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善知識と救いの関係


お釈迦さまが多くの弟子をつれて遊行せられていた時、
小石を手に取られて
この石を河に投げたら石は浮かぶだろうか、沈むだろうか」と尋ねられました。
すべての弟子達は異口同音に
「石である限りどんな小さなものでも必ず沈みます」
と答えるとお釈迦さまは
「石は沈むが自性だが、そんな大きな石でも
 これを浮かばせる船という縁さえあえば、水に浮かぶことができるのだ」
とおっしゃって、どんな極悪人でも善知識に遇ってその教えをきけば、
必ず助かることができるが、反対に善人であっても
悪知識に遇ってその教えを聞けば、必ず地獄におちて苦しむことを
教えられて、真剣に善知識を求めるべきことを諭されています。

また、阿難がある時、釈尊に
「善知識はさとりを得る道の半因縁と思えばいいのでしょうか」
とたずねると
「そうではない。善知識は全因縁である」
と答えておられます。

因縁というのは、これによって救われるということです。
半因縁というのは、貧乏人がよい主人につかえて、
のれんわけをしてもらった時。
「これはみんな旦那さまのお陰です」
と言います。
しかし、半分は自分が一生懸命に働いてのことだから、
主人は半因縁ということになります。

全因縁というのは、赤ん坊が親に育てられるように
みな親の力だから、赤ん坊の為には親は全因縁と言われます。

どのように聞けば、善知識を全因縁と思えるのでしょうか
という質問がありますが、
善知識を全因縁とか半因縁とかは、気持ちをいわれたものです。

絶対に間違いないと信順する気持ちになれるかなれないか。
なれれば全因縁だし、納得できることは従うけれど、
納得できないことは従えないというのは、半因縁。
ピンからキリまであります。

信順できる善知識に遇えた人は早く救われますから、幸せ。
その人にとって、善知識は全因縁になります。

御一代記聞書に赤尾の道宗のことが書かれていますが、
琵琶湖の湖を一人で埋めよといわれた時、
「ハイ畏まりたる」と無条件に服従しています。
それは信心決定の心であり、死ぬまで続きます。

善知識を全因縁と知らされるかどうかは、
偏に聴聞です。
聴聞を重ねるに連れ、光る真実の信心に命を懸けて
従わずにおれなくなってくるのです。
どこまでも仏法は聴聞に極まります。

親鸞聖人は善知識、法然上人のお導きによって、
迷いの打ち止めをなされました。
全く善知識のお蔭様でありましたと
その喜びを和讃に
「真の知識に値うことは かたきが中になおかたし」
「こう劫多生の間にも 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし」
とおしゃっておられます。

ですから、
善知識があったなら、十里二十里はおろか海山越えても馳せ参じ、
その善知識を仏のごとくに敬って
身肉手足をも供養すべきである
と般舟三昧経に説かれています。


by sakyamuni | 2017-10-07 12:00 | 善知識