真実の仏教とは

仏教には七千余巻の膨大な一切経があります。
一切経は分類整理されて、その中で唯一の真実は何か、
現代までにすでに分かっています。

これが真実と言えば、なんでそうなるのかと聞く人がいる。
子供は何でも「何で何で」と聞きます。

それを親鸞聖人がいろいろ聞く人のことを考えられ、
こうだからですよと書かれているのが主著の『教行信証』6巻です。

いろんな宗教を分類され、信ずべきものと捨てるべきものを教えられました。
教行信証は本当の信ずべきものを教えられたものです。
その教行信証の真髄を教えられたのが正信偈です。
ブッダの一切経を凝縮され教えられています。

では、教行信証で何が教えられているか。
一言で言うと「三重廃立」です。
「三重対弁」ともいいます。

「三重」とは3通りの、
「廃」とは捨てるべき、
「立」とは信ずべきもの。
すべての宗教を3通りに分けられ、教えれおられます。


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# by sakyamuni | 2017-12-15 12:00 | どうしたら助かる? | Comments(0)

期待を裏切られた

普段は有り難いな、と思っていないものでも、
心の支えにしていると、
失ったときにその大事さを分かります。

ちょうど空気のようなもの、有って当たり前と思っているが、
突然空気が無くなったら生きていけません。
空気の有り難さを実感している人いないが、なくなったら困ります。

自分が支えにしているものを失ったときに、私たちは苦しみ悩みます。

私たちは、幸せになりたいと思って生きているのに、苦しみ悩みます。

どうしてかといえば、支えにしいたものが裏切ったとき、
私から言うと裏切られたときに苦しみ悩みがやってきます。

健康に裏切られたのが病気の苦しみです。
お金を失ったとき苦しみ悩みます。
地位を失った人は苦しみます。
私たち、これがあれば大丈夫と思っているものがあります。

それに裏切られたとき苦しみます。
一つの話として自分とは関係ないと思っている人いますが、例外はありません。
支えにしているものが皆あります。
それを失ったときに苦しみ悩みます。
あてにしていればいるほど失ったときのショックはひどくなります。
苦しみ悩むが大きくなります。

信頼していた友達に裏切られたとき苦しみます。
涙を流すほど苦しむのは、そのひとを信じ切っていたときです。
本当に信じていた人に裏切られたとき、大変です。

例えば保証人になる.保証人の判子を押してくれ。
この人とは10年のつきあい、断れば人間関係が壊れます。
それで裏切られたときはどうですか?
今まで積み重ねてきたもの全て失います。

親友や恋人に裏切られて、自殺する人もあります。

ですから、信じるときは裏切らないかどうかをよく確かめないといけません。
裏切られるものを信じる自分も悪い。
もちろん、裏切る人も悪いが裏切る人と見抜けなかった私も愚か者です。


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# by sakyamuni | 2017-12-14 12:00 | 信心 | Comments(0)

仏教に教えられているのは、真如です。
真如とは、真実のことです。

仏教では真如に二つある。
依言真如と離言真如。
言葉を離れたのが真実。
しかしそれでは導けませんから、依言真如で私たちに仏法を明らかにされています。

本当の真如。
真如とは言葉では表せません。
だから本当の真如は言葉を離れたものです。

ブッダが真如とは何かと言うことでいろんなお弟子に聞くんですね。
その時に文殊菩薩が真如とは言葉ではあらわせないものと話をした。
いろんな人が真如をいったが、維摩に、ブッダが質問された。
真如とはなにか。
こう聞いたときに、最後維摩はだまっていた。
ブッダはそれを見られてそれが真如なのだ。
維摩の一黙、雷の如し
と仰有った。
これ絶句したのではないよ。
分からなくて黙ったのではない。
分かっていたから黙っていた。
言葉は相対ですから。

本当の真如とは言葉を離れたもの。
言葉では表せません。
言葉は相対であり不完全。
相対の言葉では絶対を表せませんから。

無碍の一道は心も言葉も絶えた世界です。
しかし言葉で表せないからと言って言葉に表せないと誰も導けません。
ブッダでも無理です。

不完全な、仕方ありません。
言葉でしか導けないから、言葉で表されたのが一切経であり、
教行信証です。
これ依言真如といいます。
言葉による、依言真如でしか離言真如に導けません。

指月のたとえがあります。
月という真如を知らせるには指で示すしかありません。
ところが私たちは指しか見ません。
言葉に捕らわれて、月を見ません。

月を知らせるには指が必要。
一切経、教行信証、説法が必要です。
言葉によるしか伝えるすべがないから、
正しい言葉遣い、正しい教学、正しい教学によってここまで進ませていただきます。

一念は若き女の乱れ髪
結うに言われず解くに説かれず

この結うに言われず、解くに説かれず。
これは髪の縁語になっています。
一念は、真如。
真如は言葉では表せないが、喩えて言えば、若い女性の乱れ髪のようなものです。
髪を結うこともできません。
解くこともできません。

ちょうど、結うと解くを、説法する、話をする、これとかけて、教えていますね。
若き女の乱れ髪は髪を結うことも解くこともできないように
一念の体験は沢山の言葉全部使っても説き尽くせません。

百千万劫かかっても説いても説いても説き足りません。
どんなに言葉を尽くしても表すことはできません。
若き女の乱れ髪みたいなものです。
言うことも説くこともできないのが離言真如です。

だからといって説かなければ私たちは永久に救われません。
決勝点まで進ませるには依言真如しかないから、
一切経、教行信証を正しく理解する正しい教学が大事です。

だから説法を正しく聞いて貰いたい。
いくら真剣に聞いても聞き漏らしがあるから正しく聞かせていただく、
その為には教学をしっかり学ぶのが大事になってきます。

依言真如によって離言真如に導かれます。


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# by sakyamuni | 2017-12-13 13:00 | 仏教 | Comments(0)

仏の教えにかなう道は?

仏の教えにかなう道はどんなことでしょうか?
浄土真宗の中興、蓮如上人はこのように教えられています。

ひとたびも仏をたのむ心こそ
まことの法に適う道なれ

この短いお歌で、真実の仏法を明らかにされています。
「ひとたび」とは一念のこと。
「も」は休み言葉で意味はない。
一念とは、何億分の一秒よりも短い時間です。
それをひとたびと言われている。
「仏」阿弥陀仏です。
「たのむ」とは打ちまかせるということです。
一念で阿弥陀仏にうちまかせます。
何をうちまかせるのかというと、後生の一大事です。
後生の一大事を一念で阿弥陀仏にうちまかせた体験が弥陀たのむ一念です。
南無阿弥陀仏を頂く、南無で阿弥陀仏を信じさせられる体験です。

私たちはまことの仏を信じる心がないから、信じる心である南無を頂いて信じるのです。
弥陀たのむ身になってこそまことの仏法に適う道です。
正しい仏教の先生の喜ばれることは信心決定唯一つです。

まことの仏法に適う道が弥陀たのむ一念です。

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# by sakyamuni | 2017-12-12 12:00 | 信心 | Comments(0)

救いは近いか遠いか

仏教を聞いて行くと、心はどのように変わって行くのでしょうか?

聞けば聞くほど段々助からない自分が見えてきます。
始めの内はちょっと頑張れば信心決定できるように思っていたが
聞けば聞くほど簡単ではないと分かってきます。
段々道が遠ざかっているように感じます。
本当は近付いているのだが求めるほど遠ざかっている感じがします。
ひょっとしたら信心決定できないんじゃないかという気持ちになります。

遠き道振り返り見れば近き道

これは信心決定すれば分かります。
求道すればするほど、遠そうだ、まだまだ時間がかかりそうだと思います。
しかし信心決定すれば、近き道です。
これがハッキリした体験です。
近き道と知らされます。
こんな私が救われたのだから、あなたも必ず救われます。
こんな易しいことはありません。
世の中でこんな易しいことはないのです。
これは阿弥陀仏の力で救われたので、無条件の救いだったと躍り上がって喜ばずにおれません。
親鸞聖人は教行信証に信心決定は難しいぞと言う御文がいっぱいあります。
私たちはあまり聞くと、難しいんですか、じゃあやめさせて貰いますとなります。
それで蓮如上人の御文章、これを裏側から、信心決定した体験から。
あら心得やすの安心や、あらいきやすの浄土や
とおっしゃっています。
間違いなく極楽浄土往生できるぞ、こんな易しいことはないぞ。
ウソじゃないです。
両方とも本当です。
真実の自己が知らされれば自分の力では絶対に信心決定できないことが知らされます。
難中の難。

易しい中に易しい。
こんな易しいことはなかったと知らされるから、ただじゃったと喜ばずにおれません。
どちらも本当です。
こう言っても分からないかも知れませんが。
これが二種深信です。

両方本当です。
蓮如上人は救われた世界からおっしゃっている。
相手の心を見て、頑張ろうよ。
言い方が違うだけ親鸞聖人蓮如上人、同じ事をおっしゃっています。
大無量寿経には
易往而無人
とあります。
極楽浄土はゆきやすいけれども人無し
とおっしゃっています。

みな仏法と御縁があっても極難信です。
信心決定が難しい、これを知るはまれです。
ここまで求めぬく人が多くない。
浄土真宗でもほとんど誰もありません。

ここまで求めぬくには命がけです。

求道は遊びではありません。真剣です。
一人一人が何としても求めぬくという気持ち持たなければなりません。
教えの通り実行すればどんな人も必ず決勝点まで進めるようになっています。


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# by sakyamuni | 2017-12-11 12:00 | Comments(0)