憶念称名いさみありて

「憶念称名いさみありて」とは、称名は勇の念仏なり、
信の上は嬉しく勇みて申す念仏なり。
(御一代記聞書51)
「勇み」とはどのような意味でしょうか?

「憶念称名いさみありて」の「いさみ」がわからない。
称名は勇みの念仏なり。
信の上は嬉しくて勇みて申す念仏なり。
信後の念仏は勇みてもうす念仏。
勇みとは勇気の勇、元気がよい、喜びから称える。

勇ましいとよく言う。
「あの人勇ましい」ションボリしていたらいわない。
胸を張って堂々としているのが勇ましい。
信後の念仏は元気のよい念仏、慶びから吹き上がる、
喜びの心からわき出る大信海流出の念仏。

大信海とは信心決定した無碍の一道の世界、
大きな信心の海から流れでる称名、
それでいさみの念仏。

勇みという字を、
「精」と書くことがある。
精進の精、勇猛精進の勇、精進の精。

憶念とは何か知っている。
どちらも思うと言うこと。
しかし憶のおもうと念のおもうは違う。
憶は時々おもいだす思い方。
念というのはズーッと思い続ける念のように思うこと、
明記不忘と言われる。
念というおもいがあるから、憶というおもいが出る。

丁度地下水を掘ると水が出てくる、
水脈にほって掘ると必ず出てくる。
念という明記不忘の水脈があるから憶という水がでる。

好きな彼女と別れるとき、
「私の事思い出してね」といわれて、
「いや僕は思い出さない」。

冷たい奴とおもう。
言いにくい言葉。
アメリカに入ってしまう彼女とか、そういう人に言う。
厳しいしかし、思い出すよと言うことは普段忘れているということ。
思いが出るというのは普段忘れているけれど時々出ると言うこと、
思い出すようでは思いが薄い。

思い出すよじゃ思いが薄い 思い出さずに忘れずに

忘れない、常に。忘れなかったら思い出す必要はない、
その思い出すのが憶、
思い出さずに忘れずに、これが念。

その他力の信心から吹き上がるのが、
憶念称名いさみありて、
という元気のよい喜びの念仏。


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# by sakyamuni | 2017-06-28 12:00 | 信心 | Comments(0)

遠きは近き道理なり。

これは御一代聞書のお言葉。
御一代記聞書はあるとき蓮如上人こういうこといわれたぞ、
こういうことをなされたぞ、
とのちのお弟子お子さん残されたもの。

遠きは近き道理近きは遠き道理と
蓮如上人が言われたお言葉は
御一代記聞書129番

世の中苦労したくない人がおおい。
大学の選択科目、楽なの。
バイト何を選ぶか、楽なのをえらぶ。
楽なのがすきなのに、どうして苦労することを選ぶの?
苦労するとなにかいいことあるの?

仏法は大切にもとむる。同じ話を同じ人から同じ期間きくといっても、
どれくらい大事にきくか、大切にしなさいよと言われている。
それではなぜ大切に求めなさい、聞きなさいといわれているのか?

そのほうがはやくすすめるから。
みなさんが仏教を聞くときに1大事に聞く人、
10大事にきく人がいる。
大事に聞けば聞くほど早く救われる、
早くすすめるから。




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# by sakyamuni | 2017-06-27 12:00 | Comments(0)

釈迦にダイバ

王舎城の悲劇で、
ビンバシャラ王と、韋提希夫人は、釈尊から仏法を聞かせていただくようになるのですが、
新しい人物が登場します。
ダイバダッタです。

この人は、釈尊のいとこで、釈尊がおられなかったら、
インド一の男だったといわれます。
しかし、釈尊のもとに、どんどん人が流れていってしまった。

いとこという近い関係で、しかも才能があったが、そ
れよりすごい才能を持つ人が現れて、自分が認めてもらえない。
これは非常に悔しいです。
勝るを妬む心でいっぱいだったと言われます。
これを愚痴と言います。
お釈迦様を殺そうとたくらむんですね。

ダイバダッタの気持ちになって考えて下さい。
自分が才能もあって、みんなからもてはやされていた。
しかし、ある日突然いとこが来て、自分よりすごい才能を発揮した。
自分についていた人が、どんどんそっちに流れていく。
これは寂しいですよ。むかつきますよね。
ダイバダッタの姿は、全ての人の姿です。
もし自分がダイバだったらと考えてみるとどうですか。

最初は、岩を落として圧死させようとしたんですね。
その時お釈迦様はお釈迦様の足を傷つけて、五逆罪を作ってしまうわけですね。
そして、野象に酒を飲ませて、釈尊を襲わせようとしたんですが、これも失敗するんです。
そうなると、だんだんむかついてきますよね。
何をやってもうまく行かないのですから。
ここで反省すればいいんですけど、そうはならないんですね。
釈尊が素晴らしいからとはもう思えないわけです。
それを認めると、自分がみじめになるから。
別のものを引っぱり出してきて、そいつのせいにするんですね。
「敵の生を射んとすれば、まずその馬を射よか」ということで、
深い企みを巡らすようになるんですね。

そして、その最後に阿闍世に向かってビンバシャラ王と韋提希夫人がどんなことをしたか、
あらいざらい言ってしまうんですね。
そして、ビンバシャラ王は牢で殺され、韋提希夫人が牢に入れられてしまいます。
これが経典に説かれている王舎城の悲劇です。



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# by sakyamuni | 2017-06-26 12:00 | 罪悪 | Comments(0)

王舎城の悲劇で、
韋提希夫人が、牢屋にたたき込まれました。
そこから、非常に苦しみます。
「ああ、阿闍世、母さんはお前のためにどんなに苦労したか」
「こんなことなら産まねばよかった」
「あの子がこんなになったのは、そうよダイバよ」
ダイバダッタと似てないかな。
結局自分の種蒔きと見られないんですね。

これを、ダイバの畜生、阿闍世の餓鬼めと言われます。
そして、お釈迦様に救いを求めるんですね。
ビンバシャラ王は、お弟子の一人なりともといって、結構控えめなんですけど、
韋提希夫人は、どうしてきて下さらないのと言っている。

その時お釈迦様は法華経の御説法の最中でした。
「今日の話を聞かなかったら仏法を聞いたことにならんそうじゃよ」といって、
霊鷲山にみんな集まってきていましたね。
そして、大勢の人が話をしている最中に、突然座を立たれて、すたすたと行ってしまうわけですよ。
これは大変なことです。
ちょっと出来ません。
ということは、よっぽどの大事だったわけです。
トイレいってきます。
なんてもんじゃない。
最もなさねばならない大事といわれています。
法華経を中断されてるんです。
そして、韋提希夫人のもとに行かれています。
よっぽど大事なことだったということです。

法華経と観無量寿経は同時の教だと蓮如上人もおっしゃっています。
つまり、観経はそれほど大事なお経だということです。

法華経と観無量寿経は同時の教だと蓮如上人が仰有った根拠

 これによりて、むかし釈尊霊鷲山にましまして一乗法華の妙典を説か
れしとき、提婆、阿闍世の逆害を興し、釈迦韋提をして安養を願はしめ
たまひしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨
して、韋提希夫人のために浄土の教を弘めましまししによりて、弥陀の
本願この時にあたりて盛なり。
 このゆえに法華と念仏と同時の教といへることは、この謂なり。
 是れ即ち、末代の五逆、女人に安養の往生を願はしめんが為の方便に、
釈迦、韋提、調達、闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議
の本願に帰すれば、必ず安養の往生を遂ぐるものなりと知らせたまへり
と知るべし。                 (御文章四帖目三通)

これは、機の真実を説かれたお経といわれます。
私たちの本当の姿を説かれているということです。
それは、一機と言われます。たった一つ。
これだけ沢山の人がいても、たった一つなんですね。

そして、阿弥陀仏の本願は、その機を救うために説かれたたった一つの法なので、
一機一法といわれます。

ちなみに、一切経は七千余巻あると言われますが、
それは機に合わせて説かれたものだから、それだけ膨大な量になったのですね。

対機説法、あるいは応病与薬と言われます。
機に合わせて法を説くということです。
病に応じて、薬を与えると言うことです。
だから一切経はそれだけ膨大な量になったといわれます。
そうやってお釈迦様は、機毎に説かれたのですが、
その真意は本当の姿を知らせるためだったのです。
そこまで導こうとされた。
因果の道理で統合されて、本当の姿を知らせるために。

その本当の姿は、百万人いたら百万人同じ。一機です。
そうやって一機一法まで導かれた。



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# by sakyamuni | 2017-06-26 12:00 | 生きる意味 | Comments(0)

王舎城の悲劇は、家庭悲劇。
王舎城の惑業苦の中で、最初に権力者について。

権力者の特徴は、
自己中心的ということです。

それが分かるセリフがありますね。
「実は、お前のために、今日はここへ来たのだ」
本当に修行者の為かな。
あなたのためといっているけど、人の為と書いて偽りという字ですね。
「お前のため」というのは権力者の常套手段といわれます。
自分の欲のために来ているんですよね。

謝恩セールがありました。
恩に感謝するといって、利益度外視の商売をしているかといったら、
そんなわけないんですね。
消費者のみなさんのためにといいつつ、買って貰いたいんですね。

選挙もそうです。みなさんのために働かせていただきますといいつつ、
自分が議員になりたいからですよね。
よく見たら、自分のを満たしたいためにやっていることって
色々あります。

そして、修行者が断ると、
「お前のために言ってやっているのに、わしの命がきけんのか。
わしの命令に従わないものは生かしておけん」と、
態度を一変させている。

ところで、ビンバシャラ王のこの姿、私たちにもないでしょうか。

私たちは、そんなこといってもみんなから文句が来るけど、
ひとたび権力を握ったらどういう行動に出るか。
ビンバシャラ王の姿は私たちの姿で、我利我利といわれます。
これが私たちの姿です。
このやりとりを通して、自分の姿を知らないといけません。
権力者の姿は、全ての人の姿を見せてくれているのです。


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# by sakyamuni | 2017-06-25 12:00 | 罪悪 | Comments(0)