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親鸞聖人のご臨終のお言葉

親鸞聖人の御臨末のお言葉
我が歳きわまりて安養浄土に還帰するというとも和歌の浦曲の方男波の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし。その一人 は親鸞なり。
我なくも法は尽きまじ和歌の浦あおくさ人のあらんかぎりは。

親鸞聖人がご臨末にいわれたと言われている。

我が歳きわまりて」とは、親鸞とうとう死んでいく、
安養浄土に還帰す」、
阿弥陀仏にすくい取られたこの親鸞は弥陀の浄土に行くけれど、
安養浄土」とは阿弥陀仏極楽浄土、死んだらどう
なるかがハッキリしておられた。
蓮如上人は

往生一定

といわれている。
信心決定したら、無明の闇が破れたら死ねば極楽行って仏に生まれる事がハッキリする、
往生一定、御助け治定、また往生治定ともいわれ
聖人一流章にも書かれている。

往生一定も治定も同じ死ねば極楽行く事がハッキリする、微塵の疑いもない。
親鸞はいよいよ寿命が尽きるけど弥陀の浄土に行く、
これは親鸞聖人の御著書にも沢山書かれている。

末灯鈔
この身は今は歳極まりてそうらへば定めて先立ちて往生し

親鸞寿命が尽きて死んでいかなければならないけれど、
先立ちて往生、弥陀の浄土に行くことがハッキリしている、定まっている。
浄土で必ず必ずまっております、と仰有ったお言葉。

信心の定まると申すは摂取に与る時にて候なり。
 その後は正定聚の位にて、まことに浄土へ生るるまでは候べし

死ねば必ず浄土に生まれられるとハッキリした。

歎異抄にも書かれています。
有名な第9章

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄
土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらん
と、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじここ
ろにてありけり。

よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、
よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。

よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。
しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、
他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、
いよいよたのもしくおぼゆるなり。

また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、
死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。

久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、
いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、
まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、
娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。

いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。
これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。
踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、
煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。

名残惜しく思えども娑婆のえん尽きて彼の土にはまいるべきなり
肉体の寿命がいよいよ尽きて、死んでいくとき弥陀の浄土に行きますと
ハッキリいわれている。
信心決定したなら、無明の闇が破れたなら、往生一定往生治定とハッキリする。
無明の闇が破れていないときはハッキリしないです。
無明の闇が苦悩の根源ですが、無明の闇とは明かりのない、暗い心。
だから闇、意味を強めて無明の闇と言われ、後生くらい心。

後生くらい心を無明の闇という、後生は私達の死んだ後、
死んだ後がハッキリしない、これを後生くらい心という、
死んだ後が有るのやら無いのやらハッキリしない、あるならどうなるかもハッキリしない、
死んだ後がないともハッキリしない、そういうくらい心を後生くらい心、無明の闇。
いつ死んでも往生一定とツユチリ疑いなくハッキリする、
ひょっとしたら助からないのではと言う心は微塵もなくなる。
死んだら無くなるので無かろうかというのも無明の闇、後生くらい心、
死んだらどうなるかハッキリしない、
そういう心が微塵もなくなるのが往生一定、ツユチリの疑いもなくなる。



by sakyamuni | 2017-07-06 12:00 | 信心