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信心をとりて礼にせよ

 親鸞聖人は84歳で善鸞を義別された。
波瀾万丈のご生涯を送られた親鸞聖人にとって、善鸞義別が一番おつらかったこと。
なぜ、善鸞を義別なされたのか。
仏教の結論である一向専念無量寿仏を破壊、蹂躙したから。

 親鸞聖人は
「我が子のために大衆を、地獄に堕としたとあっては親鸞、何と仏祖に申し訳がたつのか」
親鸞聖人が恩愛を断ち切られてまで一向専念無量寿仏を明らかになされたからこそ、
私たち今仏法を聞かせていただける。

 では、何が親鸞聖人のご恩に報いることになるのか。
それは、その人の喜ぶことをしてこそ、恩に報いることになる。
「命を助けてもらった」
と言って相手の嫌いなものを送っても、恩に報いたことにならない。

 では親鸞聖人にとって、何がもっとも喜ばれることだったのか。
それが分かるお言葉。

御文章4帖目15通。「大阪建立」
あはれあはれ存命のうちに、皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり
これは蓮如上人の御遺言。
正しく仏教を伝える先生はみな思っておられること。

遺言には、適当なことは書かない。
人生最後において、これだけは分かってもらいたい、知ってもらいたいということ。
親鸞聖人も同じように思っておられる。

「あわれだなあ、かわいそうだなあ。皆さん、命のあるうちですよ。
早く、信心決定してもらいたい。この親鸞は一日中、これ一つ思い続けているんです」
 何をすることが、親鸞聖人のご恩に一番報いることになるのか。
それは、私たちがこの報恩講で信心決定すること。
「報恩講で信を獲れ」という言葉もある。
信心決定することが、一番のご恩返しになる。

御一代記聞書16番。「信心をとりて礼にせよ
十二月六日に富田殿へ御下向にて候間、五日の夜は大勢御前へ参り候に、
仰に「今夜は何事に人多く来りたるぞ」と。
順誓申され候は「まことに此間の御聴聞申し、有難さの御礼のため、
また明日御下向にて御座候、御目にかヽり申すべしかの間、歳末の御礼の為ならん」
と申し上げられけり。
そのとき仰せに「無益の歳末の礼かな、歳末の礼には信心をとりて礼にせよ」と仰候いき。

年の瀬に富田という人の所に行かれたところ、たくさんの人がいた。
蓮如上人「何でこんなに人がいるんだ」、
順誓「この前の聴聞させていただいた御礼、今度聴聞させていただく御挨拶、
そして年の瀬ですので、皆さんお歳暮をもってこられたのです」
蓮如上人「そんなものは必要ない。明日の説法、真剣に聞きなさいよ」
「何のために来たと思っているんだ。御礼をしたいなら、信心決定して礼にせよ」
 蓮如上人が、常に信心決定あれかしと思っておられたことが分かる。

この御正忌のうちに参詣をいたし、志を運び、報恩謝徳をなさんと思いて、
聖人の御前に参らん人の中に於て、信心を獲得せしめたる人もあるべし、
また不信心の輩もあるべし。以ての外の大事なり。
御文章5帖目11通。「御正忌

 御正忌とは報恩講のこと。志を運ぶとは、財施をされたということ。
そうやってご恩報謝された人がある。
親鸞聖人の報恩講に参詣して、信心決定していないひとがいる。
していないで、どうしてご恩報謝が出来るのか。
 信心決定していない人は、極楽浄土にはいけない。じゃあどうなるのか。

この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり
御文章2帖目2通。「すべて承引」
 お釈迦様は、一切衆生必堕無間と仰有っている。これを後生の一大事という。
 ではなぜ、無間地獄に堕ちるのか。そのような行いをしているから。
仏教では於因説果といわれる。
今の姿が分かれば、一息切れた後の姿もわかる。
では、私たちの姿を仰有ったお言葉。

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、
欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、
臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず。
親鸞聖人『一念多念証文』

 欲、怒り、ねたみ、そねみ。
そういった私たちの煩悩。欲で出来ている。
欲によって、私たちどんなことを思うか。
今日の朝テレビを見ていたら、エビを真っ二つに切って
「おいしいっ!」と言って食べている。
もしあれが私たちだったらどう思うか。カニもあった。
女性が「おいしい〜」と言って食べていた。
蚊が来たら「バシッ」と叩くし、ゴキブリも害虫だといっている。
自分さえよければ、他の人はどうなってもいいという心がある。
 欲があれば、当然怒りも愚痴もある。その心が多く、ひま無くして。
間なし、間がない。だから無間地獄、於因説果だから。
当然のこと。その今の姿をよく見ていかなければならない。

 無間地獄の苦しみの長さ。
人生80年を一ミリとしたなら、無間地獄の苦しみはどれだけの長さか。
地球10周半。これは、目を外に向けていても見えない。
目がうちに向いたときに、初めて見えてくる。
 信心決定しなかったならば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕ちる。
罪を罪とも思わず、悪を悪とも感ぜず、地獄覚悟で突っ走る、
こんな危ないことがあるだろうか。
「井戸のぞく 子を呼ぶ親は 命がけ」
 井戸におちると死んでしまう。
その井戸の恐ろしさが分からないから、子供はバブバブと近づいていく。
その子を呼ぶ親は命がけ。

 親鸞聖人、一向専念無量寿仏と仰有った。
これはイコール信心決定ということ。
一向専念無量寿仏するということは、信心決定すると言うこと。
それを早くせよと仰有っている。それは、一大事があるから。
 親鸞聖人に対してどれだけのご恩があるか。
そのご恩に「私が」報いる。


by sakyamuni | 2017-05-26 18:00 | 信心