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同じことを聞け

ひとつことを聞きて、いつも珍しく初たるように信の上にはあるべきなり。
ただ珍しきことを聞きたく思うなり。一つのことを幾たび聴聞申すとも、
しく、はじめたるようにあるべきなり。(御一代記聞書130)

ここでおっしゃっているのは同じ事を聞く事の大切さ。
ひとつことを聞きて」、同じ事を何度きいても。
いつも珍しく初たるように」、
同じ事を聞いても、何時も珍しい話、初めて聞いた話、と聞ける。

信の上には」、信心決定した人には、ということ。
阿弥陀仏にすくい取られた人には、同じ話を聞いても、
珍しい話、初めての話と聞ける。

阿弥陀仏に助けられた後、信後。
信後の人は同じ事を何度きいても、初事、初事と聞ける。
信前はなかなかそうは聞けない。
信後のひとは内容的に同じはなしでも初めての話、ときける。
ところが信前のひとは又同じ話となってしまう。
信前のひとには考えられないこと。
私達、知識を求めて聞く。
欲を満足させる。知識欲。知識を得た。
新しいものを得た、そういう知識欲できいていく。
だからいくらすばらしくても多くて3回も聞くといやになってしまう。

素晴らしい映画があった、もう一度みたい、そうおもって見に行った。
ところが2回目は良かった。
ところが3回目、腰が痛い。
その場にいることは重苦しくなる。
次はどうなる、ということがわかってしまう。
だから最初の感動がなくなる。

次はどうなる、と思うと面白くない。
水戸黄門、次はこうなる。
大体分かる。テレビを何度も見ていると、
殆どストーリー同じだから分かってしまう。
面白くない。

私達が求めているもの、絶対の幸福。
しかし私達は知識だけを求めていますから、
それでは相対のものの積み重ねに過ぎません。
だからどれだけ知識を増やしていっても、絶対にはなりません。
信心決定は相対の知識をどれだけ増やしても出れません。
信心とはまことの心。仏智、智慧ということ。

信心という2字をばまことの心と読めるなり、
まことの心と読むうえは、凡夫自力の迷信にあらず、全く仏心なり

ですから、信心決定、阿弥陀仏の智慧、仏智をまるもらいすること。
これを
仏智満入」とか
仏智全領」といいます。

智慧と知識とは全く違ったもの。
知識は1+1=2,というもの。
勉強すればわかってくる。
智慧はどれだけ知識を積み重ねても分からない。

義経と弁慶。
追われて逃げて、ある夫婦の家にとめてもらった。
そこには沢山の子供がいた。全部で、9人の子供がいた。
「いやー沢山の子供がおられますね」
「はい、私の子供が6人、主人の子供が6人、全部で9人なんです。」
それを聞いた義経は納得したけれども、
弁慶は、あれ、何謂ってるんだろう。
おかしいなー。
12人なら分かるけれども。

翌日お礼を言って、でていった。
昼時に、弁慶がわかったー、とうなずいた。
奥さんと主人は再婚。
奥さんの前の連れ子が3人。
主人の連れ子が3人。二人の間に出来た子が、3人。
それで合計9人、こうだったんですね。

こういうのは、知識。
頭の回転の速い人はすっとわかる。
わからないひとは時間がかかる。
しかし、弁慶のような人でも時間をかければなるほど、と分かる。
ところが智慧というのは知識では絶対に分かるものではない。
知識、相対のもの。
どうしてテレビが映るのか。
よーく分かっている人が、丁寧に説明したら、私達でも分かる。
それが知識。
相対のもの。積み上げていけばわかる。
しかし、いくら積み重ねても絶対のものをしることはできない。

信心決定すればおなじことを初事、初事、と聞ける。
それは信前のひとには絶対に分かるものではない。
だったら、どんな話でも初事ときけるのか。
同じ事として聞けるのは、阿弥陀仏の本願の話だけ。
だから、それ以外の学校の授業などは初事ときけない。
仏教は、阿弥陀仏の本願ひとつ教えられている。
だから、信後のひとは信前の人よりももっと聴聞したい、と思うようになる。

では、信前のひとは、どういう心がけがだいじなのか。
ひとつことを聞きて、いつも珍しく初たるように信の上にはあるべきなり
これは信後の人をいわれている。

ところが信前のひとは、
ただ珍しきことを聞きたく思うなり
けれども、そうであってはなりませんよ。

ひとつことを聞きて、いつも珍しく初たるように信の上にはあるべきなり
初事、初事、そういう心がけで聞いていきなさい。
そういわれている。
初事ときくように、という仏法聞く心構えをおっしゃっている。





by sakyamuni | 2017-06-03 12:00 | どうしたら助かる?