二河白道のたとえの阿弥陀仏の呼び声は
汝一心正念にして直に来れ、我能く汝を護らん。
衆て水火の難に堕することを畏れざれ。

阿弥陀仏の本願は、

設い我仏を得んに 十方衆生
至心に信楽して我が国に生まれんと欲うて乃至十念せん。
若し生まれずば正覚を取らじ
唯五逆と正法を誹謗せんことを除かん

阿弥陀仏の呼び声を、本願と対応させたらこうなる。
 汝………十方衆生
 一心……至心・信楽・欲生
 正念……乃至十念
 直来……若不生者
 護汝……不取正覚
 不畏(慈悲)…唯除(智慧)

阿弥陀仏の18願と私とが、一つとなる。
阿弥陀仏は慈悲と智恵の覚体。
慈悲から見たものが呼び声。
智恵から見たものが本願。

阿弥陀仏の呼び声は言葉にならない。
不可称不可説不可思議だから。
声なき声。
片手の音。
鳴かぬカラスの声。

一念は若き女の乱れ髪言う(結う)に言われず
説く(解く)に説かれず

善導大師はこう言われている。
お釈迦様は、正覚大音響流十方
しかし、私たちはそれを聞く耳がない。無眼人、無耳人。
山口県のおかる同行はそのままこい。
ただじゃ。

呼び声を聞いた一念で、光明輝く人生となる。


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# by sakyamuni | 2017-08-17 12:00 | 二河白道 | Comments(0)

善導大師。1300年前の中国の方。
唐の時代、仏教が栄えた時代。

親鸞聖人、正信偈の中で
善導独明仏正意
世界の光と言われる親鸞聖人が、大変尊敬されていた。
30年、仏教の勉強のために床をしいて休まれなかった。
ただ人ではない。

二河白道のたとえ。
たとえというのは、
分かりにくいことをわかってもらえるようにと使う。
たとえだから、当然あわないこともある。

善導大師は何のために作られたか。
「信心獲得するまでの求道の道程を示すため」
心の道程だから、わかりにくい。
そこで、たとえでその道程を少しでも分かってもらいたいと作られた。
善導大師でなければ作れない話。
これは私たちが、とても知りたいこと。

一人の旅人。
幸せを求めて旅していた。
無人空迥の澤。
生きる手段を教える人ばかりで、
人生の目的を知る人がいない。

ある一人の尊い方に出会った。
「本当の幸せを求めているのならば、西に向かって進め」
そして西に向かうと、忽然と大きな河が現れた。
向こう岸が見えない河。水の河と火の河。
それ以上進めなくなってしまった。
向こうは西岸、こちらは東岸。
ためらっていると尊い方
「何をしている、足元を見よ」
細い、白い道が走っているのを見つける。幅4、5寸
「その細い道を進め」
旅人は進むが、たちまち水の河と火の河の波が押し寄せる。
そこですぐに戻ってしまう。
尊い方「何をしている、おまえはこちらで本当の幸せがあったのか。
さあ、早く進め」
そう押し出されて、また進んでいく。
進んではまた下がり、下がってはまた進み。
少しずつではあるが、旅人は進んでいった。

すると、こちら岸に突如、群賊悪獣悪知識が現れた。
「そんなところに行っても幸せになれんぞ、こっちに来て楽しくやろうじゃないか」
と優しく旅人に呼びかける。
旅人は、道が細く苦しい。本当にこの白道が向こう岸に届いているのだろうかと不安。
さらに、いろんな人が呼びかけるので、ふらふらと帰ってこようとする。
みんなが帰って来いと言う中、尊い方だけが
「何をやっている、西に向かって進め。こちらにいて、本当の幸せはなかっただろう」
進めと言うのは一人だが、旅人はああそうだなあと知らされて、
また西に向かって進んでいく。

やがて、群賊悪獣悪知識が脅しにかかる。
「おまえのために言ってやったのに。だまされているんだ。
それでも行くなら殺すぞ」
旅人はこの言葉で、また戻ろうとするが、また進み、また戻り・・・
旅人にはわからないが、実は向こう岸から強い力で引っ張られている。
だから進んでいける。ひとえにこの御念力。そして、尊い方のお言葉。

ところが、真中あたりまで来た時、
もうこれ以上1歩も進めなくなってしまった。
水の河が道を潤し、火の河が道を焼く。

もうだめだ、引き返すしかないと振り返ったとき、
やはりその道も河にかき消されていた。とても戻れない。
そしてじっとしていても、そこに河が押し寄せていた。
絶体絶命。行くも死、帰るも死、とどまるも死。これを三定死。

そのとき、西岸上から呼び声が聞こえる。
その声を聞いた一念で、それまでの苦しみがなくなり、
大安心大満足の身になった。
白道は変わらない。
しかし、大安心大満足の心で進むことができ、やがて西岸に着いた。




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# by sakyamuni | 2017-08-16 12:00 | 二河白道 | Comments(0)

いろは歌に学ぶ


いろはにほへと ちりぬるを
色は匂えど散りぬるを
これは諸行無常ということ。

すべてのものは常がない。

生と死の関係は、紙の表と裏。
生死一如といわれる。

人生の目的は死の解決。
そういう世界がなければならない。

それをいろは歌の後半部分に説かれている。

それは無碍の一道
死の恐れなし
渋柿の渋がそのまま甘みかな





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# by sakyamuni | 2017-08-15 12:00 | Comments(0)

化土へゆく3つの条件

死んで化土へゆくには三条件揃わねばならない。
化土とは極楽浄土の片田舎。

その化土へ往生するためには
1日課何万遍の念仏行
2正念往生
3臨終来迎
が必要。

報土往生できるかどうかは信心一つ。
しかし、報土往生できなくても、こういう条件がそろえば、
極楽の片田舎には往生できると浄土宗では教えている。

こういう3条件がそろえば化土には行ける。

さあこういう条件をそろえることはできますか?

これをやっていても、
死ぬまで化土往生は定まらないから、
臨終まで安心できず、
不安な人生になる。

ところが、真実の信心を頂けば、
生きているときに極楽往生が決定する。
信心決定がおすすめ。


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# by sakyamuni | 2017-08-14 12:00 | 仏教 | Comments(0)

僧にして、法を壊つ者あるを視ながら、
これを黙視し、更に呵責駆遣せざる者は、
この僧は、これ仏法中の怨なり。
若し、よく駆遣呵責せば、これ我が真仏弟子なり。
(涅槃経)

呵責駆遣とは誤りを打ち破る事。
破邪すること。

あなたは仏法壊して、何をやっているんだ、
ということです。やっつけるということです。

これは仏法を壊す、法を曲げる事が大変な重い罪である、
ということです。
これを謗法罪といいます。

昔、韓国で橋がおちた事件があった。
韓国の町に行くには、この橋を通らなければならない。
そしていつも渋滞する。

これしか通る橋がないのに、これが壊されることになったら、大変な罪。
これが壊れて、たくさんの車が沈んだ。
そして、それ以後渡る事ができない。
その当時の建設大臣とか全部くび。

よく幸せの架け橋、といいますが、
仏教では川のこちら側にいる、私たちの方、これを此岸。
娑婆。穢土。
そしてあちらの岸、それを彼岸、浄土、極楽、
あちらへの架け橋。たった一本の架け橋。
これを通っていったら、すべての人が幸せになれるんだよ、そういうもの。

この橋を通って、救われた人はその橋のあることを伝えずにおれなくなるのです。
本来、僧とはそういうことを伝える人のこと。
靴下に穴があいていたって。

この道を通らなければ幸せになれない、という橋をぶっこわすのですから、
大変な罪なのです。

交通ルールを守らない人、破る人、これは必ずひどい目にあう、
恐ろしい結果になる。
この交通ルールのことを交通法規、といいます。
真実の仏法、この法を破る、というのは恐ろしい目にあう。

そういう人があるのに、黙ってみている奴がおるか、駄目じゃないか、
そんな所に爆弾をしかけて。
わたれなくなっちゃうじゃないか。
と破る、やっつける、これが仏法者の使命だぞ、黙ってみている、
にんまりしている、とか。
遠くの方から眺めて酒飲んでいるとか、とんでもない話だぞ、
こういうことを教えられたお言葉なのです。

ことわざにも、ネロのごとき暴君なり、という言葉がある。
民衆に火をつけて、よく燃えるわい、といって酒を飲んでいた、
と言われる人なのです。
本来は国民の生命と財産を守るのが使命なのに。

この橋を守って、一人でも多くの人を渡そうとしなければならないのに、
壊すのはもっての外、また何もしないものは考えられない。
破ってやっつけなければならないということなのです。
呵も責もせめる、と言う意味。誤りを破る、ということですね。

最近はどちらかというと穏やか、けんかしない、つかれるのはいや、
こういうような風潮がある。

逆に誰かを責める、やっつけるというところにはタッチしたくない。
そういう傾向があるのじゃないの。

ハワイのアロハの心って知っていますか?
アロハ、これはこんにちはだけじゃない、さようなら、
とか愛しているとかいろんな意味があるのです。
ハワイは人種のるつぼ。いろんな人が移民している。
それらの人が共通して持っているのが、
他の人たちの持っている考え方を否定してはならない、
そして、他の人の宗教を否定してはならない、
ということなのです。

気楽に行け、肩肘はるな、となる。
人の事を悪くいう、その時点で、どんなに立派なことを持っていても、だめな人、
となってしまうのです。

どちらかというと日本もそう。
倫理道徳上からいうと仲良くしよう、
人のことを悪く言ったらよくない、そういうこと大事。

仏法を説かれたお釈迦様は、法を壊すものがあったら、
それを黙って見ている人があったら、大変だぞ、
全人類の一大事、
未来ずっと沈む身になってしまうのか。
全人類の浮沈がかかっている。
すべての人達にその幸せの架け橋を伝えなければならないのに、黙ってみている、
それは仏弟子ではない、と言われているのです。
その根本にあるのは、仏様の大慈悲心なのです。
苦を抜くを慈という、楽を与うるを悲という、と言われて抜苦与楽。
自分だけ救われればいい、というような思いではだめ、
みんなにわたってもらわなければならない、という御心なのです。
そういう意味で邪を破れ、ということなのです。


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# by sakyamuni | 2017-08-13 12:00 | Comments(0)