
異性を求めて争っている。
出世しようと争っている。
目立とうとして争っている。
じゃあ、お金をえてからどうするか?
彼氏や彼女を作って、それからが問題。
出世して余計にしんどくなることもある。

後1週間の命だとしたら、これらのものを追い求めるだろうか?

昔、金メダルを売った人がいた。
なぜか?難病をわずらって大手術が必要になった。
それには経費がかかる。
そうなったら、金メダルも価値がない。
青春をすべて犠牲にして手に入れた金メダルだが、命にはかえられない。
命あっての物種。
命あってこそ、種から生え、実った実りを得ることができる。
命がなくて種だけあってもしょうがない。
実りを得ることはできない。
たまに命あってのものだね、そうだね、ってことと勘違いしている人もあるよ
うですが、物種とは、種のことです。

パスカルが言うように、

「後一週間の命となっても取り組むことが、一生をかけて取り組むこと」なのです。
無常を観ずるは菩提心のはじめなりで、
後わずかな命と思う心が人生を正しいほうへと導いてくれる。

いつまでも生きておれると錯覚しているから、
急がなくていいものを求めてしまうのです。
優先すべきものはなにか、
本当の生きる目的をハッキリさせるのが大切。




# by sakyamuni | 2021-06-30 17:00 | 生きる意味

以前、浜崎あゆみへのインタビューが雑誌に載っていた。

Qいま、ひとつだけ願いがかなうとしたら?

「まずは、お休みが欲しい(笑)。
でも、もし一生にひとつしか願いごとが言えないなら、“変わらないもの”が欲しい」

〜〜〜月間ポップティーン5月号〜〜〜

一生にこれ一つというのが
人間に生まれてきた目的であり、
本当の生きる目的。

この世は無常の世界なので
すべて移り変わっていく。

幸せになれたと思っても、
色あせたり変わったりしてしまう。

だから本当の生きる目的は、
変わらない幸せになること。

もちろん休むたに生きているのではない。
では変わらない幸せとはどんなことなのかが問題。

幸せについてはこちらの記事に詳しく書かれていた。




# by sakyamuni | 2021-06-27 12:00 | 生きる意味

桜というものは、サーと散っていくわけですが、
いっぺんに「せいの、バッ」と散るわけではありません。
どこの桜もそうです。
散るさくらもあればまだ枝についている桜もあるわけです。
しかし、その残った桜も、やがて、遅かれ早かれ散っていかねばならんのです。
アロンアルファーでつけてもダメでしょうかって聞いた人もありましたが、
無駄なあがきです。
ハッキリいって。

良寛さんは、辞世にこのように詠っています。
「散る桜残る桜も散る桜」
散らない桜は一つもありません。
同じように、人間も死なない人はないのですね。
たまに大きな事故があって、飛行機が落ちるとか、船がしずむとか、
大地震で生き埋めになるだとか、
そしてたくさんの人が亡くなった中、自分は生き残った。
残る桜となった。
そして助かった!助かった!と叫ぶわけですが、
それは本当に助かったのでしょうか?
もし死なないことが助かるというならば、
死なない人は1人もないわけですから
しばらく死ぬのがのびただけではないでしょうか?

しかも「三日見ぬ間の桜かな」
今日は元気でも三日もたてば、
きれいだったピンクに輝いていた桜のはなが、
葉桜になってしまう。

人間もそおうで、若いから大丈夫って保証はない。
年の順から死ぬとは決まってないよって言葉を
「老少不定」といいます。

老いも若いも定まっていないってことですね。
金沢では冬になると焼き芋屋さんが回ってきて、
おいもーおいもーおいもー
老いも若きもオイモー。

老少とは、老いも若きもってことです。
老少とは、老いも若きも定まっていない。
何が定まっていないかというと、
死んでいく順番が定まっていないって事です。

いつ死ぬかは分からないということ。




# by sakyamuni | 2021-06-22 17:33 | 無常