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真実の信心とは

「滅びざる真実の信」とは何か。

仏法で「真実」といわれるのは「変らない」ということです。
変るものを、「真実」に対して「虚偽」だとか「顛倒」といわれます。

たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず
と教行信証にも教えられています。
では、永遠に変らないものとは、弥陀の本願のみなんです。
弥陀の本願しか、本当の意味であなたを救う力のあるものはないんだから、
どうせ信じるならば力のあるものを信じなさい、と言われたのです。

「本当の意味で」とは「根元を抜いて」
「一時的ではない」という意味があるんです。
だから
「弥陀の本願信ずべし
本願信ずる人はみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり」
といわれます。

仏教では、先ほどのも自力の信心でしたが、
今度の信心も、自力の信心と教えられます。
それは、私の心をどうにかすれば、
真実を信ずることくらいできると思っているんです。
どういう自分の心かということを、まったく分かってない。
これを機の真実に暗いといいます。
親鸞聖人は御自身の心をみられて、その無常の心に驚かれたのです。

心というのは周りに誰がいて、どんな所にいるかによって、
丸っきり違うでしょ。
下宿に帰ったら、足の踏み場もないくらい。洗濯物が上からぶら下がってて
それを取って着ている。床にあるズボンをスライディングで履いている。
人によって全然変ってしまう。

「コンピラ信心」というのがあります。
ある所に金毘羅を信じている頭の弱い夫婦があった。
産婆を呼ぶわけにもいかず、自宅で出産しようとした。
「苦しい苦しい」という母ちゃんの声ばかり。
そこで父ちゃんは金毘羅大権現にたのみに行った。
水も浴びる。しかし全然母ちゃんは助からない。

そこで、「銅の鳥居をあなたに御喜捨しま〜すッ!」と
父ちゃんは大声あげました。
しかし金毘羅は一言もいわない。
母ちゃんの声がくる。
「あんたどさくさまぎれにそんなこと言うんじゃないよ!うちにはそんな金はない!」と。
父ちゃんは、「つべこべ言うな!金毘羅だましてるうちに産んじまえ!」
といったそうです。

ここで大事なのは「心」なんですね。
みんなと一緒にいる時は、真剣にお勤めもする。
しかしやがて煩悩に覆われてしまう。
心は「ころころ」だから仏法では「機」という。

阿弥陀仏の本願まことを聞かせていただいても、
それを信ずる心ではありません。
私たちは、まことさえ聞かせて頂ければそれで助かると思っている。
ところがそんな心はない。

私たちはあると思い込んでいるんですが、
阿弥陀仏が持ってないと見抜かれて、
そしてまことをまことと信ずる心を用意して下さって、
その心を頂いてまことをまことと信ずる。
これが他力の信心なんです。

by sakyamuni | 2017-07-22 12:00 | 信心